〜雛視点〜
人生三度目の翔くん離れは、今のところ順調だ。
家に行く頻度が減った。大会前でも自分でメンタルコントロール──特に調子が落ち込んだ時──ができるようになった。
上手くいっている要因は、自覚したからだと思う。自分が子供だってこと、今までずっと助けられてきたってこと、翔くんの事が好きで大切だってこと。
自覚して、認めて、開き直って、前を向いて。そうやって少しずつオトナになるのかなって、そう思えるようになった。
初めての翔くん離れは小6の頃。
私と翔くんは1コ差。私が小6になれば、当然翔くんは中1。小学と中学で離れ離れになってしまう。
寂しかった。今までのように登下校で一緒だったり、グラウンドで見かけたり、廊下ですれ違ったり、そういうのが全部無くなった。学校終わったら会えるとはいえ、お互い練習があるから長い時間は取れない。家に行っても筋トレしてる時はあんまり話せなくて、柔軟なら一緒にやりながらお喋りできるからその時間を予測して家に行ってた。
本音を言えばもっと構って欲しかった。でも言えない。バスケやサッカーなんかは友だちと一緒だからやってたのに、バレーには本気だって分かるから。それを邪魔するなんてできるわけがなかった。
不満はどんどん溜まっていって。学校では普通に振る舞えたけど、家ではイライラしてることが増えたし、新体操の演技にも影響が出た。
「すごい!」「全小6位だもんね」「お父さんも日本代表だったんでしょ」「全国優勝だって狙えるよ」
調子が上がらない中でも、周りは褒めてくるばかり。イライラしてイライラして、翔くんが大会直前で忙しくて会えなくてそれでまたイライラして。
『いい加減翔くん離れしなさい!』
怒ったお母さんに言われた言葉。怒られた理由も状況も憶えてないけど、その時の気持ちは鮮明に憶えてる。
甘えちゃダメなんだって、これからは独りでやらなきゃなんだって、オトナにならなきゃいけないんだって。泣きそうになりながらそう悟ったのだ。
そして、独りでやろうとした結果が、人生最大の大失敗だった。
小学校最後の県大会、前年に優勝していたのもあって優勝候補の筆頭。クラブの仲間も、コーチも、両親も。誰も負けるなんて考えていなかった。
私はそこでコケた。演技の最中、足を滑らせて、頭が真っ白になって、そのまま最後まで固まったまま。当然結果は悲惨だった。
悔しいとかそんな気持ちは無かった。何が起こったのか分からなくて、ただただ呆然としていた。
そんな私を迎えたのは、手のひら返しした周囲の反応だった。
「なんだ」「全小6位だったのにね」「お父さんは日本代表なのに」「早熟って言うらしいよ」「最近演技もパッとしてなかったし」「中学からはだめかもね」
面と向かって言われたわけじゃない。でも陰口は本人の耳に届くのだ。
何とか泣かずに我慢して帰宅して、そこで待っていたのがお父さんからの叱責。
「何やってるんだ」「県大会だぞ」「今年は全国でも上位を狙えたのに」「途中で演技をやめるなんて」「何とか言ったらどうだ」
お父さんから責められて、お母さんも宥めるばかりで庇ってくれなくて、全部が全部嫌になって……
私は逃げた。家を出てとりあえず公園に籠もって、いい時間になったら翔くん家にお邪魔して。
あの時、翔くんは私を見てすぐに部屋に連れていった。ベッドに腰掛けるとそっと抱きしめられ、背中をトン・トンとされた。部活終わりだからか練習着は湿ってて汗の匂いがしたけど、そんなのどうでもよかった。私からぎゅっと抱きつくと、再度背中をトントンとして、「辛かったね」って言ってくれた。
その一言でもうダメだった。ずっと我慢してたものが全部流れ出した。
わんわん泣いた。大会での失敗、その後のみんなの反応、両親からの叱責、今まで甘えられなかった寂しさ。こみ上げる全部をぶち撒けて泣いた。
泣き喚いて、泣き疲れて、いつの間にか寝ていた。
翌日、私を襲ったのはとんでもない羞恥と、これまたとんでもない驚きだった。
