8月26日。
鹿野千夏の誕生日であるこの日に、俺は鹿野へ告白の返事をした。特筆すべきことはなく、遅れてごめん、俺も鹿野のことが好き、付き合ってほしい、そんなありふれた言葉を伝えただけ。
鹿野は最初こそソワソワしていたが、すぐ満面の笑みに変わり、その後ずっとご機嫌だった。
ちなみに恋人になったということで、名前呼びをすることになった。千夏と呼ぶのは少し慣れないが、呼ぶたびに千夏が嬉しそうに恥ずかしそうに幸せそうにするので、積極的に呼んでいこうと決意した。
千夏は「翔くん→翔」とあまり変わらないはずなのだが、短い会話でも名前を呼ぶたびにちょくちょく詰まっていた。正直呼ばれ方なんてどっちでもいいのだが、千夏の可愛い様子を見れたので大満足である。
そんなこんなで部活が始まる。
女バスは千夏の誕生日祝いでプレゼントを贈ったり写真を撮ったりと賑やかだった。
男バレも負けず劣らず、俺のU18アジア選手権優勝への祝福があった。同級や後輩、そして引退した先輩たちもわざわざ登校しての大賑わい。中等部の3年も練習に参加しているため、大会前よりわちゃわちゃしてる。
真っ先に駆け寄ってきそうな桐島は、現在U17世界選手権のため不在。去年のU16アジア選手権で4位通過だったためか、予選ラウンド激戦区に入ってしまい、未だ全敗。おそらく下位2チームとなり順位決定のプレーオフへ回ることになる。今回の
練習開始時刻になり、体育館を訪れた監督を中心に半円を作る。
「IHが終わってから2週間が経ったし、疲れも取れてきた頃だと思う。そろそろ練習も本格的にやっていくからそのつもりで」
「「「「はいっ」」」」
「ただ、藤原とここにはいないが桐島はしばらく練習は軽めにすること。後輩指導を主にやることと、ウェイトルームの使用禁止な」
「はい」
「全員が揃ってるわけじゃないが、今日から本格的に新体制が始まる。11月には春高予選、直近の来月末には国体がある。国体に関しては栄明からも何人か出場するやつがいるし、気を引き締めていくこと」
「「「「はいっ」」」」
監督の話に勢いよく返事をする。
「練習を始める前に、新しい部長・副部長の発表から。俺と3年生で話し合った結果、部長は藤原に、副部長は高山に頼もうと思う。2人とも、引き受けてくれるな?」
「「はいっ」」
「よし、それじゃあ2人から一言ずつ。まずは高山」
「はい」
監督が脇に避けて、高山が半円の中心で部員たちに向き直る。
「新しく副部長になった高山です。新しいチーム、レギュラーやベンチの半分以上が入れ替わって慣れないことも増えるし、藤原がチームを離れて俺が仕切ることも増えてくると思う……俺には、どっかの誰かみたいに全国で優勝するなんて大きなことは言えないけど、大きな声を出すことはできる。目の前の一球、目の前の一秒を本気で、丁寧に丁寧に積み重ねていく。それが大きな目標に繋がると信じて、練習していきましょう」
「「「「はいっ」」」」
「はいお疲れ様、それじゃあ次藤原」
「はい」
高山と入れ替わりで半円の中心へ向かう。
「新部長の藤原です。副部長から大きな事を言うやつだと言われたので、俺が考える目標を伝えたいと思います──年明けの春高で全国ベスト4に入る、センターコートに立つ。高さとかパワーとか、そういう分かりやすい強者の証を、栄明のバレーでへし折りたい。繋ぐっていうバレーボールの根幹、その面白さを日本中に伝えたい。小さいことは不能の要因ではないと、証明したい」
私情混じりの目標、多分部長としては失格なんだろう。でも誤魔化したくなかった。
「俺たちが積み重ねてきた全てで、全国の強豪を蹴散らしてやりましょう」
