〜鹿野冬樹視点〜
娘に彼氏ができた。そう知ったのは3ヶ月前のことだった。
一時帰国していた妻から伝えられたその事実に、私は言葉が出なかった。
千夏が恋愛をするなと思っているわけではない。学生に恋愛は早いなどと、そんな凝り固まった思考は持っていないつもりだ。
ただ、私は過去の判断を後悔しているのだ。
千夏を、娘の意思を尊重したつもりだった。
日本に残りたい、
当然千夏もそれだけの覚悟を持って、バスケだけに全力で取り組んでくれると思っていた。
手を抜いているとは思っていない。千夏はきちんと結果を残している。
夏のIH、冬のウィンターカップで共に全国ベスト16。私はスポーツに詳しくないが、快挙と言っていいだろう。
だが、もっと上にいけたのではないか。
恋愛に現を抜かしていなければ、娘はもっと上の景色を見られたのではないかと。そう思ってしまう自分がいた。
年頃の男女が交際していて、一人暮らしの部屋がある。そんな状況下で何も起きていないなど、信じるつもりはない。
責任の取れないことさえしなければ、責めるつもりも、ない。
ただ私は、千夏を尊重したつもりで無責任な期待をしていたのだと、そう後悔しているのだ。
「…………ん」
「……お父さん」
「お父さん!」
「何だ」
「何だじゃないのよ、もう搭乗ゲート開いたわよ」
空港のソファにてスマホと睨み合っていると、妻の秋穂から肩を叩かれた。立ち上がり、成田空港行きの搭乗ゲートへ並ぶ。
「顔怖すぎだって。そんな身構えなくても、藤原くんいい子よ」
「別にそれを気にしていたわけではない」
「嘘ばっかり。あれから彼のことずっと調べてるくせに」
「どんな男か分からないんだ。父親として当然だろう」
毅然として主張するも、秋穂はくすくす笑うばかりだ。
藤原翔。千夏の彼氏の名だ。
彼を調べるのは簡単だった。何せ検索エンジンに掛ければかなりの数がヒットする、高校バレー界の有名人だったのだ。
ネットニュースで調べ、秋穂経由で千夏から聞き出した雑誌のバックナンバーにも目を通した。春高バレーの2試合やU18アジア選手権の6試合はその配信も観た。
最低限の
真面目で、礼儀正しく、身長という絶対的な差を理解してなお、バレーボールに真摯に向き合う青年。
……だが、それだけでは分からない。
文字や写真越しの人柄と、実際に向き合った人間は違う。
娘が惚れた男が、本当に信頼できる男なのか。それだけは、自分の目で確かめるしかない。
成田空港。人波に流されて進み、手荷物を受け取ってから出口ゲートを抜ける。
年末ということもあり、到着ロビーは人で溢れていた。
「お父さん、お母さん」
聞き慣れた娘の声に、自然と視線と足が向く。
髪は少し短い。大きな大会前に切る、その願掛けは変わっていないようだ。
背筋は相変わらず真っ直ぐで、真面目な千夏のまま、変わっていない。
──そう思った。
「久しぶり千夏、元気にしてた?」
「うん。お母さんも元気そうでよかった」
その笑顔を見て、思わず足が止まった。言葉に詰まった。
「お父さん?」
「──ああ、久しぶりだな、千夏」
「…うん。お父さんも、元気そうでよかった」
「さあ行きましょう。東京駅、藤原くんも待っているでしょうし」
「そうだね、早く行こ」
生じた空白に、秋穂が穏やかに促した。千夏も固くなった表情を緩めて頷く。
本来の目的地は、私の実家である長野。新幹線を使うことや、年末でも席が取れる店の都合で、ひとまず成田から東京駅へ。
予約してあるカフェで千夏の彼氏である藤原翔くんと挨拶をしてから、新幹線に乗ることになっている。
私は和やかに話す
◇◇◇
個人的、男が逃げたいイベント第一位。
彼女の父親への挨拶。
今から俺は、その当事者になる。
時刻は午後三時、体育館部活による大掃除を休ませてもらい、俺は東京駅近くの喫茶店の前にいた。