羞恥は、あそこまでギャン泣きして、さらにはそのまま寝入ったこと。小3の時ですらあそこまで酷くなかったのにと、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
驚きは、おばさんから「しばらくうちにいて良いわよ」と言われたこと。てっきりお父さんに連れ帰されて練習させられるのかと思ってた。
着替えとか学校の荷物なんかは寝てるうちに運ばれてたみたいで、学校に行くにも問題ない。強いて言えば、最初翔くんが同じ部屋で寝るのを渋ったことくらいで、それも結局はOKしてくれた。
それからは本当に楽しかった。友達と遊んで、家に帰ってからその事を翔くんに話して。キツイ練習と翔くん離れ、その両方からの解放感に酔いしれていた。
一週間と少し経って、中学バレーの県大会が開かれた。多分出番ないからと見に行くのは断られたから、帰ってきたら大会どうだったのって聞こうと考えていた。
帰ってきた翔くんは険しい顔をしていた。負けた、出番はなかった、言葉少なくそう言って、走りにいこうとする翔くんを見て……私は何をしてるのかと恥ずかしくなった。
「翔くん」
「悪い雛、今はちょっと」
「違うの」
今にも玄関を飛び出しそうな翔くんを呼び止めて、宣言した。
「私、うちに帰るね」
こちらに振り向いた翔くんは驚いた表情をしていたけど、少ししてそれが和らいだ。
「送るよ」
「…ありがと」
その場に腰を下ろした翔くんに背を向けて、急いで荷物をまとめる。夏休みに入っていた事もあって、両手に抱えるほどの大荷物。手を貸そうかとの言葉を断って、斜向かいの自宅へ向かう。
インターホンの前で深呼吸を繰り返す私の背中に、そっと手が当てられた。トントンと優しいリズム、気持ちが落ち着いていく。
「頑張れよ。俺も頑張るから」
「うん」
それだけ言うと、「じゃ」と手を上げて翔くんは走り去っていった。私もそれを見送って、インターホンを押した。
家にいたのはお母さんだけ、すぐに謝ると怒ってはいなかった。なんならお母さんからも謝られた。それは夜になって帰ってきたお父さんも同じで。
不思議に思ってお父さんの顔をよく見ると、バツの悪そうな顔をしているのに気が付いた。お母さんより顔に出やすいそれに、悟ってしまった。
根拠はない。でも直感でわかった。きっと、翔くんが何か話をしたんだと。
こんなにも想われているんだという嬉しさと同時に、このままじゃだめだと思った。
甘えてばかりじゃ、守られてばかりじゃだめだと。
独りで頑張るのは……うん、無理だ。絶対また壊れる。程良く自分で頑張ろう。
こうして、私は初めての翔くん離れを失敗して、二度目の翔くん離れを決意した。
中学の入学式を終えて翔くんと話す。
「おおー。翔くんじゃなくて、藤原先輩って感じ」
「なんだそれ」
お互い制服を着て、同じ学校にいる。それだけなのに、これからまた一緒なんだと感じられて嬉しかった。
「あれ、翔くんの知り合い?」
見知らぬ女子が話しかけてきた。
肩にかかる程度のミディアムヘアが特徴の、可愛らしい雰囲気の美少女。
何となく悪い人ではなさそうだなと感じた。でもある事に思い至って、緩みそうになった気を引き締めた。
翔くんはモテる。小学校高学年の頃からモテ始めて、卒業までに4回は告白されていたはず。
目の前の女はどうか。
恋人じゃないとは思う。だって翔くんから何も聞いてないし、休みにデートしてる様子もない。でもわざわざ声を掛けてくるくらいだし仲は良いんだろう。
恋人だと肯定されるのは怖い。翔くんを盗られてまた独りになったらなんて、想像すらしたくない。でも聞かずにはいられない。一瞬の葛藤を経て、私は茶化しながら聞いた。
「えっ、何ナニ~? その人、翔くんの彼女~? 青春? アオハル? どっちなの⁉」
「どっちも同じだバカ。あと鹿野とはそういうのじゃない」
「なんだつまんないの。まあ翔くんにこんな可愛い彼女がいるわけないか」
「失礼だなコイツ」
デコピンされたおでこを抑えて文句を言いながら、内心胸を撫で下ろした。
