価値観の違い。
金銭感覚、連絡頻度、休日の過ごし方など。何に、どのくらい重きを置くか、優先順位や判断基準が異なること。
家族であろうと、友人であろうと、それが完全に一致することはない。そしてそれは、恋人であっても同じこと。
その価値観の違いからすれ違い、関係が途絶えることも少なくない。
千夏と付き合って半年、お互いにこうしたい、こうされるのは嫌だというのを話し合い、様々に進んできた。
連絡は、学校のある日は特別いらない。合宿や大会で会えない日は、気が向いたときに送ろう。手が空いたときには確認してほしい。
愛情表現は素直に。いってきます、いってらっしゃい。おかえり、ただいま。ありがとう。あとはハグとキス。いっぱいしよう。
金銭感覚は今のところいい感じ。ただ高校を卒業すれば、社会人と学生で差が出るだろうから、そのときは話し合おう。
等々……
そして今日、2月16日、日曜日。
また新たな価値観の相違が現れた。
「なるほど……」
神妙に頷く千夏。彼女の視線の先には、普段の部活用エナメルでないバッグ。
栄明高校二年生は、明日から二泊三日で京都奈良への修学旅行。そのための荷物が入った鞄だった。
「納得いかん?」
「そうじゃないよ。表に見えないなら問題ないと思うし、ただ翔らしいなぁって」
「褒めてないよな?」
「褒めてはないかな。褒めるようなことでもないし」
現在の話題は、俺の荷物について。
二泊三日の旅行であれば、当然着替えもいる。そこに古い下着や靴下があれば、それを持っていって、出先で捨てて帰ってくる。
荷物を少なくするという物理的・衛生面もそうだが、何より精神的に。今まで頑張ってくれた物に、最後の引退興行的なあれだ。
という俺の主張に、千夏は否定も肯定もしなかった。
「下着とかって目に見えないから、いつ捨てるかって難しいしね。服はちゃんとしてるから、だらしなく見えてるわけじゃないし」
とはいえ、微妙に納得はしていなさそうな千夏さん。放置すると後々面倒なことになりそうな予感がするため、いい感じの着地点を探すことにする。
「この先、二人で旅行するときはちゃんとするつもりだけど」
「うん。それはしてほしい。そういうとき、よれた下着だと嫌だし」
「それは確かに萎える」
逆の立場で考えれば当然。普段なら生活感があってもそれほど気にならない。けれど、旅行という非日常くらい、そういう部分にも気を遣ってほしいと思うだろう。
下着も靴下も、見えないから手を抜いて、楽ができるのだ。見られる前提ならさすがにしない。
そうやってお互いが納得できる着地点が見つかったところで、下着に対する価値観──俺が未だに納得できていないことを提起する。
「ちなみに千夏さん」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「やだ」
「せめてデートか、将来旅行したときくらい」
「やだ」
やだやだと連発する千夏は、本当に強情だ。かく言う俺も、どうにかして頷かせたいのだから、人のことは言えない。
そうして、二人が未だ一歩も譲らない議題というのが──
「翔は一生、ブラの外し方なんて知らなくていいの」
ということだ。
千夏が一人暮らしということで、ほぼ毎日のように誘い誘われ、共に過ごしている。自然、
部活がなくデートする日はその限りではないが、そのときはそのときで、俺が試みた瞬間に自分で外してしまう。
千夏曰く、
私がいるんだから。エッチは上手でもブラの外し方は知らない。それなら浮気しようなんて思わないでしょ。私のこと狂わせた責任。代わりに私も何でもしてあげる。
とのこと。
この上なく満足しており、千夏の方もそうであると思っているが、それはそれ。
「キスしてる間に片手でホック外すとか、割と夢なんですけど」
「そんな夢捨ててください」
「……」
「そんな目で見てもだめです」
言葉で説得を試みても、縋るような視線で願っても、びくともしない。
基本的に思いやりに溢れた千夏が持つ、非常に強い独占欲。物分かりのいい彼女だからこそ、譲らない部分は譲らない。
