魔法少女のパパだが、娘が怪我をしたら俺が出るしかないだろ。 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
少し前。
エミカは、一人で雨玻町を歩いていた。
目的があったわけではない。
どこかへ行きたかったわけでもない。
ただ、家にいると息が詰まりそうだった。
SAOTOME GYMの中には、会員たちの明るい声が響きわたる。
いつもなら、その空気は嫌いではなかった。
けれど今は、何を見ても、
だから、外へ出た。
松葉杖はもう使っていない。
長く歩くと右足の奥が少し痛むが、歩くことはできる。
お父さんからは、今日はもう身体を動かすなと言われていた。
それでも、散歩くらいなら大丈夫だと自分に言い聞かせ、エミカは歩き続けた。
商店街の端を抜け、公園の前を通る。
ベンチでは老夫婦が並んで座り、小さな子供たちが遊具の周りを走っていた。
自転車に乗った中学生が笑いながら通り過ぎ、近くの店先では店員と客が楽しそうに話している。
いつもの町だ。
エミカが、フラワーメイデンとして守ってきた町。
そのはずだった。
「……」
胸の奥に、黒いものが沈んでいる。
お父さんたちが町を守ってくれるのは嬉しい。
ゲキ・マキシマムも、ローズ・アンリミテッドも、キヨナガ・スピリットも、頼もしい。
それは決して嘘ではない。
けれど。
――もうマジカルメイデンズはいらないな。
コメント欄で見た文字が、頭の中から消えない。
――フラワーメイデンがいなくても、別に問題なくない?
違う。
そんなはずはない。
そう思いたいのに、胸の奥の不安は消えなかった。
自分が動けなくなったら。
自分より強い誰かが現れたら。
自分が守ってきた時間は、全部、過去のものになるのだろうか。
守ってくれる存在なら、誰でもいいのだろうか。
フラワーメイデンである必要は、もうないのだろうか。
考えたくないのに、考えてしまう。
「お姉ちゃーん!」
不意に、声がした。
エミカが顔を上げると、歩道の端にサッカーボールが転がってきていた。
公園の入口で、小さな男の子が手を振っている。
「すみませーん! ボール、取ってくださーい!」
「あ、うん」
エミカはボールを拾い上げる。
右足に気をつけながら、軽く転がすように返した。
男の子はボールを受け取り、ぱっと笑った。
「ありがとう!」
その笑顔に、エミカは少しだけ息を止めた。
ただボールを拾っただけだ。魔法少女として戦ったわけではない。
誰かの命を救ったわけでもない。
……それでも、感謝された。
その小さな「ありがとう」が、思ったより胸に響いた。
「……うん」
エミカは小さく手を振り返す。
誰かに感謝されるために魔法少女をやっていたわけではない。
褒められるためでも、必要とされるためでもない。
この町の、こういう笑顔を守りたかった。
それだけだったはずだ。
「……大丈夫」
エミカは自分に言い聞かせるように呟いた。
怖いと思うことはある。
悔しいと思うこともある。
けれど、守ってきたものが消えたわけではない。
誰かのコメント一つで、自分の時間がなくなるわけではない。
そう思おうとした。
その時だった。
空が、紫色に歪んだ。
「え……?」
公園の向こう。
集合住宅の並ぶ方角から、黒紫の光が膨れ上がる。
空気が一瞬で重くなった。
町の音が遠ざかり、代わりに低いノイズのようなものが耳の奥に響く。
悪魔空間。
それが目の前で広がっていく。
「きゃああああっ!」
「あ、悪魔空間だ!」
「逃げろ!」
人々の悲鳴が上がる。
公園で遊んでいた子供たちが立ちすくみ、親たちが慌てて駆け寄る。
通行人が足を止め、車が急ブレーキをかける。
エミカの体は、考えるより先に動いていた。
「みんな、こっちへ!」
声を張る。
魔法少女に変身できない。
相棒のミププもいない。
それでも、何をすべきかは分かっていた。
悪魔空間が発生した時、まず必要なのは避難誘導。
パニックを抑え、境界から離れ、逃げ遅れを減らす。