「「「「はいっ」」」」
挨拶が終わり、さあ練習だと思ったところで、キャプテンから何かあるらしい。
「皆悪いな、これ終わったら3年は正真正銘いなくなるから」
キャプテンはそう言うと、コート脇に向かってトートバッグを漁る。出てきたのは蛍光色の長い棒。嫌な予感がしてきた。
「さて藤原」
「…はい」
「約束、憶えてるな?」
「忘れました」
「俺が憶えてるからいいや。半年前の1月、お前言ったよな、IH優勝出来なかったらケツバットだって」
「…言ったのはキャプテンでしたけど」
「憶えてんじゃん。大丈夫大丈夫、これこどもチャンバラで痛くないから」
キャプテンがその棒で自分の手を叩く。ぱこぱことコミカルな音を出しながら曲がる棒。確かにその動きは柔らかく、全力で叩いても大して痛くなさそうだ。
とはいえ、それなら喜んでなんて言うほどアホではない。
「…分かりました」
まあそんな強くはやらないだろうと、キャプテンたちも受験勉強でストレス溜まっているんだろうと、後でやり返せばいいやと。甘い考えで了承した。
ケツを差し出すため柱に手を付く。
「なんか声出したくね?」
「確かに」
「栄明を頼んだぞーとか?」
「まあ無難か」
「他なんか面白いのある?」
キャプテンたちの穏やかな会議をぶち壊したのは、久保先輩のとある一言だった。
「そういえば藤原、昨日ショッピングセンターいたよな。なんか真剣に選んでたけど、あれ誰にあげるやつなんだ?」
時が止まった。男バレも、なんなら隣コートの女バスも。
いち早く再起動したのはキャプテン。ギギギと機械みたいな動きで首が動いた。
「どういうことかな藤原くん。説明してもらおうか。帰国後疲れてるのにわざわざ買い物するなんてお前らしくないよな。まさか、うんまさかとは思うが、違うよな? 家族の誕生日とかなんだよな? そうなんだよな?」
「あの、キャプテン、怖いっす」
「怖くない怖くない。あと俺はもうキャプテンじゃないぞ」
「あ、はい、
「よろしい。で? どういうことかな?」
迫ってくるキャプテン──改め長田先輩から目を逸らす。逃げた視線の先にいた千夏はワクワク顔をしていた。
これから起こる惨状と、それによる被害は考えたくもないが。彼女の希望を叶えるため覚悟を決めた。
「千夏の誕生日プレゼントを選んでました。それとこの度、千夏とお付き合いすることになりました」
数秒、間が空き。
「「「くっそぉおおお!」」」
「「「きゃーーー!」」」
阿鼻叫喚だった。男子の怨念と女子の悲鳴。収集なんてつきようがない。
「藤原ぁ! ケツ出せぇ!」
長田先輩の気迫に押されて、さっとケツを突き出す。先輩は一切容赦なく振りかぶり、素晴らしいフォームでケツ目掛けて振り抜いた。
「死ぃねえぇぇぇぇぇ!」
ズバァアアン!!!
「ゔっ……」
強烈な一撃。痛くはない、痛くないのに精神へのダメージが甚大だった。
「ふぅー……本当はもっとやってやりたいが、これで勘弁してやろう。おーいお前ら、次誰やるー? アジアNo.1にケツバットできる機会なんて滅多に無いぞー」
長田先輩がこどもチャンバラを他の3年生に渡す。
「リア充死ねぇ!」
「絶対許さねえぞくそがぁ!」
ズパァアン!!
内田先輩や佐東先輩の、独り身先輩方が。
「勉強したく、ねえ!」
「お前の所為で模試ボロボロだよ!」
スパァン!
彼女持ちである久保先輩、守谷先輩コンビが。
「部長よろしく、な!」
「よくも鹿野さんをぉおおお!」
ズパァン!!
高山や田中の同級生組が。
「っ〜〜、すみません失礼します!」
「アジアユース優勝おめでとうございます!」
スパン!
