冷たい空気が漂う1月の早朝、体育館からはボールが床を叩く音が聞こえる。今日は先を越されたみたいだ。
扉を開けるとボールの音が止まり、笑顔を向けられる。
「翔くん、おはよう」
「おはよう鹿野」
軽く挨拶を交わして、鹿野はシュートの練習に戻り、俺はウォー厶アップを始める。中学入学から3年と少し、鹿野とふたりだった早朝自主錬だが、半年ほど前にもうひとり来るようになった。
少し時間が経つ、音を立てて扉が開く。
「藤原先輩、千夏先輩、おはようございます」
「おはよ」
「おはよう猪股くん」
中等部の部活を引退した6月から、猪股は高等部の練習に加わっている。俺や鹿野の次に体育館に来るのは大体猪股だ。
とはいえやる事は変わらない。鹿野は様々な角度距離からシュートを打ち、猪股はフットワークや素振りを繰り返す。やる気をもらいながら、複雑な気持ちを抱きながら、俺はウォームアップを続けた。
1月16日、土曜日。いつものように朝早く体育館へ行くと、笑顔ではなく疑問が投げられた。
「翔くん何かあった?」
「何かって?」
「それはわかんない」
鹿野曰く、なんとなくそう思っただけらしいが、実際に『何か』はあった。
昨日、雛から「大喜が誕生日だからチロルチョコ15個あげた」と嬉しそうに報告された、それだけ。言えるわけがない。
適当に誤魔化して練習を始める。しばらくして、ガラッと勢いよく扉が開いた。
「どうした猪股?」
寒さが際立つ早朝にも拘らず、猪股は汗だくで膝に手をついており、はぁはぁと息も荒い。
「千夏先輩」
顔を上げるや否や、猪股が言った。
「インターハイ行ってください」
鹿野が首を傾げながらこちらを見てくる、首を傾げ返す。鹿野が猪股に視線を戻した。
「俺は、千夏先輩に教わったんです。目標に向かって毎日努力する事も、たとえ負けたとしても前を向き続ける事を。だから諦めないでください。親の転勤とか、自分自身以外の理由で、海外なんて」
鹿野が納得した顔をした。
「そんなの」
「ごめん。行かないんだ、海外」
鹿野がそう遮ると、猪股は「えっ」と間の抜けた声を出した。
「正確に言うと、家族は行くけど私は一人暮らしする事になって」
猪股の顔が真っ赤に染まる。
「っ~~~、ならいいんですっ」
「すごく悩んだんだよ」
足早に去ろうとするが、鹿野のセリフに足を止めた。
「家族と離れるのはやっぱり寂しいし。だけど、中学でできなくて、高校こそはって考えてることがたくさんあって、諦めたくないなって」
鹿野から視線が送られた。泣きながらシュートを打ち続けたあの日のことが頭に浮かんだ。
「ひとりで悩んでたのに、翔くんが気付いてくれて、背中を押してくれて。お母さんとは喧嘩みたいなこともしたのに、結局は私のこと応援してくれて、手助けまでしてくれて……だから私は、今度こそ全国に行くの」
そう言い切る鹿野は眩しかった。
「はい…頑張ってください…」
「猪股くんと、猪股くんのお母さんにもお世話になるから。改めてよろしくね」
「はい…よろしくお願いします…」
見惚れた猪股は生返事をして、今度こそ体育館を後にした。
あれ、絶対わかってないな。
◆
~大喜視点~
恥ずかし過ぎる勘違いをした日の夜。部活を終えて家に帰ると、怖い顔をした母さんが玄関まで来た。リビングの方がやけに騒がしい。
「ただいま」
「おかえり。大喜、LINE見てないでしょ」
「え、LINE?」
スマホを取り出すと、『今日は早く帰ってきなさい』との連絡。
「ごめん」
「まったく、朝言おうと思ってたのに急に飛び出しちゃうし」
「ほんとすみません」
「まあいいわ。早く手洗って着替えて来なさい、もう始めてるわよ」
何がと思いつつ、言われた通り手を洗って着替えを済ます。リビングの扉を開ける、テーブルの上には寿司があり、千夏先輩と彼女によく似た女性が座っている。
「おかえり、猪股くん」
「はい、ただいま帰りました」
「遅くまで部活お疲れ様」
「いえ、そんなこと……え?」
キッチンに自分の箸を取りに行こうとして、足を止める。リビングのテーブルを見る。千夏先輩がいる。
千夏先輩⁉ なんでうちに?!