その後千夏先輩と話してみるとすごいいい人で、でもやっぱり翔くんと仲良いんだってムッとして。小さい頃から一緒でとか、昔から凄くてとか、子供みたいなマウントを取ってしまった。
「あとは猪がいれば完璧なんだけどな」
解散する前、翔くんが零したセリフ。
その場ではふーんと相槌を打つだけだったけど、心の中にそっとメモをした。
翔くんたちと別れて教室に向かい、黒板に貼られた座席表を見る。自分の名前を探すと同時に、猪は居ないかなと目を通す。
そして見つけたのが、大喜だ。
今だから正直に言えるけど、大喜の第一印象は都合のいいやつがいた、程度である。
ようやく一緒の学校になったとはいえ、新しい環境は不安だった。会いたいし話したい、頑張れとか大丈夫だとか言って欲しい。でもそれだけを理由に会いに行くのは、翔くん離れの決意に反してしまう気がして……そこにちょうど猪が付く人がいた、ただそれだけの男の子。
それが一変したのは花火大会。
花火大会にはクラスメイトと行くことになっていた。でもその日は練習時間が押してしまって、約束の時間には完全に遅刻、会場に着いた時にはもう花火が始まっていた。
早く皆と合流しようと屋台が並ぶ通りを小走りで抜けようとして、一つの屋台が目についた。
りんご飴。ずっと楽しみにしていたお祭りで、一番食べたかったもの。でもその屋台には商品は一つも無くて、売り切れの看板だけがあった。
私はそこで、ポッキリと折れてしまった。
新体操は好きだ。去年大コケして練習をサボって以来、そう思えるようになった。
でも、好きなものを食べるのを我慢したり、友だちと遊ぶのも我慢したり、辛いことの方が多い。それでも今日だけはって楽しみにしてたのに。
「帰ろ」
翔くんに会いたい。翔くん離れとか今はどうでもいい。
翔くんも部活のメンバーで行くって言ってたけど、そんなに遅くはならないはず。家に帰ってご飯食べて、翔くんが帰ってきそうな頃に家行く。辛かったと話して、楽しかった事を聞いて。それでまた明日から頑張れる。今までだってそうして来た、今回だってきっと──
「──ほい」
唐突に、りんご飴が差し出された。顔を上げた先にいたのは、猪股大喜くん。
辛くて悲しくて、全部を諦めていた時に差し出されたりんご飴。
あの時の気持ちを、私は一生忘れない。
クッションを抱えて、壁を背にしてベッドに座る。昂る心のままに足をバタつかせる。
「んふふ」
スマホのトーク画面を開いて、その内容にニヤつき、クッションをぎゅーっと抱きしめる。
『じゃあ18時に公園入口で』
一番最後、大喜が送ったメッセージ。その上には交互に送り合ったメッセージが並ぶ。
勇気を出して花火大会に誘って、一緒に行くことになって、家に帰ってから当日のことをLINEで話して。
それだけでも嬉しかったのに、こうして文字になっていると夢じゃないんだって、本当に大喜と花火大会に行くんだって実感できる。
「えへへ」
有料エリアを取った。花火ゆっくり見たいねって、穴場とか無いかなって話しているうちに、大喜が空きがあるか調べてくれて。
もうほんとやばかった。私だけじゃなくて大喜も楽しみにしてるんだってわかって、当日の楽しみが増えて、今から色んな妄想しちゃって。心が幸せで満たされている。
あの時はLINEでよかった、目の前にいたら見せられないくらいゆるゆるな顔になってたから。
したいことはたくさんある。
焼きそばにフランクフルト、じゃがバター。こういう時じゃないと食べれないものばっかりだし、お腹いっぱい食べたい。大喜は食べ過ぎだろって言うかもしれないけど、その時はその時だ。雛様の満腹スマイルで黙らせてやる。
何より食べたいのはりんご飴。元々好きだったけど、中1の花火大会でもっと好きになった。猪の猪股くんじゃなくて、大喜として認識するようになった、大切な思い出の味。
浴衣だって着たい。小学校以来だけどせっかくのお祭りだし、普段しない格好して、できれば可愛いって思って欲しい。確かお母さんが浴衣持ってたはずだから後で聞いてみよう。浴衣着るならメイクもちゃんとしたい、当日はあんまり時間の余裕ないし、着付けと合わせて今日から練習しよう。