遠慮がちな1年生組が。次々にケツを叩いていく。
さすがに中等部の部員は対象外ということで、総勢22名のケツバットがようやく終わった。
そして、先輩方は晴れやかな表情で体育館を去っていった。
その日は午前で練習が終わり、しばらく家で休んでからの夕方。針生と守屋と集合して、ピザ屋でテイクアウトしてから千夏の家へ向かう。
ピンポーンとチャイムを鳴らして少し、ドアが開いた。
「3人ともいらっしゃい。さ、上がって上がって」
「「「お邪魔しまーす」」」
出迎えてくれた千夏に続いて玄関に入る。
2度目のワンルーム。前回来たときと違って、今回は恋人の、さらに一人暮らしの部屋ということで緊張してしまう。
長方形のローテーブルを囲む座布団に座り、買ってきた数種類のピザと付け合わせを並べる。コップに飲み物を注いだところで、守屋がこほんと咳払いをした。
「それでは改めてっ、皆お疲れ様! 健吾とちーはIH3回戦進出! 藤原くんは準優勝と男子ベスト6表彰、アジアユース優勝とベストオポジット! そしてちーと藤原くんは念願の交際開始! 最後にちーは誕生日おめでとう! かんぱーい!」
「「「かんぱーい!」」」
守谷の音頭に合わせてコップを合わせる。
「口上が異様に長かったな」
「仕方ないでしょ、ちーの誕生日だし、ようやく2人が付き合ったんだし、部活も皆頑張った結果なんだから」
「特に翔はな」
「もっと褒めていいぞ」
「なんかいつもよりテンション高くね?」
「ちーと付き合ったからじゃない? ほら、ちーもずっとニコニコしてるし」
「なる」
「んふふ。でもほんと凄かったよね、学校でも試合観戦盛り上がってたよ」
「あー、公式YouTubeの配信か」
「そうそう、バレー部の人たちと希望者が視聴覚室集まって。女バスも前に一緒のチームだった子は観に行ったよ」
「バド部だと俺とか西田、大喜も行ったな。そう言えば翔、IH優勝出来なかったらダッツ奢るって約束は?」
「ガツンとみかん買ってあるから許して」
「よし許す」
「藤原くん私たちには?」
「白くまくんとPARM。2人で選んで」
「いいね」
「冷凍庫入れてあるからあとで食べよっか。ちなみに翔は何にしたの?」
「サクレ」
「ていうかふたり、週三で電話してるんでしょ? よくそんな話題あるよね」
「ないよ」「ないな」
「ないんだ。電話だと無言辛くならない?」
「なったなった、ちょっと慣れてきた頃は特に。無言にならないよう頑張って話題探したり、『だよね〜』みたいな相槌で誤魔化したりして。翔くんからはそんな雰囲気感じたことないけど」
「と言われてますけど?」
「話題なんて無限にあるわけじゃないし、毎日電話して無言にならないとか無理だから。それに普段は千夏と無言になっても何ともないし、電話でもじきに慣れるかなって」
「なるほどねぇ。ちなみに慣れてきたの?」
「だいぶ。最近は千夏が鼻歌歌いながら洗い物してて、話振られたら返すみたいなこともよくある」
「翔く…翔は大体ストレッチしてるよね。やってる体勢で声変わるし」
「へえ。ま、生活音流すだけの動画もあるわけだし、そういう使い方もありかもね」
「針生たちは電話とかしないのか?」
「偶にするけど、花恋が嫌なことあって掛けてくることが多いな」
「健吾はその時間ゲームやってるから用がないとかけずらいのよね」
「相談されたら毎回出てるだろ」
「だから感謝してるって」
「でも付き合ってからの連絡頻度とかは決めといた方がいいよ。私たちもそれで最初喧嘩になったし」
「そうなの!?」
「うん。私の受験期と重なって中々デート出来ないのに、連絡も偶にしか来ないというか、来ても数行で終わっちゃうし」
「針生のLINE小学生の日記みたいだよな」