「なんで、千夏先輩が、俺ん家に……?」
「ほら、今朝話したでしょ。こちら鹿野千夏ちゃん。春から一人暮らしをするらしくて、うちでご飯作ってあげようってなったから」
「え?」
「本当に助かるわ!」「いいのよ元チームメイトじゃない」「さすが名センター」「やだもー」
母さんと千夏先輩のお母さん(推定)の会話が耳を通る。
母さん同士が元チームメイト、知ってる。
春から一人暮らし、知ってる。
うちでご飯……なんだって⁉
あ、そういえば、千夏先輩が今朝、俺と母さんにもお世話になるって言ってたような……
「猪股くんのお母さんにお弁当作ってもらうことになって、朝練の時貰いに行っていい?」
「あ、はい……」
「ありがとう、部活の時にお弁当は返すね。本当は洗って返したいんだけど」
「いえ、そんなお気になさらず……」
脳の処理が追い付かない。
「そうよ、そんなこと気にしなくていいんだからね」
「そもそも千夏、あなた洗い物なんてほとんどしないじゃない」
「最近はやってるもん」
「私がさせてるからでしょ」
頬を膨らませる千夏先輩に、母さんと千夏先輩のお母さんが笑う。
「お弁当だけじゃなくて夜も作ってあげるのに。なんならうちに住んでもいいのよ?」
「そこまでしてもらうわけには。お弁当だけでも十分良くしてもらっているので」
「私もそうしてくれたら安心なんだけど、この子が折れなくて」
「まあ他所の家に住むのはハードル高いわよね。うちにはデカいのも一人いるし……そうだ、それなら沢山おかず作ったら、持っていってくれないかしら?」
「いいんですか? ありがとうございます」
その後、母さんたちは千夏先輩を巻き込んで昔話に花を咲かせ、父さんは家が華やかになったと笑い、祖父ちゃんはばあさんの若い頃にそっくりだと言う。
千夏先輩の正面の席に座り、サーモンの握りを口に運ぶ。
あ、美味い。これ高いやつだ。
「まじかよ」
ようやく理解が追い付いた俺は、そう呟くしかできなかった。
◇◇◇
いつもより少し早く家を出た。体育館からボールが床を叩く音はしない。今日は一番乗りかなと扉を開けると、ウェア姿の猪股がいた。
「藤原先輩、おはようございます!」
「おはよ、早いな」
いつもより明らかに早い登校と、誰かを待っているような雰囲気に疑問を抱く。
「あの、藤原先輩。少しよろしいですか?」
答え合わせは本人からされた。
「いいけど、何かあったか?」
「あったというかこれからあるというか……」
猪股は言いづらそうに口ごもるが、すぐに意を決したような顔に変わり、こう叫んだ。
「お願いします! 俺に練習方法を教えてください!」
????
「悪い、意味がわからん。説明してくれ」
「俺、もっとバドが上手くなりたくて。前に先輩から練習のコツとか教えていただいたので、それをもっと詳しく聞きたいんです」
「それなら同じバド部の先輩でいいだろ」
「そこをなんとかお願いします! どうしても俺は強くなりたいんです!」
「強くなりたいならそれこそ針生に聞け。あいつこの前、県3位だったろ」
「少しで良いんです! 週に一度朝だけでも指南してもらえれば! お礼も俺にできる事なら、雑用でもなんでもします!」
拒否の姿勢を見せるが、頭を下げて食い下がってくる。話が噛み合わない。
扉が開く。鹿野が入ってきた。
「えっと、何かあったの?」
身体が直角になるほど深々としたお辞儀、当然指摘された。
「猪股が練習方法を教えてほしいんだと」
「翔くんに? なんで?」
「さあ? あとおはよ」
「うん、おはよう。猪股くんも」
「おはようございます、千夏先輩」
顔を上げた猪股に問いかける。
「どうして強くなりたいんだ?」
「えっ?」
「わざわざ俺を頼ってくるんだ、何かしら理由があるんだろ? まずはそこからだ」
「そう、ですよね……すみません」
猪股が懇願ではなく謝罪の意味で頭を下げた。
深呼吸をひとつ。一度頭に上っていた熱を落ち着けると、猪股は俺と鹿野を順番に見る。静かに語り始めた。