スマホの画面には、ほんの数分前の千夏とのやり取りが残っている。
『もうすぐ着くよ』
『了解』
それだけ確認すると画面を閉じる。
もういつ来てもおかしくない。深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
手土産は確認した。新幹線で食べやすい、一口サイズのカステラ。
服装も大丈夫。4ヶ月ぶりに着たスーツは、ユースの大会で着ていたものだ。
敬語も、多分大丈夫。インタビューだと思えば、変な敬語は使わないだろう。
手持ち無沙汰にスマホをいじりたくなるが、それを我慢すること数分。人混みの向こうに、見慣れた笑顔が見えた。
「千夏」
「おまたせ翔」
「久しぶりね、藤原くん」
「はい。秋穂さんも、お久しぶりです」
並んで歩いてきた母親の秋穂さんにも、軽く挨拶をする。
そして、二人の後ろには今日の大本命。千夏の父親であり、秋穂さんの夫である冬樹さん。
深く皺が刻まれた顔に笑みはない。茶髪もオールバックにまとめられていて、厳格という言葉をそのまま形にしたような男性だった。
「初めまして、藤原翔と申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」
「鹿野冬樹だ。こちらこそ、年末の忙しい中すまない」
店の前なのでお互い一言ずつ交わし、秋穂さんの勧めで店内へと入る。
予約していた四人席へ案内される。
隣には千夏、向かいには冬樹さん。その隣に秋穂さんが腰を下ろした。
「改めまして、千夏さんお付き合いさせていただいている、藤原翔と申します。本日はお会いする機会をいただき、ありがとうございます」
再びの挨拶と共に、手土産を渡す。
「お口に合うかわかりませんが、よろしければ新幹線の中で召し上がってください」
ネットで見た定型文を、丁寧に。
「頂こう」
冬樹さんは、短く頷いて、それを受け取った。千夏から聞いていた通り、無口で、何を考えているのかよく分からない人だ。
張り詰めた空気を和らげるように、秋穂さんがメニュー表を手に取った。
「先に注文だけ済ましちゃいましょうか」
「そうですね」
そうして秋穂さんの手助けにより、オーダーに移行する。
二つあるメニュー表、そのうち片方を千夏とシェアして注文を決める。その間にも何となく正面から視線を感じていたが、顔を上げれば冬樹さんと目が合いそうで、あえてそのまま注文を決めた。
注文を終え、飲み物とケーキが運ばれてくる。
そこからの会話は、ほとんど秋穂さんが回してくれた。
寒さや体調への気遣いから入り、徐々に部活や大会、私生活の話へ。俺や千夏から近況を聞いて、適度に自分たちのことも話す。
時折冬樹さんに話が振られると、「そうか」「そうだな」と短すぎる相槌だけが返ってくる。
……これが通常運転と言われてはいたが、それにしても、だった。
「君は──」
ようやく会話らしい会話ができたのは、皆の前からケーキが消えた頃だった。
「──将来について、どのように考えているのか?」
「それは、千夏さんとの関係という意味でしょうか? それとも進路という意味でしょうか?」
「できればその両方──それと、高校を卒業するまでについても聞かせてもらいたい」
言ってる意味が、よく分からなかった。ゆっくりと目を瞬かせていると、冬樹さんが続ける。
「千夏と君が交際しているのを、反対するつもりはない。だが、私たちはインターハイに行きたいという千夏の想いを汲んで、日本に残ることを許した。今年は夏冬共に全国大会に進めたが、もし来年、出場できなかった場合、君たちはどうするつもりなんだ」
その補足を、理解はできた。
けれど同時に、理解できなかった。言葉を選ばずに言えば、「何言ってんだこいつ」と思った。
もちろんそんな事は表に出さない。一度千夏と目線を交わし、微かな不安を抱えた表情を受けて、順に質問に答えていく。
