序幕
紅い宝石の前で、小さく身を屈めながら歌う少女が一人いた。
膝を抱くように身体を丸め、その両手を胸元でそっと重ね合わせている姿は、祈りを捧げる巫女にも、眠り続ける幼子にも見えた。
微動だにしないその身体から、かすかな旋律だけが静寂へと染み渡っていく。
「lu lalula lululelalala」
言葉ではない。
意味も持たない。
それでも耳に届いた瞬間、不思議な懐かしさが胸の奥底を撫でていく。
闇夜を裂き、その切れ端を一本一本丁寧に縫い合わせたかのような黒髪が、肩から背中へと音もなく流れ落ちていた。
漆を幾重にも塗り重ね、永い歳月を封じ込めた工芸品のような艶やかさ。
光を映しながらなお闇そのものに見えるその髪は、風など一切存在しないはずの空間で、ごくわずかに揺れ続けている。
その揺らぎが本当に髪の動きなのか、それとも見る者の視界が歪められているだけなのか、判別できる者はいない。
肌は白かった。
雪よりもなお白く、月光よりもなお淡く、磨き抜かれた磁器よりも透き通っている。
しかしそこには血色という概念が存在しない。
頬に赤みはなく、指先にも温もりは宿らず、呼吸に伴う胸の上下すら見受けられない。
生命を構成するあらゆる営みだけが丁寧に削ぎ落とされ、ただ「少女」という形だけが静かに残されていた。
その姿は死体にも似ていた。
けれど死とも違う。
死者には終焉という履歴がある。
だが彼女には最初から生という前提が存在しなかったかのようで、存在そのものが現実から半歩だけずれていた。
閉ざされた瞼の裏には、晴れ渡る空をそのまま封じ込めたような蒼が眠っている。
昼下がりの青空より深く。
冬の大気より澄み渡り。
宇宙の果てよりなお透明な色彩。
その瞳は今なお固く閉ざされ、どこまでも深い夢の底へ沈み込んでいた。
少女は眠っている。
それは疑いようのない事実だった。
瞼は開かず、意識の揺らぎも感じられず、外界へ注意を向ける素振りもない。
それなのに。
唇だけが静かに動き続ける。
「lu lalula lululelalala」
歌声は驚くほど柔らかかった。
母が幼子を寝かしつける夜。
揺り籠を優しく揺らしながら囁く声。
寒さに震える誰かを安心させるため、耳元でそっと紡ぐ慰め。
そんな慈愛だけを集めて形にしたような旋律。
耳にした者は思わず肩の力を抜き、まどろみへ誘われるだろう。
だが、その安堵は決して人へ向けられたものではない。
歌は人類を見ていない。
この星を見ていない。
遥か彼方、光さえ届かぬ暗黒へ。
名を与えること自体が冒瀆となる邪なる意思へ。
星々が燃え始めるよりも昔、時間という概念が形を持つ以前から虚空のどこかに横たわり、今なお終わりなき眠りを続ける何かへ。
その夢が乱されぬよう。
その微睡みが永遠に続くよう。
少女は、ただ独り歌い続けていた。
「lu lalula lululelalala」
鈴を転がすような澄んだ音色が静寂を震わせる。
けれど耳を澄ませば澄ますほど、その奥底から理解を拒む異質さが滲み出してくる。
音階は美しいはずなのに、どこか人の文化では決して生まれ得ない配列を含み、脳が無意識に「聞き間違いだ」と修正し続けているような違和感があった。
聞けば聞くほど意味を失い、意味を失うほど恐怖だけが輪郭を持ち始める。
少女は壊れ物のように儚い。
指先で触れれば消えてしまいそうで、吐息ひとつで砕け散ってしまいそうなほど繊細だ。
それなのに。
その姿を長く見つめ続けていると、見つめているのはこちらではなく相手なのではないかという錯覚に囚われる。
閉じた瞼の向こうから、夢の中にいるはずの青い瞳が確かにこちらを知覚している。
そんな説明不能の感覚が、理性を静かに侵食していく。
少女は人の姿をしていた。
だが、人ではない。
未知という概念そのものが、偶然にも少女の輪郭を借りてそこへ横たわっているだけだった。
そして彼女の正面に鎮座する紅い宝石だけが、その歌を受け止めるように淡く脈打っていた。
心臓のように。
あるいは、遥か宇宙の彼方で眠る何者かの鼓動を代弁する器官のように。
静寂の中、紅はゆっくりと明滅を繰り返す。
一拍。
また一拍。
その鼓動に合わせるように、少女の子守歌は果てることなく闇へ溶け込み続けていた。