C.H.A.R.M.の講習でも、何度も教わった。
フラワーメイデンとして戦ってきた中で、何度も実践してきた。
「公園の外へ! 道路の向こう側まで下がってください!」
エミカは子供たちへ駆け寄る。
走ると右足が痛んだ。
それでも止まらない。
「大丈夫。落ち着いて。押さないで、手を繋いで!」
「お姉ちゃん、あれ何!?」
「見ないで。前を見て。大人の人のところまで走って!」
子供の背中を押し、老人の手を取り、動けなくなった女性へ声をかける。
その間にも、悪魔空間は広がっていた。
紫色の薄闇が、集合住宅の一角を飲み込んでいく。
空中には、黒いコメント欄のような枠が浮かび始めていた。
『役立たず』
『逃げても無駄』
『守れないなら消えろ』
文字が流れる。
その言葉を浴びた人々が、足を止めかける。
「聞かないで!」
エミカは叫んだ。
その時、悪魔空間の境界付近で、一人の女性が逆方向へ走ろうとしていた。
「待ってください!」
エミカは慌ててその腕を掴む。
「危ないです! 中に戻ったら――」
「息子が!」
女性は顔を真っ青にしていた。
「息子がまだ中にいるんです! さっきまで一緒にいたのに、人が押し寄せて、手が離れて……!」
「お子さんが?」
「お願いします、離して! 私が行かなきゃ!」
女性は泣きながら悪魔空間へ戻ろうとする。
エミカは腕に力を込めた。
この人を行かせてはいけない。
今入れば、この人まで巻き込まれる。
だけど、子供を置いていくこともできない。
胸の奥で、何かが熱くなった。
「私が行きます」
女性が目を見開く。
「え……?」
「お子さん、私が探してきます。だから、お母さんはここで待っていてください」
「でも、あなた――」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
まともに変身して戦える状態ではない。
魔法も使えない。
右足も万全ではない。
それでも、エミカはそう言った。
「必ず連れてきます」
近くの工事用フェンスが、悪魔空間の圧で倒れていた。
そこに、鉄パイプが一本転がっている。
エミカはそれを拾い上げた。
ずしりと重い。
魔法のステッキとは違う。
可愛くもないし、手に馴染むわけでもない。
それでも、何も持たないよりはましだった。
「お願い、無茶しないで……!」
女性の声を背に受けながら、エミカは悪魔空間へ踏み込んだ。
Θ
「エミカァッ!」
ゲキ・マキシマムの叫びが、悪魔空間に響いた。
集合住宅の裏手。
倒れたフェンスの近く。
エミカは、鉄パイプを両手で握りしめ、スラングドールの前に立っていた。
その背後には、小さな男の子がいる。
膝を抱え、震えながら、エミカの服の裾を掴んでいた。
『守れない』
『弱い』
『生身』
『役立たず』
スラングドールが黒い吹き出しの体を揺らしながら迫る。
エミカは歯を食いしばり、鉄パイプを振った。
鈍い音が響く。
スラングドールの頭部に当たる。
だが、倒れない。
黒い文字が散っただけで、怪物はすぐに体勢を戻す。
次の瞬間、別の一体が横から飛びかかった。
「っ!」
エミカは男の子を庇うように前へ出る。
右足に痛みが走り、膝が落ちかける。
スラングドールの群れが、一斉に黒い吹き出しの体を膨らませた。
『弱い』『生身』『無駄』『守れない』
黒い文字が弾丸のように滲み出し、エミカと男の子へ降り注ごうとする。
その瞬間。
「エミカァッ!」
低く、怒りを含んだ叫びが響いた。
エミカの前に、巨大な影が飛び込む。
ピンクの魔法少女衣装。
そして、壁のような背中。
ゲキ・マキシマムだった。
ゲキは着地と同時に、両腕を大きく広げた。
全身の筋肉が膨れ上がり、衣装に走る魔法のラインがピンクに輝く。
「下がれ!」
叫びと共に、ゲキの両掌が前へ突き出される。
『マキシマム・マジカル波ァッ!!』
轟音。
ピンクの魔力が、衝撃波となって周囲へ爆ぜた。
ゲキ・マキシマムの全身から放たれた圧倒的な魔力の波が、周囲のスラングドールをまとめて吹き飛ばした。
『不要』
『役立たず』
