魔法少女のパパだが、娘が怪我をしたら俺が出るしかないだろ。 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
人気のない廃工場に、冷たい風が吹き込んでいた。
割れた窓ガラス。
錆びついた鉄骨。
床に散らばった金属片。
かつて何かを作っていたであろう機械は、今では沈黙した鉄の塊となっている。
そんな廃工場の一角で、二人の怪人が床に額を擦りつけていた。
――タカワラーイ婦人。
――イタヴリ博士。
デビデヴィ・クライシスの先行部隊を率いるはずの二人は、今、これ以上ないほど美しい土下座をしていた。
膝の角度は完璧。
背中は床と平行に近いほど美しく伸びている。
両手は指先まで丁寧に揃えられ、額はきっちりと地面についている。
謝罪の型としては、もはや芸術品に近い。
だが、その美しさが許しにつながることはなかった。
「――ねえ」
少年のような声が、廃工場に響いた。
無邪気で、軽い。
まるで友達に話しかけるような声だった。
けれど、その場にいたタカワラーイ婦人とイタヴリ博士の背筋は凍りついていた。
二人の前に立っているのは、金属製の兎の仮面を被った小柄な人物だった。
長い兎耳を模した仮面。
感情の読めない銀色の顔。
その奥にある瞳だけが、ひどく冷たい。
――イヴィト副大隊長。
デビデヴィ・クライシス本隊に属する上位指揮官であり、タカワラーイ婦人たちにとっては、逆らうことなど考えることもできない相手だった。
「どうして、
イヴィトは首を傾げた。
その仕草だけなら、ただの子供のようにも見える。
だが、次の瞬間。
「ねえ。どうして、
声の温度が、すっと下がった。
タカワラーイ婦人の肩が震える。
「も、申し訳ございません……!」
「申し訳ありませんでは足りないよね」
イヴィトは一歩、二歩と近づいた。
コツ、コツ、と硬い靴音が響く。
「
「は、はい……」
「しかもさあ」
イヴィトは、楽しそうに笑った。
「大隊長がお膳立てしてくれたんだよ? シータアース侵略のために、悪魔空間の展開準備も、侵攻ルートも、先行部隊の投入も、ぜんぶ整えてくれてたんだよ?」
タカワラーイ婦人は顔を上げられなかった。
イタヴリ博士も、床に額をつけたまま震えている。
「それを失敗した。町は落とせなかった。フラワーメイデンは倒したのに、なぜか作戦は失敗した。しかもデヴィ・リグまで壊された」
イヴィトは、無邪気に言った。
「ねえ、これ、上に怒られるの誰だと思う?」
答えられる者はいなかった。
イヴィトは少しだけ沈黙した後、兎の仮面の奥で目を細めた。
「大隊長だよ」
空気が重くなる。
「君たちじゃない。大隊長が怒られるの。わかる? 君たちが失敗したせいで、大隊長が上に頭を下げるんだよ」
「も、申し訳ございません!」
タカワラーイ婦人の声が裏返った。
「ですが、イヴィト副大隊長! あれは想定外だったのです!」
「想定外?」
「は、はい! 男です! 男の魔法少女が現れたのです!」
イヴィトの動きが止まった。
廃工場の中に、重たい沈黙が落ちる。
タカワラーイ婦人は必死だった。
「あの男が、フラワーメイデンのメイクアップ・リグを使い、魔法少女へと変身しました! 筋肉質の巨漢でありながら、魔法少女反応を発し、デビガノイドを素手で――」
「婦人」
イヴィトが、優しく名前を呼んだ。
「はい!」
「面白いね、それ」
……明るい声だった。
だが、タカワラーイ婦人は一切安心できなかった。
「男の魔法少女。うん。すごく面白い。
「で、では……!」
「でもね」
イヴィトは、タカワラーイ婦人の頭のすぐ横に足を下ろした。
床の金属片が、ぐしゃりと潰れる。
「言い訳として聞くと、――
タカワラーイ婦人の喉が鳴った。
イタヴリ博士が小さく悲鳴を飲み込む。
「次、失敗したら支援は大幅に削減するからね」
「そ、それだけは……!」
「今でも十分、優しいと思うよ」
イヴィトは指を鳴らした。
空間が黒く歪み、そこから小さな箱が落ちてくる。
イタヴリ博士の目の前に、黒いケースが転がった。
「デビルキーを一つ。あとはデビドールを少しだけ送ってあげる」
「ひ、一つだけですか!?」