「そうなの! それでもっと話したいって言ったら『だらだら続けんのめんどい』って返されて、『めんどいってなによ!』って」
「針生くん……」
「針生さいてー」
「いやちょっと待て、めんどいとは言ってない。あんまり得意じゃないしやりたくない、くらいだったろ」
「意味的に外れてないでしょ」
「まあまあ、俺も文章会話苦手だし、男子はそんなもんだって見逃して」
「翔もLINE淡白だもんね。ビックリマーク使ったのこの前初めて見た」
「多分あれで初めて使った」
「ていうかサラッと名前呼びになってるのな」
「ん、恋人だしそうしよっかってなって」
「ちーはまださらっとって感じじゃないけどね」
「むっ…だって、練習と本番は違うっていうか……」
「練習」
「あっ」
「っ〜~! もうちー可愛すぎる!」
「……翔もそんな顔するのな」
「どんな顔だよ」
「鼻の下伸ばした間抜け顔」
「うるせえ」
「……」
「顔がうるせえ。こっち見んな」
「はいはい。あ、ついでに俺のことも名前呼びにしろよ」
「あー、まあいい機会か。健吾ね、了解了解」
わいわいと話しながら、うまいうまいと箸が進む。食べ終えて片付けをしてケーキを食べる、アイスは後回しになった。
お誕生日のプレゼントタイムでは、守屋がスポーツタオル、健吾がプロテインバーの食べ比べセット。そして俺はリストバンド。
「栄明ではあんまいないけど、NBAの選手とかよく付けてるし似合うかなって」
受け取った千夏に、言い訳っぽくならないように言い訳する。
人生初彼女、しかも付き合って初日。何を贈ればいいか分からなかった。消え物、実用性のあるもの、なんかオシャレなやつ、ネットの情報は膨大すぎて参考にならず、昨日ようやく選べたものだ。健吾には言い訳も見破られたようで、「分かるぞ難しいよなー」みたいな顔をしてる。
色々悩んだ結果選んだプレゼント、多分もっとセンスの良いものはあるんだろうが、千夏も嬉しそうにしてるのでよしとしよう。
その後もわいわいがやがやと数時間。千夏の誕生日会は盛大に終わった。
◇◇◇
〜千夏視点〜
「♪〜」
鼻歌を歌いながら寝癖を直す、正面の鏡に写る私の顔はだらしなく緩んでいた。
いつもより余裕のある朝ご飯。ご飯を温めて、作り置きした野菜類をタッパーから出して、レンジでウインナーと温玉を……と思ったけど、手を止めて壁に掛けたフライパンを取る。
フライパンに油を入れて火にかける。温めてる間に、卵を溶いてめんつゆを混ぜて、ネギ・ごまも入れちゃおう。ウインナーは耐熱皿に載せてレンジへGO。
「♫〜」
熱いフライパンに溶いた卵を投入、スクランブルエッグにならないように、ゆっくり周りから内側へ集めていく。いい感じの硬さになったら完成、ウインナーの横の空きスペースに移す。
「いただきます」
手を合わせてぱくぱくと食べ進める。
食べ終えて、歯を磨いて、エナメルバッグの中身を確認。スポーツタオル、プロテインバーベイクドチョコ味、リストバンド。うん、ちゃんと入ってる。
「いってきます」
自転車を勢いよく漕ぎ出す、朝の冷たい風が気持ちいい。この数ヶ月で見慣れた通学路もいつもより眩しく感じる。
あっという間に学校に到着。体育館の重い扉を開けると、会いたかった彼がいた。
「おはよう」
「おはよう千夏」
あ、好き。
やばいやばい、今まではおはようだけだったのに、なんだったらおはよって眠そうに言われる日もあったのに、名前呼ばれた千夏って呼ばれた、まだ慣れない、早く慣れたい、いややっぱり慣れたくない気も、というか翔くん…じゃなかった翔がいつも以上にカッコよく見える、恋人効果世界が薔薇色に……って、あれ?
気づけば翔はいつものように黙々とストレッチを始めていた。
え、恋人になって初めてのおはようがこれだけ? そんなすぐ練習モードに切り替えられるの?