『消え――』
黒い吹き出しの怪物たちが、言葉を最後まで吐き切る前に弾き飛ばされる。
道路を転がり、フェンスへ叩きつけられ、壁にめり込み、黒い文字を撒き散らしながら崩れた。
衝撃波はエミカたちを守るように円形に広がり、周囲にいたスラングドールを一掃する。
一瞬だけ、そこに空白が生まれた。
悪意の文字も、黒い吹き出しも届かない。
ゲキが力ずくで作り出した、一時的な安全地帯だ。
「……お父さん」
エミカは、鉄パイプを握ったまま呆然と呟いた。
ゲキは振り返らない。
ただ、肩越しに低く言った。
「……エミカ」
短い声。
怒っている。
エミカには分かった。
父の背中から、押し殺した怒りが伝わってくる。
しかし、ゲキはすぐに怒鳴らなかった。
彼の視線は、エミカの背後にいる男の子へ向いていた。
震えている。
泣きそうな顔で、エミカの服の裾を掴んでいる。
エミカがなぜここにいるのか。
なぜ無茶をしたのか。
その答えは、そこにあった。
ゲキは大きく息を吸い、奥歯を噛んだ。
そして、低く言った。
「無事でよかった」
エミカの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……ごめん」
「話は後だ」
ゲキは男の子へ視線を落とした。
「立てるか」
「う、うん……」
「よし。ローズ!」
「任せて!」
ローズ・アンリミテッドが薔薇色の光をまとって駆け寄る。
「ローズさん、この子を外のお母さんの元に……」
「わかったわ。お母さんのところまで送ってあげる」
「お母さん……!」
「ちゃんと会わせてあげるわ」
ローズは男の子を抱き上げると、優しく笑った。
「エミカちゃん。よく守ったわ」
エミカは何も言えず、小さく頷いた。
ローズは男の子を抱え、避難路の方へ走る。
その行く手を塞ごうとしたスラングドールを、キヨナガ・スピリットの霊火が焼き払った。
「ローズ殿、道は開けました!」
「ありがと!」
キヨナガはそのまま霊火を広げ、ゲキとエミカの周囲に薄い結界のような炎を巡らせた。
「ゲキ殿! ここは私がしばらく持たせます!」
「頼む」
「ですが、長時間は持ちませんぞ!」
「分かっている」
ゲキはエミカを近くの壁際へ下がらせた。
周囲では、スラングドールがまだ蠢いている。
コメンテイター・デビガノイドの画面が明滅し、空には黒い文字が流れ続けていた。
『もう必要ない』
『代わりはいくらでもいる』
『忘れられた魔法少女』
その文字を見た瞬間、エミカの肩が震えた。
ゲキはそれに気づいた。
「エミカ」
「……悔しいの」
エミカは、ぽつりと言った。
声は震えていた。
「私が守ってきた町なのに」
鉄パイプを握る手も、震えている。
「私が動けなくなったら、もういらないって言われて」
涙が浮かぶ。
こぼさないように堪えている。
「お父さんたちが守ってくれるのは嬉しいよ。本当に嬉しい。町が守られるなら、その方がいいって分かってる」
分かっている。
頭では、分かっている。
守れないより、守れた方がいい。
誰かが傷つくより、誰かが助けられた方がいい。
それなのに。
「でも、怖かった」
エミカは唇を噛んだ。
「みんなは守ってくれる存在だったら、誰でもいいのかなって」
ゲキは黙って聞いていた。
「フラワーメイデンじゃなくてもいいのかなって」
空から黒い文字が降る。
『そうだ』
『誰でもいい』
『強ければいい』
『古い魔法少女はいらない』
ゲキは拳を握った。
「そんなことはない」
低く、はっきりした声だった。
エミカが顔を上げる。
「お前は、悪い声ばかり見すぎている」
「でも、書かれてた」
「ああ。書かれていた」
ゲキは否定しなかった。
見なかったことにはしない。
なかったことにもできない。
言葉は、確かにエミカを傷つけた。
「だが、それだけじゃない」
ゲキは膝をつき、エミカに目線を合わせる。
「お前を待っている声もいっぱいある」
「……」
「フラワーメイデンに助けられた人間は、今も大勢いる」
ゲキの声は静かだった。