「千夏さんとの交際については、今までもこれからも、真剣に向き合っていくつもりです。進学や就職など環境の変化はあると思いますが、その度に話し合い、お互い成長しながら良い関係を続けていきたいと思っています」
予め用意していた答えを、目を見て言う。「そうか」の一言しか返ってこなかったが、多分大丈夫だろう。
「進路という意味では、まだ決め切られてません」
「それは、選択肢に迷っているという意味か?」
「いえ、バレーを続けるか迷っている、という意味です」
冬樹さんが、あからさまに眉を顰めた。ここまで表情を変えたのは今日見ていた限り初めてだ。
「何故」
「……少し、自分語りをしても?」
「構わない」
冬樹さんに許可を、秋穂さんにも頷きをもらい、頭の中を整理してから口を開く。
「俺は、バレーボールにおいて、少しだけ部活の枠を出た世界を見てきました。自分の生活が掛かったバレーをする人がいて、それを支える人がいて。俺自身も、アンダーではありますが国を背負ってプレーしました──そして、将来それを背負うに足る実力と覚悟が、自分にあるか分からない」
一呼吸を入れる。
「なので将来については、まだ決められていません」
そして言い切った。
「……そうか」
暫しの思考を経て、同じ言葉が返ってくる。
その温度のない態度の裏に、どんな印象を抱いているかはわからない。
「それじゃあ、来年の話を聞かせてくれ」
考える間もなく、冬樹さんに続きを促された。
来年の話、千夏や俺が、全国に進めなかった場合どうするのかという問い。答えなんて決まっていた。
「何も変わりません。全国に行けたとしても、行けなかったとしても、今まで通り日々を重ねていくだけです」
冬樹さんの眉間の皺が深くなり、口を開きかける。それを遮るように、続ける。
……多分、というか確実に、挨拶の礼儀としては間違っている。
けれど、一人の競技者として、その考え方は受け入れられなかった。
「どれだけ努力しても、負けるときは負けます」
勝負事における絶対の真理。
どれだけ強くても、どれだけ努力しても、どれだけその一戦に懸けていても、負けるときは呆気なく負ける。
「けれど、負けたくない、勝ちたい。その可能性を少しでも高めるために、俺たちは練習をします」
「付き合ってからも、二人で色々なルールを決めています。部活や勉学に支障が出ないように、恋愛を言い訳にせず、お互い高め合っていけるように」
「本気でやり切ったかなんて、自分にしか分からない。1日くらいサボっても、きっと誰にも分からない。でも、自分に嘘をつかず、ズルをせず、ちゃんとやる。それが最後に大きな力になる、そう信じているから」
「ですので、例え全国に行けなかったとしても、交際を考え直すということは、少なくとも自分にはありません」
言い切って、空気がピリついていた。さっきまで気にならなかった店内の音が大きく聞こえる。
冬樹さんは、俺から千夏へ視線をずらした。
「千夏は、どう思っている」
「私は……」
千夏はちらりと俺を見て、目を瞑る。
ゆっくりと開いたその瞳には、強い意志が込められていた。
「私は、翔とは少し違う。負けたら悔しいし苦しい。この地味な練習は本当にためになってるのかって、挫けそうになるときもある」
でもと、千夏が強く息を吐く。
「そういう時、隣に翔がいるから、力をもらえる。一緒に頑張ってきた翔だから、私も頑張ろうって思える──だから、例え全国に行けなかったとしても、翔と別れるつもりはない」
言い切った千夏から、冬樹さんに視線を移す。
彼は、目を見開いて、初めて言葉を失っていた。
「……そうか」
ようやく絞り出したそれも、どこか戸惑いが滲んでいるように聞こえた。
俺、千夏、秋穂さん。その場の全員が、冬樹さんの言葉を待つ。