「俺、千夏先輩が中学引退の翌日も練習してるのを見て」
「え?」
「あの日、部活は休みだったけど、俺は家が近いのもあって荷物を片付けるために学校に来てたんです。そしたら先輩方がいて」
「あはは…見られてたんだ、恥ずかしいね」
「恥ずかしくなんかないですよ!」
頬を掻く鹿野の言葉に被せるように、猪股が叫んだ。
「県で2位だってすごいことなのに、それでもあんなに悔しいんだって。悔しがれるくらい頑張ったんだなって、俺はそう思いました。俺もそのくらい頑張れたらって、千夏先輩みたいになれた、らって……」
「ふふ、そっか」
途中から顔が赤くなり尻すぼみになった猪股、鹿野の笑みにさらに顔を赤くする。
ああ、そういうことか。それなら猪股が目指すのは……
「それで猪股は強くなりたいと」
「は、はい!」
猪股の肩が跳ねる。こちらを向き、ゆるんだ顔を引き締めた。
「理由はわかった、引き受けてもいい。でも俺はバドミントンは素人だ。細かい技術とかは教えられないが、それでもいいんだな?」
「はい! お願いします!」
「了解、教えたやり方が合わないと思ったら自分でやめろよ」
そう前置きをして、推論を確かめるため質問する。
「まずいくつか聞くぞ」
「はい」
「強くなりたいってのの、具体的な目標は?」
「
「いつまでに?」
「…今年の夏です」
一瞬の躊躇、猪股が答えた。
「できると思ってる?」
今度は完全に言葉に詰まった。
「猪股が練習熱心なのは知ってる。でもたしかシングルで全国行けるのは県2位までだろ? そんで今の県3位が針生、県大会までの5か月でどうにかなるのか?」
「……今の俺の実力じゃ厳しいってことはわかってます。それでも俺は、諦めたくないです」
悔しさを顔に滲ませながらも、声は震えることなく、まっすぐ俺を見据えてくる。
根拠なんてまるでないのに、強い意志だけがある。俺にはない強さ……羨ましくて苦手だ。
「そうか」
切り替えて、考える。猪股の性格を考えると………
「練習方法とは違うかもだけど、目標はひとつだな」
人差し指を立てる。
「当たり前のプレーを当たり前にこなす事」
「はい」
「……」
「……えっと、それだけですか?」
「それだけって言うが、それができてないから猪股は弱いんだろ?」
「ゔっ」
偉そうに言っているが、俺もできていない。
ダメージを受けた猪股に構わず続ける。
「やることはシンプルなほどいい。それに複雑なことを何個もやるのは猪股に合わない」
「すみません」
二度目のダメージ。さっきより深刻そうだ。
「別に貶してるわけじゃない。猪股が短所だと思ってるそれも、見方を変えれば長所になる……朝練の時、ずっと同じ練習してるだろ」
「あ、はい。前日に監督に注意されたことを」
「あれだけの時間、単調な練習を真剣に繰り返せるってのはそれだけで強みだ。ノック、素振り、走り込み、筋トレ、ストレッチ。地味な練習をどれだけ積み重ねたかで地力が決まるからな」
「それはよくわかります」
猪股が力強く頷く。表情に覇気が戻ってきた。
「話が逸れたな。詳しい説明をするぞ」
「はいっ」
「目標に向けたやり方だが……一球入魂だ」
「え?」
「一球入魂だ」
猪股の頭の上にはてなマークが浮かんでいる。視界の端で鹿野が笑ったのが見えた。
「常に目の前の一球……バドミントンだと1シャトルになるのか? に集中すること。それと、プレーが終わるたびに振り返りをすること」
「振り返り、ですか?」
「そう。バドミントンは一点ごとにプレーが止まるスポーツだ、考える時間がある。失点した理由、得点できた理由。全くできなかった事、惜しかった事、上手くいった事。そいつらを整理してやれば、次に何をすればいいのか明確になる。『なんとなく』でプレーするのは絶対やめろよ」
「うっす」