「……わかった」
泣く泣く諦めた俺に、千夏はそれでいいとばかりに微笑む。そして、
「おいで?」
聖母のように両手を広げた。
「明日からの分、いっぱいしよ?」
明日からの修学旅行。クラス毎の団体行動に、当然夜は男女で別部屋。その後にも俺の方で予定が詰まっているため、しばらくは二人きりの時間が極端に減る。
その代わり、今日は男バレも女バスも午前練習のみで、現時刻は午後4時。明日のことを考えても、十分過ぎるくらいに余裕がある。
「……うい」
今日もまた、俺の願望は叶わないまま。
今日はいつも違い、就寝時間を気にする必要はない。
明日からの寂しさと、千夏が持つ独占欲による嬉しさ。そんな彼女への愛おしさ、そして頑固さへの不満。
そうやって抱えた諸々を目の前の恋人にぶつけるべく、開かれた腕へと進んだ。
◆
2月17日、月曜日。午前8時。
東京駅の丸の内南口、地下の集合場所。俺と千夏が到着した頃には、既に多くの生徒たちが集まっていた。
「はよー」
「おはよ」
「おはよう針生くん」
クラスに割り当てられた場所で健吾と挨拶を交わし、千夏は同じ女バスの船見たちのところへ向かう。
「眠そうだな」
「まあな。翔たちと違って、俺はそこまで早起きじゃないし。あと満員電車がきつかった」
「それな。俺普段電車乗らないからめっちゃきつかった」
「俺も電車は乗るけど、下りだからなぁ」
と、駄弁りながら時間を潰していると、先生による点呼が始まり、全員が揃っていると確認した後、出発する。
一日目は、移動とクラス毎の団体行動。
新幹線で京都に到着してから、東寺の五重塔、三十三間堂、平安神宮の大鳥居などを巡り、その後にホテルへ。
「健吾と二人は楽でいいけど、絶対大部屋の方が楽しいよなぁ」
「そうか? この方が楽でいいだろ」
「出たよ、個人競技の悪いとこ」
部屋は健吾との二人部屋。それぞれのベッドに腰掛け、何をするでもなくのんびりする。
「いやいや、騒ぐのはいいけど、大部屋だと寝るまで大変だぞ。中3の修学旅行忘れたのか?」
「あーそっか。大会とは違うんだもんな」
「そーゆーこと。騒ぎたいときに集まるくらいがちょうどいんだよ」
健吾の主張に納得。
男バレの大会だと、非日常に盛り上がりこそすれ、翌日の大会に備えて時間になればさっさと寝る。ただ、修学旅行じゃそうはならないだろう。
「つーか、中3の修学旅行と言えばだけどさ」
「うん?」
「あんとき東条が恋バナやろうぜって言ったの憶えてるか?」
「あった気はするけど、それが?」
記憶の片隅にあるようなないような、そんな出来事に首を傾げていると、健吾はにやりと笑みを浮かべた。
「お前そんとき、学年で一番可愛い女子にちーの名前挙げてたぜ」
「そうだっけ?」
「そうそう。ちーからの好意に気付いてないくせにそんな事言うもんだから、反応に困った困った」
「記憶にございません」
本当に記憶にない。
トランプやら人狼ゲームをして、その後に何故かふざけた踊りをしていたのは憶えている。恋バナもしたような気はするが、気がする程度である。
そもそもその当時、俺が好きだったのは雛なわけで。千夏のことは親友であり戦友、異性としては眼中になかった。
健吾も深く掘り返すつもりはないようで、「まあいいけど」と、笑みはそのままに流した。
「まあでも、千夏が可愛いのは事実だよな」
流されたからこそ、何だか拾いたくなるものである。
「言うねぇ、彼女自慢ですか」
「悪いか?」
「いんや。続けてどうぞ?」
「うい。つっても言うことは変わんないけど……千夏の顔、あれは反則級に可愛いと思う」
「それは同意。あんまこういう言い方よくないかもだけど、花恋と並んでも、タイプが違うだけで全く見劣りしないの普通にヤバい」
健吾の恋人である守屋花恋は、千夏の幼馴染であり、モデル業をやっている。その彼女を見慣れている健吾ですら、その評価なのだ。
学内外での人気や、雑誌での取り上げられ方など、千夏の容姿が優れていることに疑いはない。