そうして口にされたのは、意識の外にあった単語だった。
「──年明け」
「え?」
戸惑いの声は、俺か、千夏か。
「年明け、私たちは6日の夜に日本を発つ予定だ。……春高バレーは、5日からだったな」
あ、これ許された。そう思った。
きっと完全に納得したわけじゃない。でも冬樹さんの中で、俺たちの交際や千夏の日本残留を肯定し、認めるだけの論理が立ったのだと、そう感じさせた。
「はい。5日の一回戦、6日も勝ち進めば午前中に二回戦があります」
「そうか」
変わらない短い返事だった。けれど、先ほどまでの尋問のような響きは、もうそこにはなかった。
「去年は千夏一人で観に行っていたな」
「うん」
「その時は、全国に行けなかった悔しさのためだと思っていたが、その頃から藤原くんの事を好いていたのか?」
「ううん、それより前からずっと。中学一年の頃から、私は翔に惹かれて、支えられてる」
「…そうか」
少しだけ複雑そうな「そうか」。
今のが特別分かりやすかっただけだろうが、それでも、ようやく冬樹さんが何を考えているのか、その輪郭が見えた気がした。
「藤原くん」
「はい」
「春高バレー、私たちも観に行かせてもらう」
「はい、是非に」
その返事を聞いて、冬樹さんは小さく頷いた。
ようやく峠を越すことができたと、俺は肩の力を下ろした。
──否、下ろせなかった。
俺は今、冬樹さんと二人で立ち食い蕎麦屋にいた。
春高観戦の宣言のあと、穏やかな空気で談笑し、本来ならお別れのはずだったのだ。
だが、冬樹さんが「藤原くんは夕飯をどうする予定だ?」と訊いてきたことで、流れが変わった。
「適当に食べてこいと言われています」
「そうか……それなら夕飯も、一緒に取るか?」
「お父さん、さすがに今からだと新幹線がぎりぎりになっちゃうわ」
「…そうだな」
秋穂さんから窘められ、冬樹さんは鉄面皮のまま、小さく肩を落とした──ように見えた。
「あの、よろしければですが」
「なんだ」
「久しぶりの日本でしょうし、駅ナカの立ち食い蕎麦などはどうですか?」
そんな姿を前にしたからだろうか、ついこんな誘いをしてしまったのだ。
そして今、二人で蕎麦を啜っている。秋穂さんは何かを察したのか、千夏を連れて駅弁や土産品を選びに行ってしまった。
昼食はとうに過ぎ、夕飯にはまだ早い。立ち食い蕎麦屋の狭いカウンターにはまだ空きがあった。そんな店内で、スーツ姿の厳格な男性と同じくスーツ姿の高校生、二人が無言で箸を動かしていた。
カフェでの高級なケーキから、一転して湯気の立ち上るかき揚げ蕎麦へ。あまりのギャップに笑いそうになると同時に、なんでこんな提案をしたのかと後悔する。
考え事をしながら食べ進めた結果、先に箸を置いたのは冬樹さんだった。
コップの水を一口飲み、ふう、と小さく息を吐き出す。前を向いたままの横顔は、深く皺が刻まれている。
「──母親と、見間違った」
そうして、ぽつりと呟いた。
意味が分からなかったが、返事は求められていない気がして、手を止めることで応じる。
「今日、空港で会ったとき、とても穏やかな表情になっている気がして……最初は成長したからだと思ったが、それも違うと、分かった」
冬樹さんは僅かに顔をこちらに向けて、けれどそれ以上は動かなかった。
「千夏が色んな顔を見せるようになったのは、君のお陰なんだな」
「……そうあれたなら、俺も嬉しいです」
それだけ答えて、俺は残りの蕎麦啜りに専念した。
◇◇◇
諸々を終えて、千夏たち家族を見送る。
完全に気を抜いた帰りの電車の中、スマホが通知を伝えた。
『私も翔も、親公認だね』
外堀も内堀も埋められて、逃げ場が無くなっているような感覚があった。
けれど、悪い気はしなかった。
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