イタヴリ博士が思わず顔を上げた。
だが、兎の仮面がこちらを向いた瞬間、すぐにまた床へ額を戻した。
「一つだけだよ。これでも譲歩してるんだから」
イヴィトは楽しそうに言った。
「確実に町を落としてね。次こそ、ちゃんと成果を出して。じゃないとさあ」
イヴィトは、ぴょん、と軽い足取りで後ろに下がった。
「もう、君たちに期待する意味、なくなっちゃうよ?」
その言葉は、あまりにも軽かった。
軽いからこそ、恐ろしかった。
タカワラーイ婦人とイタヴリ博士は、声を揃えて叫んだ。
「必ずや、成果を!」
「必ずや、シータアースをデビデヴィ・クライシスのものに!」
「うん。がんばってね」
イヴィトは手を振った。
次の瞬間、その姿は黒い霧となって消えた。
廃工場に、静寂が戻る。
しばらく、二人は土下座の姿勢のまま動けなかった。
やがて、タカワラーイ婦人がゆっくりと顔を上げる。
美しい銀の縦ロールが、わずかに乱れていた。
「……博士」
「は、はい、婦人」
「後がないわ」
「でしょうね……」
イタヴリ博士は震える手で黒いケースを開けた。
中に入っていたのは、一本の
人間の負の感情を貫き、デモンコアへと変えるための悪魔の鍵。
たった一つ。
失敗は許されない。
「デビルキーは一つ。デモンコアにする人間は、慎重に選ばなくてはならないわ」
「となると、強い負の感情を持つ人間だ。怒り、嫉妬、支配欲、劣等感、憎悪……質の高いデモンコアを作るには、素材選びが何より重要ですね」
「ええ」
タカワラーイ婦人は立ち上がった。
そして、廃工場の中を見渡す。
「博士。悪魔兵器を作りなさい」
「今からですか!?」
「ええ。対ゲキ・マキシマム用の最高傑作を」
イタヴリ博士は目を見開いた。
「しかし婦人、材料はどうするのです? デヴィ・リグもなく、支援物資も乏しい。まともな悪魔兵器を組むには、部品も予算も――」
「この廃工場にあるものを使いなさい」
タカワラーイ婦人は即答した。
「足りない分は、残った軍資金をすべて使うわ」
「すべて!?」
「そうよ。後はないの」
その声には、追い詰められた者の覚悟があった。
イタヴリ博士は唇を噛み、やがて不気味に笑った。
「ふ、ふふふ……いいでしょう。婦人。廃工場の重機、鉄骨、圧砕機、古い作業アーム……使えるものはあります。対ゲキ・マキシマム用の重機型悪魔兵器。作ってみせましょう」
「頼むわよ、博士」
タカワラーイ婦人の身体を黒い光が包む。
禍々しい幹部の姿が消え、そこに背が高い女性が立っていた。
タカワラーイ婦人が人間社会に潜伏するための姿だ。
「私はデモンコアの候補者を探してくるわ」
そう言い残し、タカワラーイ婦人は廃工場を後にした。
Θ
町は、いつも通りの日常を装っていた。
誰も知らない。
先日、この町を覆った悪魔空間の脅威が、再び近づいていることを。
人間に扮したタカワラーイ婦人は、人々の中を歩きながら目を細めた。
人間。
弱く、脆く、愚かで、感情に振り回される生き物。
そのくせ、心の奥に溜め込む負の感情だけは、時に悪魔すら驚くほど濃い。
「さて……どの子がいいかしら」
その時だった。
「おい、聞いてんのかよ」
路地の奥から、乱暴な声が聞こえた。
婦人は足を止める。
見ると、数人の学生が一人の気弱そうな少年を取り囲んでいた。
中心にいるのは、いかにも学校の中で目立つタイプの少年だった。
整った茶髪。
高そうな靴。
人を見下すことに慣れた目。
周囲の取り巻きたちは、彼の顔色をうかがいながら笑っている。
「金、持ってんだろ? さっさと出せよ」
「で、でも……この前も……」
「あ?」
リーダー格の少年が、気弱な少年の胸ぐらを掴む。
「俺に逆らうわけ?」
「ち、違……」
「なら出せよ。お前みたいなのが俺らと話せるだけありがたいと思えって」
取り巻きたちが笑う。
婦人は、じっとその光景を見つめた。
支配欲。
優越感。
他人を踏みつける快感。
そして、その奥にある空虚。
悪くない。
いや、かなりいい。
婦人の唇が、薄く笑った。
「見つけたわ」
彼らはカツアゲを終えると、人気のない空き地へと移動した。
婦人は気配を消し、その後をつける。