「タイミングは、そうだな……練習なら区切りのいいタイミングで、試合なら一点ごとだな。『コースの打ち分けができた』『相手の動きをよく見て動けた』『疲れてても最後まで粘れた』、『足動かすのサボった』『フェイントに釣られた』『ビビって逃げた』。難しいことは考えなくていい、基礎的なプレーで良かったところと悪かったところを一言ずつ口に出すこと。それが終わったら次のプレーに集中するように」
「わかりました」
キラキラした目で見てくる猪股に、居心地の悪さを覚えた。
大したことは言ってない、結局俺が意識している事と同じになってしまった。とはいえ猪股は名前の通り脳筋だしこのやり方がいい気もする。でももっといい方法が……
そう考えを巡らせていると、一つ言い忘れていたことに気づく。
「それともうひとつ、体調管理はしっかりしろよ」
「え、あ、はい。それは気を付けてます」
猪股がきょとんとした顔で頷く。こういうやつが一番危ない。
「朝起きた時、体育館に着いてアップする時、朝練が終わった時、部活が始まる時、ロードワークが終わった時、ノックが終わった時、試合のインターバルの時、部活が終わった時、風呂から出た時……自分の身体がどのくらい疲れてるか、あとどれくらい余裕があるのか。毎回把握してるのか?」
「……してないです」
「だろうな。練習前なら疲れが残ってないか、動きが硬い部位はないか。練習後ならどこが疲れているのか。特に大事なのが練習中、『きつい、つらい、苦しい、もうやめたい』、それがまだいけるのか本当に異常を訴えてるのか判断できるように」
「はいっ」
「もし何かあっても気合いで乗り切ろうとするなよ。怪我したら元も子もないし、大会に重なったらそれこそおしまいだ」
「うっす……」
猪股が神妙な顔で頷いた。そういえば何年か前に捻挫してたか。確かその時はキャンプで雛を──
「藤原先輩?」
「……なんでもない。とりあえずやってみて、なんかあったら聞きに来てくれ。しつこいかもだが、『なんとなく』でやるなよ」
「わかりました、ありがとうございます!」
猪股が勢いよく頭を下げて、バド部のコートに向かった。バッグからラケットを取り出し、素振りを始めた。
「優しいね」
肩にバッグをかけたままの鹿野が声を掛けてきた、何が楽しいのかニコニコと笑っている。
「あれが優しいはうそだろ、割とボロカスに叩いたぞ」
「優しいよ。厳しい言葉も全部猪股くんが上手くなるためだし、何より猪股くんのことしっかり見てないと言えないことばっかりだったよ」
「そう聞こえた?」
「そう聞こえた。翔くんは優しいよ」
優しいなんて、そんなことはない。
おそらく叶わないであろう目標、全力でやって、それでも届かなくて。折れてしまえばいい、曇ってしまえばいい。そうすれば彼女も──そんな考えも確かにあるのだから。
「これは私の友達の話なんだけどね」
「ん?」
なんだろう、空気がピリッとした。
「その子、同じ場所で練習してた人に1on1やろうって誘って、2か月も断られ続けたんだって」
「へ、へえ。その友達もよく諦めなかったな」
「そうだね、
顔は笑っていて、声も穏やかなまま。なのに怖すぎる。
「毎日毎日二人きりで練習してたのにさ、話し掛けても素っ気ない返事ばっかりだったみたいで」
「そんな最低男がいるのか、信じらんないな」
「本当信じられないよね。いいなぁ猪股くん、翔くん優しいから」
顔が引き攣る。鹿野が笑顔のままなのが本当に怖い。
あの頃は雛と離れたことで色々酷かったとはいえ、鹿野に対する態度はさすがにヤバすぎた。静かに怒る鹿野の機嫌を取るべく、なけなしの勇気を振り絞る。
「鹿野」
「なぁに?」
「…久しぶりに1on1やりませんか?」
「うん、やろっ」
空気が緩んだ。ほっと息を吐く。
「ほんと久しぶりな気がする、1か月ぶりくらい?」
「先月の終業式以来だから、そんなもんか」
「春高直前だから遠慮してたのに、翔くんから誘ってくれたよね」
「まあ、年納め的なやつで」
「ふふ、そっか。翔くんもアップまだだよね、30分後はどう?」
「おっけ」
そそくさと着替えを済ませ、アップを始める。
勝ち越しで1on1を終える。