私はやっと実った初恋・初彼氏に浮かれまくっているというのに、この淡白っぷりは一体何だ。キモチの差か。キモチの量が違うのか。
ほんの少しムッとした気持ちを抱えながら、私も練習の準備をする。シューズを履いて、髪を後ろで結く。
ふと、翔と目が合った。いやこれ微妙に合ってない、一体どこを見て……あっ。
さっきまで溜まっていたフラストが一気に吹き飛ぶ。
足元のバッグから
「ねえ翔、似合ってる?」
「似合ってる」
「よかった」
左手首に付けたリストバンドを、見せびらかすようにフリフリと動かす。
「忘れたと思った?」
「気に入らなかったのかと思った」
「そんなわけないじゃん」
翔が私のために選んてくれたプレゼント。これを付けてれば、練習や試合中でも翔と一緒に戦えるって、そう思える。
翔と話しながら準備運動を終える。ボールを取りに倉庫へ向かおうとしたところ、翔に呼び止められた。
「明日って女バスも午前練で終わりだよな?」
「うん。1時前には終わるかな」
「うちもそれくらいだわ。なら明日デートいこ」
「え」
デート? おデート?
「もしかして予定あった? もしくは宿題終わってないとか?」
「ううんっ、ない。宿題も終わってる」
「ならいけそう?」
「うんいける、いきたい」
「よかった」
浮かれ具合がMAXのまま予定を決める。練習後、各自家でご飯を食べてから集合。
翔がシューズを見たいらしく、まずは数駅先の大型ショッピングセンター。その後はその近くにあるカフェへ。前に渚たちと行ったアップルパイが美味しいお店、電話で一度話しただけなのに憶えていたんだと嬉しくなった。
それだけだと少し時間に余裕がありそうだしどこか行きたい、カップルで行くならカラオケとかかな。でも翔は8月のほとんど大会だったし疲れてるかも……その場の雰囲気で誘うかは決めるとして、駅近のカラオケ店と歌える曲の確認はしておこう。
「よし、それじゃあそういうことで。それと2ついい?」
「いいよ、なに?」
「改めてだけど。俺、ちゃんと千夏のこと好きだし、結構浮かれてるから」
「…顔に出てた?」
「めっちゃ出てた、機嫌が急降下してた」
「ごめんなさい」
「いや俺も彼氏彼女の距離感分かんなくて不快にさせたし」
お互い謝ってちょっとだけぎこちなくなる。目が合って、何か言おうとしてでも言葉が見つからなくて、とりあえずはにかんで誤魔化す。
今まで経験したことない空気感、嫌じゃなくてこそばゆい感じ。お互い近付きたくて歩み寄ろうとして、でも慣れないから恥ずかしい。
「えっと、それでもうひとつは?」
「ん、これ繋がりでもあるけど……恋人の距離感はこれから2人で模索するとして、練習中はそういうの無しにしたい」
ようやく見つけた話題を口にすると、翔が顔を引き締めて言った。
「俺は本気でバスケしてる千夏が好きだし、千夏も俺が本気でバレーしてる所を好きになってくれたと思ってる。恋愛にのめり込んでそれを疎かにはしたくないし、してほしくない。どっちも本気だからこそ、メリハリつけて向き合いたい」
浮かれていた気持ちが、スッと静まる。落胆したとか幻滅したとか、そういうのじゃない。
「うん、分かった」
危なかった。恋人になれた事実に浮かれて、本質を見逃すところだった。
もしそうなっていたら。その場は浮かれて楽しくても、少し先で振り返った時には私は私のことを嫌いになってるかもしれない。
改めて思う。好きになったのが、恋人になったのが翔くんでよかった。
気合十分でそれぞれ朝練を始めようとしたところ、音を立てて扉が開く。
「藤原先輩、千夏先輩、おはようございます」
「おはよ」
「おはよう猪股くん」
猪股くんがバド部のコートに向かわずこちらに来た。
「あの、お二人とも、お付き合いおめでとうございます」
「…ん、ありがと」
「ありがとう」
お祝いを告げる猪股くんは隠そうとしているけれど、その顔からは沢山の感情が窺える。私は
へばりついて離れないであろう感情の数々。猪股くんはそれらを全部飲み込んで、真っ直ぐ翔を見据えた。
「藤原先輩、一つお願いしてもいいですか?」
「内容による」
少し警戒した翔へ向けて、猪股くんが頭を下げてこう言った。
「お願いします。もう一度、俺に強くなる方法を教えてください」