空き地に着くと、リーダー格の少年は奪った金を数えながら笑っていた。
「やっぱ楽だよな、あいつ。ちょっと脅せばすぐ出すし」
「マジで逆らえないもんな」
「そりゃそうだろ。俺に逆らったら学校で終わりだし」
その言葉に、婦人は確信した。
この少年は、自分が人を支配する側だと信じている。
だからこそ、壊した時に濃い悪魔エネルギーが出る。
「ごきげんよう」
突然の声に、少年たちが振り返った。
「あ? 誰だよ、おば――」
最後まで言わせなかった。
婦人の手に、黒い鍵が現れる。
リーダー格の少年が何かを言うより早く、その鍵は彼の胸に突き刺さった。
「がっ……!?」
少年の身体が大きく仰け反る。
取り巻きたちが悲鳴を上げた。
「な、何して――」
「安心なさい」
婦人は微笑んだ。
「あなたたちは、ただ恐怖すればいいの」
少年の胸から、黒と赤の光が溢れ出す。
怒り。
恐怖。
支配欲。
誰かを見下したいという醜い感情。
それらが渦を巻き、少年の身体ごと一つの球体へと凝縮されていく。
デモンコア。
婦人はそれを見つめ、満足げに笑った。
「いい素材だわ」
Θ
病院の一室では、まったく別の時間が流れていた。
白い天井。
消毒液の匂い。
窓から差し込む昼の光。
ベッドの上には、五月女エミカが横になっていた。
顔色は少しずつ戻ってきている。
だが、右足にはまだ固定具がつけられており、身体には戦いの傷が残っていた。
そのベッドの横に、五月女ゲキが座っている。
大きな身体を病室の椅子に押し込めるようにして座る姿は、少し窮屈そうだった。
「病院ってのはな、エミカ。悪いことばかりじゃないぞ」
ゲキは腕を組み、妙に真剣な顔で言った。
「……え、何の話?」
「パパもな、昔はよく世話になった。トレーニングで無茶して、肩をやったり、脚をやったり、肋骨をやったり」
「やりすぎでしょ」
「ハッハッハ! 若い頃は、限界ってやつに挨拶してから殴りかかるタイプだった」
「それ、今もあんまり変わってない気がする」
エミカが呆れたように言うと、ゲキは豪快に笑った。
「まあ、とにかくだ。病院食は薄味だが、身体にはいい。ちゃんと寝られる。余計なことを考える時間もある。自分を見つめ直すには、もってこいだ」
「それ、武勇伝っぽく言うこと?」
「武勇伝じゃない。人生訓だ」
いつも通りのゲキだった。
大きな声で笑って、少し大げさで、何でも前向きに変えようとする。
けれど、エミカはその明るさが、逆に気になっていた。
しばらく沈黙した後、エミカは小さく口を開いた。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「何も、言わないの?」
ゲキの表情が、少しだけ変わる。
エミカはシーツを握った。
「私が……フラワーメイデンだったこと」
病室の空気が静かになる。
窓の外から、遠く車の走る音が聞こえた。
ゲキは、すぐには答えなかった。
ただ、エミカの顔をまっすぐ見ていた。
「……最初から、なんとなく感づいてたさ」
「え?」
「お前が十一の頃からだ」
エミカの目が揺れる。
「
「お前のパパだからな」
ゲキは、少しだけ笑った。
「夜にこっそり抜け出す。妙に疲れて帰ってくる。怪我をごまかす。ニュースじゃ、同じ時間にフラワーメイデンが戦ってる。さすがに気づく」
「……気づいてたなら、どうして」
「何度も止めようとした」
ゲキの声は、低かった。
「動画サイトで見た。ニュースでも見た。お前が敵と戦ってるところを何度も見た。吹っ飛ばされて、立ち上がって、また誰かを守りに行く姿を見た」
エミカは何も言えなかった。
「画面の向こうに飛び込めるなら、何度でも飛び込んでた。怒鳴ってでも止めたかった。お前は俺の娘だ。怪我なんかしてほしくない。怖い思いなんかしてほしくないと」
ゲキは拳を握った。
大きな拳だった。
何かを守るために鍛えられた拳。
「でもな」
その拳が、ゆっくりと開かれる。
「――
エミカの瞳が見開かれる。
「俺の娘は、誰かを守るために戦ってた。怖くても、痛くても、逃げなかった。すごい魔法少女だった」
「……お父さん」