もちろん顔以外の性格も大好きだが、それはそれ。美人は一生飽きることはないのだ。
「千夏と守屋かぁ」
「どした?」
「いや、健吾さっきタイプが違うって言ってたけど、言い得て妙だなぁと思っただけ」
「というと?」
先を促され、脳内を整理しながら言葉にしていく。
「守屋はなんて言うか、いい女っていうのを丁寧に丁寧に形作ったってイメージなのな」
「まあそうな」
健吾と守屋が付き合って三年と少し。ここで恥じらいもなく頷けるのは、きっと凄いことなのだろう。
俺も今ならできるが、三年後にも頷きたいなぁと。そんな事をぼんやり思いながら、言葉を続ける。
「で千夏は、男子の都合良い欲望を雑に詰め込んだって感じ……優しくて、料理が上手くて、家庭的。顔も清楚系の美人で、声も可愛い。あとちょっとヤンデレ」
「ちーヤンデレなんだ」
「ちょっとだけな。余裕で可愛いと思える範囲」
昨日のブラ外し案件然り、ちょくちょく独占欲を発揮してくる千夏さん。
普段からあれこれと要求してくるわけではない。不満と可愛さなら、圧倒的に可愛さが勝つレベルだ。
「仲が良さそうで何より」
俺よりも遥かに早く、千夏の好意に気付いていた健吾は、ご馳走様ですとニタニタ笑っていた。
◆
2月18日、修学旅行2日目。
今日は班行動の日とされている。
されてはいるが、点呼はホテルの出発と門限のみ。形だけ班を組んで抜け出す者も多い。
「それじゃ、健吾。また夜に」
「おう、楽しんでこいよ」
かく言う俺も、他の班員に恨み言を投げられつつ健吾と別れ、千夏と合流する。
「んじゃ、行くか」
「京都美味しいものツアー、まずは伊藤久右衛門だね」
そうして、千夏との一日デートが始まった。
「翔は、抹茶チョコとメルティーキッスなら、どっちが好き?」
「……難しい質問するな」
「そう?」
「メルティーキッスは甘くて、ザ・チョコって感じだけど。これは抹茶の苦味があって、甘さだけじゃないからなぁ」
「そうだね、どっちも違う美味しさだよね。こっちの抹茶あんみつも食べる?」
「食べる」
伊藤久右衛門では、10時の開店から30分ほど待たされたものの、それを補って余りあるほどの美味しさが待っており。
「これ、お好み焼きとは違うの?」
「まんぼ焼きって、お好み焼きと麺が合体したやつらしい」
「そうなんだ。ちなみになんでここ選んだの?」
「抹茶ってお上品なイメージだったから、B級グルメでバランス取ろうかと」
「だと思った」
「俺らしい?」
「翔らしい。翔がお昼のお店は選ばせてほしいって言うから、こうなるかなとは思ってたんだよね」
「すません」
「ううん、私も楽しみにしてたから。それにここ、すごいソースのいい匂い」
「ほんとな」
すぅーっと、鼻で大きく息を吸い、店内に漂う食欲をそそる、かつ親しみやすい匂いを堪能したり。
「お口直しに抹茶ソフトって、贅沢だねぇ」
「旅行なんだし、贅沢バンザイよ」
口の中のソースを、甘く冷たいソフトクリームで、美味しく洗い流して、
「あ、着物体験だって」
「本当だ。時間あるしやってみる?」
「んー、今回はいいかな」
「いいのか?」
「うん。やってみたいはやってみたいけど、慣れない着物とか履物で、翔に変な負担かかったら嫌だし」
「……悪い」
「平気平気。高校卒業してこっち来たらまた来れるし、そのときは一緒にやろうね?」
「約束します」
修学旅行後、明日からの俺の予定に、千夏が配慮してくれたり、
「京都と言ったらこれだよね、生八つ橋!」
またもやスイーツに導かれ、もちもち食感を楽しんだ。
楽しい時間というのはあっという間で、食べて歩いてを繰り返しているうちに、ホテルに戻る門限はあっという間に訪れたのだった。
◇◇◇
そして、2月19日、水曜日。
修学旅行3日目にして最終日。この日は、少しばかり事情が変わる。
千夏や健吾たち皆は、嵐山を散策してから新幹線で東京へ帰る。
対する俺は、今日から土曜日までNTC(味の素ナショナルトレーニングセンター)で開かれるユース合宿に参加するため、一足先に新幹線に乗り込むのだ。