「俺は知っている。お前がどれだけ戦ってきたか。どれだけ怖くても、どれだけ痛くても、この町を守ってきたか」
黒い文字が、二人の周囲を漂う。
『過去』
『終わった』
『今はいらない』
ゲキはその文字を睨んだ。
「俺たちは、お前の代わりになりたいんじゃない」
エミカの瞳が揺れた。
ゲキは続ける。
「俺たちは、お前が帰ってくる場所を守っているだけだ」
その言葉が、エミカの胸に落ちた。
帰ってくる場所。
もういらないと言われた場所ではない。
奪われた場所でもない。
自分が戻っていい場所。
ゲキは、そこを守っていると言った。
「
ゲキは少しだけ表情を緩める。
「俺がどれだけ暴れても、ローズがどれだけ華麗でも、キヨナガがどれだけうるさくても」
「……キヨナガさんに聞こえたら怒られるよ」
「構わん」
「しっかり聞こえておりますぞ、ゲキ殿!」
エミカの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「お前が守ってきた時間は、誰にも消せない……それは確かだ」
その言葉で、堪えていたものが崩れかけた。
エミカは俯く。
「……無茶して、ごめん」
「ああ」
ゲキは深く頷く。
「とにかく無事でよかった」
「怒ってないの?」
「ああ、怒っている」
「だよね……」
「だが、今は無事でよかったが勝っている」
ゲキはエミカの手元にある鉄パイプを見る。
「ただ、生身で鉄パイプは感心しないな」
「それは……うん」
「怪我が治ったら、生身で生き残る訓練だ」
エミカは目を瞬かせた。
「ふつう、そこは止めるところじゃないの?」
「本当は止めたい。だが、お前は止めても動く」
ゲキは真顔で言った。
「……なら、せめて帰ってこられるようにする」
エミカは少しだけ呆れたように笑った。
「……お父さんらしい」
「当然だ」
その時、霊火の結界が大きく揺れた。
「ゲキ殿!」
キヨナガの声が飛ぶ。
「そろそろ限界ですぞ!」
『感動話』
『茶番』
『自己満足』
『誰も覚えていない』
『忘れられた魔法少女』
空中のコメント欄が一斉にエミカへ向く。
黒い文字が、弾丸のように降り注いだ。
「させん!」
ゲキが前に出る。
大きな背中で、すべてを受け止めた。
『父親』
『邪魔』
『お前が娘を弱くする』
『守ると言いながら縛っている』
ゲキの肩に黒い文字が突き刺さる。
だが、彼は動かない。
「縛らんさ」
ゲキは低く言った。
「
拳を握る。
その背中に、エミカは手を伸ばした。
迷ったのは一瞬だった。
エミカは、自分からゲキに抱きついた。
変身していない。
戦えない。
今の自分にできることは少ない。
それでも、今伝えたい言葉があった。
「お父さん」
「なんだ」
「頑張って」
エミカは顔を上げる。
「ローズさんも、キヨナガさんも」
キヨナガと、男の子を送り届けて戻ってきたローズが振り返る。
「町を守って」
そして、ほんの少し照れながら、それでもはっきりと言った。
「頑張って、マジカルドースリー!」
ローズが目を見開いた。
「エ、エミカちゃんにまでその名前で呼ばれたら、もう逃げられないじゃない!」
「しかし、民の声援、確かに受け取りましたぞ!」
キヨナガが霊火を燃え上がらせる。
ゲキは、胸の奥から力が湧き上がるのを感じた。
魔法少女の力の源は、声援。
昔、エミカが言っていた言葉だった。
「魔法少女の力の源は声援だよ」
エミカが小さく言う。
ゲキは笑った。
「ああ、そうだったな」
拳に力が入る。
「いつも以上に力が湧く」
ゲキはエミカから離れ、一歩前へ出た。
「エミカ。お前も避難を——」
「大丈夫。私、応援してるから……
「……言っても無駄そうだな」
ゲキは厳しい表情で、エミカを見つめた。
「キヨナガ、新しい結界を頼む。エミカ、お前はそこから一歩も出るな」
「……うん」
「約束できるな」
「約束する」
「なら、そこで見ていろ」
ゲキ・マキシマムの全身に、ピンクの魔力が走る。
「お前が帰ってくる場所を、俺たちが守る」
三連休はどうでしたか?
自分は普通に仕事でした。