「あとちょっとで勝てたのに……あそこであと一歩切り込めてれば……あとあの時は緩急にやられた、分かってるのにつられちゃう……」
ぶつぶつと呟きながら、ひとり先ほどの再現をする鹿野。ここで再現に付き合うと、そのまま第2ラウンドに突入してしまう。こういう時は見守るに限る。
「翔くん、今日はありがとう」
「うい」
鹿野の反省が終わった。俺から提案する。
「今日はパスやってもいい?」
「うん、いいよ」
「ありがと、ボール取って来るわ」
倉庫からバレーボールを取って戻ってくる。
バスケと比べると明らかに軽いボール。鹿野に向けて投げるとアンダーパスで返してくる、普通に上手い。俺もアンダーで返す。ポーンポーンと、二人の間を山なりにボールが飛ぶ。
「猪股くん、強くなるね」
「多分な。真面目で負けず嫌いで目標もある、伸びる要素盛りだくさんだ」
「翔くんのアドバイスもだよ」
「大した事は言ってない」
「そんなことないよ」
鹿野のパスが伸びてきた。オーバーパスで返す。
「実力が足りないときって、自分を信じるのが難しくなって。でも尊敬してたり大切だったり、そういう人の言葉は信じられるし、やる気も勇気も湧いてくるの」
「単純だな」
「単純だよ」
俺なんてその典型だ。彼女のたった一言でここまで来たのだから。
スパァンと気持ちのいい音が、体育館に響いた。
猪股だ。スマッシュを繰り返し練習していたが、今のは音が違った。多分上手く体重を乗せれたんだろう。本人も会心の出来だったのか、シャトルを使わずに素振りでフォームを確認している。
スマッシュの練習を始めてから約30分、納得のいく一本を打つまでにかかった時間だ。
猪股がシャトルを手に取り、打ち上げ、スマッシュを打ち込む。あの一発のような音はしない。
「
「バレー部は大会終わってまだ1週間なのにね。翔くんの目標はベスト8?」
「春高より上って意味だとそうなるけど……」
年明けの春高バレーではベスト16を獲った。順当に目標を立てれば、
猪股はIH出場なんて無茶な目標を掲げ、行動に移した。
鹿野はIH出場という夢を叶えるため、家族と離れ離れになる決断をした。
雛は全中4位の実績に満足していなかった、次はもっと上を目指すだろう。
針生も負け続きの兵藤さんとやらに勝って、今度こそ全国へ行くと張り切っている。
俺は?
努力すれば結果はついてきた。
中二の総体から県では負けなし。高校に入ってからは国体代表に選ばれたし、アンダー選抜の合宿にも呼ばれた。今や余裕でメータージャンパーだ。自惚れじゃなく、今の栄明でスポーツ成績トップは、俺か雛。
だから目を逸らしていた。
今の俺では猪股に勝てない。雛を振り向かせることはできない。
「はぁぁー……」
情けない。本気で向き合うのが怖いからと、できる事しかしなかった。挑戦なんてしなかった。その結果がこのザマだ、ダサすぎる。
飛んできたボールを頭で返す、あまり痛くなかった。
「ちょっ、いきなりどうしたの?」
ボールを止めて近づいてきた鹿野に、大丈夫だと返す。
「鹿野」
「ん?」
「さっき『尊敬してたり大切だったりする人の言葉は信じられる』って言ってたよな?」
「うん、言ったけど」
それなら。
「頑張れって言ってほしい」
「……私でいいの?」
「鹿野が良い」
雛に頼むのはカッコ悪すぎるというのもある。だけど、誰に言われたいかと想像したとき、鹿野に言われるのが一番しっくりきた。4年間毎朝を過ごした鹿野に言ってほしかった。
鹿野が息を呑む。その表情が、ゆっくりと変化する。
「頑張れ、翔くん」
満面の笑みで言われた言葉。気恥ずかしさもあるが、それ以上に勇気もやる気も湧いてくる。単純だなぁと改めて自覚する。
「ありがとう。鹿野も頑張れよ」
「うんっ」
鹿野からボールを受け取り、バレー部のコートに戻る。
バド部のコートを見る、猪股がスマッシュを打ち続けている。
何度も、何度も、繰り返す。
「負けるつもりはないからな」
誰にも聞こえない、ただの独り言。
スパァンという音と共に、シャトルが床を叩いた。