「本当は、ずっと言いたかった。よく頑張ったなって。すごいぞって。けど、それを言ったら、お前が背負ってるものを認めることになる気がしてな。父親として、どうすればいいのか分からなかった」
ゲキは、苦笑した。
「悪かったな。パパも、まだまだ未熟だ」
エミカの目から、涙がこぼれた。
ずっと隠していた。
――心配させたくなかった。
――怒られると思っていた。
――やめろと言われると思っていた。
でも、本当は。
……見ていてほしかった。
頑張ったと、言ってほしかった。
「……ありがとう」
エミカは泣きながら言った。
「ありがとう、お父さん……」
ゲキは立ち上がり、そっとエミカを抱きしめた。
大きな腕が、壊れ物を包むように優しく回される。
「よく頑張ったな、エミカ」
「うん……」
「でも、休め。治すことが、今のお前の戦いだ」
「うん……!」
エミカは涙を拭き、少しだけ笑った。
「私、早く治す。ちゃんとリハビリして、また――」
そこで言葉が止まる。
――また戦う。
そう言いかけて、自分の身体がまだ思うように動かないことを思い出した。
ゲキはその不安に気づいたが、あえて明るく言った。
「焦るな。病院食を食べて、よく寝て、先生の言うことを聞け。筋肉も魔力も、回復には休養が必要だ」
「魔力を筋肉と一緒にしないでよ」
「だいたい同じだ」
「絶対違う」
いつものやり取りが戻る。
エミカは少しだけ表情を和らげた。
そして、ふと思い出したように尋ねる。
「そういえば……デビデヴィ・クライシスはどうなったの?」
……ゲキの肩が、ぴくりと動いた。
「ん?」
「私、途中で意識なくなっちゃったから。誰が倒してくれたの? マジルカニャンニャ達?」
「あー……」
ゲキは目を逸らした。
「まあ、その……通りすがりの、
「通りすがり?」
「うむ」
「魔法少女?」
「まあ……広い意味では……」
ゲキの額に汗が滲む。
エミカは怪訝そうに目を細めた。
「お父さん、何か隠してない?」
「ハッハッハ! パパが隠し事なんかするわけないだろう!」
「笑い方が怪しい」
その時、病室の扉がノックされた。
入ってきたのは担当医師だった。
「五月女さん、少しいいですか」
ゲキは内心で救われたように息を吐いた。
医師はエミカの状態を確認し、カルテを見ながら穏やかに言った。
「回復はかなり早いですね。この調子なら、退院もそう遠くありません」
「本当ですか!」
エミカの表情が明るくなる。
「ただし、右足の負傷があります。退院後もしばらくは松葉杖を使ってもらうことになります」
「……松葉杖」
「無理は禁物です。焦らず、段階的に回復していきましょう」
医師はそう告げると、いくつか注意事項を説明して病室を出ていった。
扉が閉まる。
病室に、再び静けさが戻った。
そのタイミングで、ベッドの横にいたピンク色の小さな精霊が、もぞりと動いた。
ミププだった。
丸い耳。
短い手足。
ふわふわした身体。
ぬいぐるみのような見た目だが、その表情はいつになく真剣だった。
「エミカ」
「ミププ?」
エミカが振り向く。
ミププは、少しだけ迷うように耳を伏せた。
だが、すぐに顔を上げた。
「
ゲキの表情も引き締まる。
「今回のダメージで、エミカの魔力回路は大きく傷ついてるミプ」
「……うん」
「今の状態で変身するのは、
エミカの顔から血の気が引いた。
ミププは続ける。
「無理に魔力を流せば、激痛が走るミプ。それでも無理をすれば、損傷がもっと悪化する可能性があるミプ」
「それって……」
エミカの声が震える。
「私、もう……フラワーメイデンに、なれないってこと?」
ミププはすぐには答えなかった。
その沈黙が、エミカの胸に突き刺さる。
「……そっか」
エミカは俯いた。
さっきまで少し戻っていた明るさが、一瞬で消える。
「そっか……私、もう……」
「おい、ミププ」
ゲキが低い声を出した。
「そんなにはっきり言わなくてもいいだろ」
だが、ミププは引かなかった。
「はっきり言わないと、エミカは無茶するミプ」
ゲキは言葉を詰まらせ、ミププの声は震えていた。
けれど、その目は真剣だった。
「エミカは、町で誰かが泣いてたら絶対に飛び出すミプ。自分が痛くても、怖くても、変身しようとするミプ。だから、今は危ないって、ちゃんと言わなきゃ駄目ミプ」
