五等分の星月夜〜武術を極めた転生者は、不器用な五女を裏から支えたい〜 作:夜幻
第7話「崩れ始める均衡——不器用な心が零れる瞬間」
朝の教室に入った瞬間、中野五月は一度だけ足を止めた。
理由は分からない。
だが、呼吸が少しだけ浅い。
(落ち着け……)
ノートは整っている。
教科書も揃っている。
いつも通りのはずだ。
それなのに、どこかが噛み合っていない。
教壇に立つ。
「では、始めます」
声は出る。
問題ない。
そう思った瞬間、一問目で手が止まった。
「ここは……」
チョークが動かない。
沈黙が一瞬だけ教室を支配する。
蓮はすぐに気づく。
(集中が切れている)
原因は明白だ。
昨日までの“蓮の言葉”が残っている。
護衛という単語。
知らなくていいという線引き。
それが思考に干渉している。
「やめろ」
蓮の声。
五月が振り返る。
「え……?」
「今は進めるな」
即断。
教室の空気がわずかに変わる。
風太郎が視線を上げる。
(また止めるのか)
五月は戸惑う。
「でも、授業が……」
「優先順位が違う」
一歩前へ。
その瞬間、場の重心が変わる。
蓮は黒板ではなく、構造そのものを見ている。
「その問題は分解しろ」
チョークを取る。
そこから先は速い。
説明ではない。
再構築。
思考の順序を強制的に組み替える。
五月はそれを見ながら理解する。
(速い……でも、分かる)
気づけば答えが出ている。
蓮はチョークを置く。
「ここまででいい」
短い終わり。
五月は一瞬だけ息を吐く。
だが違和感は消えない。
(私は今……何をされた?)
正しいのに、納得できない。
その状態が一番危うい。
放課後。
夕陽が教室を橙色に染めている。
蓮は窓際に立ち、外を見ている。
だが視線は遠い。
(接触は続いている)
昨日の連中。
その背後。
まだ見えない意図。
その時だった。
「神城くん」
五月の声。
振り返る。
「少し……いいですか」
蓮は短く頷く。
「何だ」
五月は一瞬迷う。
それでも、言葉を選ぶ。
「昨日のこと……やっぱり、何か隠してますよね」
核心。
蓮は即答する。
「ない」
だが、その一瞬の“間”があった。
五月は気づく。
(今、少しだけ)
それでも確信には至らない。
蓮は視線を逸らす。
「関係ない」
「関係なくないです」
五月の声が少し強くなる。
だが、その強さは揺れている。
蓮は静かに言う。
「知る必要はない」
「どうして……!」
声が震える。
怒りではない。
恐怖でもない。
理解できないものへの抵抗。
蓮は目を細める。
(限界が近い)
だが、まだ折れてはいない。
蓮は短く言う。
「知れば壊れる」
沈黙。
五月は息を呑む。
「私は……そんなに弱くありません」
「強さの問題じゃない」
蓮は続ける。
「優しさの問題だ」
その言葉で、五月は言葉を失う。
自分が“巻き込まれる側”だと理解してしまう。
蓮は背を向ける。
「これは仕事だ」
「仕事……?」
「護衛だ」
短く。
それだけで十分だった。
五月の目が揺れる。
「誰の……?」
蓮は一瞬だけ間を置く。
「君を含めた、五人」
その瞬間、世界の見え方が変わる。
五月は言葉を失う。
蓮はもう振り返らない。
「帰れ」
それは命令ではなく、境界だった。
五月は小さく頷くしかない。
その背中を見ながら、蓮は思う。
(もう戻れない)
だが同時に理解している。
まだ“完全には踏み込ませていない”。
夜が近づく。
星はまだ見えない。
それでも確実に、何かが崩れ始めていた。