修学旅行の思い出が減ることに加え、昨日千夏が着物体験を遠慮した理由もここにある。せめてあと一日ズレてくれればと、何度願ったことか。
「じゃ、翔、頑張れよ」
「ん、この2日間で食べ過ぎた分消費してきますわ」
「そんな気持ちでユース行くやつ前代未聞だろうな」
ホテル前に見送りに来てくれた健吾とは、そんな軽い挨拶を交わし、
「翔、いってらっしゃい」
「……いってきます」
同じく見送りに来た千夏の、期待するような視線に、これいつもの『いってきますのハグとキス』を求められてるなと察する。
ただ、健吾だけならまだしも、駅まで送ってくれる先生もいるわけで。
「──これで許して」
「……仕方ないなぁ」
恥ずかしながらデコチューで勘弁してもらった。
「それじゃ、いってくる」
「いってらっしゃい」「ああ、いってこい」
満足そうな千夏と、口笛を吹く健吾に見送られ。生暖かい視線を向けてくる先生と共に、俺はホテルをあとにした。
◆
〜千夏視点〜
「彼氏、凄いな」
「うん」
翔を見送ってホテルのロビーに入ったところで、針生くんがそう言ってきた。
翔ではなく、彼氏と呼んだ。その理由は、よく分かる。きっと、私と同じくらい、針生くんもその気持ちを持っているから。
「花恋も、今度大っきな仕事もらえたんだって?」
「らしいな……二人とも、どんどん先にいっちまう」
「喜ばしいことだよね、恋人としては」
「そうだな。良いことだ」
つまり、そういう事だ。
隣にいたい人が、先へ進んでいく。その成功は、喜ばしいことであると同時に、自分との距離を意識させる出来事にもなり得る。
自分は同じ速度で進めていないと、そう感じてしまうことも、ある。
翔と花恋、私と針生くん。
将来に繋がる、それだけの結果を示した二人と。
諦めた、なんて言いたくないけど、諦めた二人。
だけど、諦めたから終わりじゃない。
少なくとも私はそう思ってるし、針生くんだってきっと──
「針生くんは将来、大学でもいいけど、どうするつもりなの?」
「大学は偏差値と相談だけど、志望は法学部」
「凄いね、大変そう」
「大変だな。入学するまでも、入学してからも」
針生くんはそこで一つ、すぅっと息を吸うと、
「俺、弁護士になりたいんだ。母親が弁護士で、大変なのも知ってるけど、まんまと憧れちまってさ」
「そんな、カッコいいよ」
「サンキュ」
針生くんは軽く笑うと、「ちーは?」と訊いてきた。
「私は栄養士。スポーツに携わるのか、それとも学校だったり、企業だったりは分かんないけど……私たちの身体は、食べることで出来てるから」
「ちーもカッコいいよ」
「ありがとう」
二人で同じやり取りを繰り返し、その可笑しさに笑う。
「栄養士繋がりでだけど」
「うん?」
ひとしきり笑って、心の整理がついたところで、針生くんがふとこんな事を口にした。
「翔のやつ、修学旅行にもプロテイン小分けにして持ってきてるぞ」
「知ってる知ってる。シェイカーとジップロックに分けた粉、あと百均の使い捨てスポンジだよね」
「なんだ知ってたのか」
針生くんは当てが外れたと残念そうだった。
「彼女ですから」
「便利な言葉だな、それ」
「んふふ。でも翔って、うちに来てもルーティンを欠かさないの。それは本当に毎日のことだから、そんな翔に置いていかれそうで……でも、だからこそ、私も頑張ろうって思えるの。針生くんだって、そうでしょ?」
「だな」
成し遂げたことの大きさでも、日々の小さな積み重ねでも、劣等感に近い何かを感じる。
きっとこれから、そういうことは増えていくのだろう。
でもそれは、離れる理由にはならない。
翔は翔の目標に向かって進んでいく。
私には私の目標がある。
同じ場所を目指すわけじゃない。
同じ速さで進めるわけでもない。
それでも、隣にいたいと思う。
だから私も進むのだ。
翔が私を好きでい続けてくれるように。
翔の隣にいる私を、私が認められるように。
「頑張ろうね」
「ああ、お互い精進だな」
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