ゲキはエミカを見た。
エミカはシーツを握りしめ、唇を噛んでいる。
その姿を見て、ゲキは深く息を吐いた。
「……そうだな」
ゲキは静かに言った。
「お前の言う通りだ、ミププ」
「ミプ……」
「エミカ」
ゲキは、娘の目線に合わせるように腰を落とした。
「今は無茶するな。頼む」
「でも……町が……」
「町は俺が何とかする」
エミカが顔を上げる。
ゲキはまっすぐに言った。
「お前が戻るまで、パパが何とかする。だから、お前は治すことだけ考えろ」
「……お父さん」
その言葉の意味を、エミカはまだ知らない。
ゲキが何になったのかを、まだ知らない。
ミププは小さく咳払いした。
「それに、完全に駄目って決まったわけじゃないミプ」
「え?」
「少量の魔力を少しずつ流して、傷ついた魔力回路を慣らしていくリハビリをすれば、いつかまた変身できる可能性はあるミプ」
エミカの目に、わずかな光が戻る。
「本当に?」
「簡単じゃないミプ。痛みもあるミプ。時間もかかるミプ。でも、可能性はあるミプ」
エミカは涙を拭いた。
「……やる」
その声は、小さいけれど強かった。
「私、リハビリする。もう一度、フラワーメイデンになる」
ゲキは頷いた。
「その意気だ」
その時だった。
ミププの耳が、ぴくりと動いた。
「……ミプ?」
表情が変わる。
さっきまでの真剣さとは別の、警戒の色。
「どうした?」
ゲキが小声で尋ねる。
ミププはエミカに聞こえないよう、ゲキの肩へ飛び移った。そして、耳元に口を寄せる。
「嫌な気配がするミプ」
ゲキも声を落とした。
「嫌な気配?」
「前に戦ったデビガノイドと同じ感じミプ。小さいけど、確かにあるミプ」
ゲキの目つきが変わった。
その直後、ゲキのスマホが震えた。
画面には、C.H.A.R.M.からの緊急通知が表示されている。
小規模悪魔空間発生。
市街地にデビドール反応。
未確認大型反応あり。
ゲキはスマホを握りしめた。
「……来やがったか」
エミカが不安そうに尋ねる。
「お父さん?」
ゲキはすぐに表情を切り替えた。
「ちょっとジムの件で連絡が入った。エイコーだけじゃ手が回らないらしい」
「本当に?」
「本当だ」
エミカは疑うような目を向けたが、今はそれ以上追及できなかった。
ゲキは立ち上がる。
「すぐ戻る。ミププ、少し借りるぞ」
「えっ、ミププも?」
「ジムの……まあ、いろいろだ」
「絶対ジムじゃない気がする……」
エミカの疑いの目を背中に受けながら、ゲキは病室を出た。
その後、背後からミププが呼び止める。
「ゲキ」
「ん?」
「手を出すミプ」
ゲキは眉をひそめながらも、右手を差し出した。
ミププの身体から、淡い光があふれる。
その光は粒となって集まり、ゲキの手の中で形を作っていく。
やがて現れたのは、ひとつのメイクアップ・リグだった。
エミカが使っていたものとは別の、新しいリグ。
ゲキは目を見開いた。
「これは……」
「
ミププは静かに言った。
「もともとは、マジカルメイデンズの新メンバー用に、精霊界から持ってきていたものミプ」
「そんな大事なものを、俺に渡していいのか?」
「本当は、普通なら駄目ミプ」
ミププはゲキを見上げた。
「でも、ゲキは変身したミプ。メイクアップ・リグが、ゲキの心に応えたミプ」
小さな精霊は、真剣な顔で続けた。
「だから、今はこれを持っていくミプ。エミカが戻るまで、町を守るために」
ゲキはメイクアップ・リグを握りしめた。
重さはほとんどない。
だが、その小さな道具には、娘が背負ってきたものの重みがあった。
「……分かった」
ゲキは静かに頷く。
「借りるぞ、ミププ」
「貸すんじゃないミプ」
ミププは、少しだけ照れたように鼻を鳴らした。
「今のゲキには、必要なものミプ」
病院の自動ドアが開く。
外の空気が流れ込んでくる。
遠くの空に、かすかに黒い歪みが見えた。
悪魔空間。
誰かが、助けを求めている。
そして今、エミカは戦えない。
ならば。
「行くぞ、ミププ」
「ミプ!」
五月女ゲキは走り出した。
娘が守ってきた町へ。
魔法少女として。
父親として。
そして、フラワーメイデンの帰りを待つ者として。