あとはその……手繋いじゃったりするかもって、少しだけ期待してる。人が多いからはぐれないようにーとか、私が誰かとぶつかって転びそうになったのを見てーとか。ほっぺた突いたり膝カックンしたりはあるけど、手を繋いだことはなくて。大喜の手ってどんな感じなんだろって考えて。やっぱり大きくて骨張ってるのかなとか、ラケット使ってるからマメが多いのかなとか、そんな風に妄想して手をニギニギと繰り返す。
「ふへっ」
いけないいけない、乙女がしちゃいけない顔してる。頬に手を当ててぐりぐりと解していると、声が掛けられた。
「雛さーん、幸せなのは分かったからそろそろ帰ってくれます?」
呆れた声の主は翔くん、お風呂上がりのストレッチの際中だ。体勢は片足を畳んで前後に足を開き、お尻を伸ばしているところ。
「えーいいじゃん、家だとお母さんに揶揄われるもん」
「自分の部屋でやれ」
「やだ、誰かに話したい」
「ならそろそろ話せ。いい加減長い」
「はーい」
口では帰れとか言いながらちゃんと話を聞いてくれるあたり、相変わらず甘々だ。
翔くんが体勢を変えて脚を180度近くに開き、足首をふるふると揺らす。それならと、私もクッションを横に置いて、鏡になるように開脚する。
「それでね、今日大喜たちと図書館で宿題してたんだけど──」
柔軟のために力を抜いて、ゆっくりと今日あった事を話す。翔くんものんびりとした口調で返事をくれる。
一人で浸るのもいいけど、こうやって誰かに話す方が私は好き。まあ相手は大体翔くんなんだけど、翔くん離れしようと決めた最近は回数を抑えるようにしてる。
「楽しめるといいな」
「うんっ。翔くんは花火大会行かないんだよね、お土産何がいい?」
「ラムネ」
「りょーかい」
話が一段落した頃、翔くんのスマホが鳴った。翔くんが手を伸ばしてスマホを取り返信する。
「それじゃあおしまい。雛ももう帰れ」
「はーい。もしかしてなんか予定あった?」
「間に合ってるから平気」
つまりはあると。この時間から予定、お風呂入ってるってことは出掛けるわけじゃない、てことは電話……誰と?
そんな事を考えながら、クッションを手に部屋を出る。
「おばさん、クッションお借りしました。ありがとうございます」
「いーえー、すっきりできたかしら?」
「はい! 色々話せてスッキリです」
「ならよかったわ」
ソファで寛ぐおばさんに感謝を伝えて、クッションを元の位置に戻す。
「そう言えば、翔くんって最近誰かと電話してます?」
「してるわよ。4月くらいからかしら。相手は分からないけど、週に1、2回くらいね」
「え、結構多い」
「雛ちゃんだって前は同じかそれ以上にうち来てたじゃない」
「そうでした」
いやまあ最近は月に2、3回だし。それも優勝のお祝いとかの節目だから実質ゼロだよね。
というかそんな頻度で電話してるって、多分相手千夏先輩だよね。それだけ仲良いのに付き合ってないっていうのも、なんだか不思議な感じする。
早く付き合っちゃえばいいのにと思うけれど、それを二人に言ったりはできない。私のそれは、純粋な応援心だけじゃないから。
昔みたいに翔くんを盗られて嫌だなんて気持ちはない。私にとって翔くんが大切なように、翔くんにとっても私は大切。恋人ができて優先順位が変わったとしても、それは変わらない。だから応援する気持ちは本物。
これは私の問題。相手が千夏先輩で、大喜の好きな人だから。千夏先輩に恋人ができたならって考えてしまう、そんな私の醜い部分が出てしまっているだけ。
こんな自分にできるのは、正々堂々勝負すること。
二人の関係には手も口も出さない。大喜には私自身の魅力で振り向いてもらう。
自分を誇れる自分でいたい、翔くんに誇れる自分でいたい。
辛くても、逃げた先の自分を誇れはしないから。辛くても、全力で勝負するのだ。
そんな決意と共に翔くん家を出て、斜向かいの自宅へ帰った。