「偽の合意効果(ぎのごういこうか、英: False consensus effect)あるいは合意性バイアスは、自分の態度や行動こそがもっとも一般的であり、他人も同じように考えていると信じる人間の認知傾向(バイアス)である」
────Wikipediaより引用
「ぴっぴかぴ~! りりちゅうげんきでちゅう!」
「あれおかしいな、俺は集合場所を間違えたかな?」
反応が早い。僕の渾身の自己紹介が終わってから二秒も経っていない。
素晴らしいツッコミ速度である。
流石は研究者、頭の回転と判断が速い!
鱗滝さんもこれにはニッコリ。
室内には穏やかなジャズがゆったりと流れ、窓から差し込む午後の日差しは柔らかく室内を照らし、木枠の机や棚を暖かい色に染めている。
開け放たれた窓の向こうからは野鳥の鳴き声がする。
微かに揺れる木々。
挽かれたカカオ豆の薫りがそこそこの広さがある室内を埋めている。
自分は今、巣のオシャレなカッフェ……
……ではなく。
外郭の研究所内、とある一室に居る。
ここは何を隠そう、目の前に居る青髪の彼の研究室だ。
彼の名前はダニエル。
つい先日、うちの研究所へ誘われて来たばかりの好青年。
青い髪に穏やかな顔立ち。
人当たりが良く、誰とでも気軽に話せる。
研究者にありがちな癖の強さも比較的薄い。
……比較的。あくまで比較的、だが。
そして何より。原作知識を持つ僕から見れば、将来的に結構な重要人物である。
「嫌だな〜冗談じゃないスか。可愛い可愛いリリスちゃんやんて。」
「そうだね、可愛いね。」
「否定しねえんだ……」
「事実だからね?」
「ウッワ恋愛つよつよ発言だ!!!!」
困ったように笑いながら、彼は向かいの椅子へ腰掛けた。
倫理観という概念が行方不明になりがちな都市において、更に治安が怪しくなる外郭。そんな場所に似つかわしくないほど平和な空間だった。
「それで、今日は何の用なんだい?」
ダニエルは机の上へ書類を置きながら尋ねた。
その横には開きっぱなしの研究ノート。数式。グラフ。びっしりと書き込まれた考察。
僕には半分も分からない。
いや、正確には読める。読めるけど理解できない。
数学というのは、読むのと理解するのとで大きな壁がある。
人類はどうして数字にアルファベットを混ぜようと思ったんだろう。狂気か? 日ノ本語で話せよ。
「特に用はない!」
「ないんだ……」
「強いて言うなら……遊びに来た?」
「ここ俺の研究室なんだけど?」
「知ってるヨ♡」
「帰って?」
「や〜だよ〜〜ン^^」
即答すれば、ダニエルは惑ったように眉を顰める。
いや〜顔の良い男を困らせるのは気持ちがいいでんなぁ!
「ここを空き部屋か何かと勘違いしてるのかな?」
ダニエルの冷たい言葉に、僕は口先を尖らせる。
なんだよケチ! ほかの研究員が空き時間にここ使ってることぐらい知ってるんだぞ!
みんなには優しい顔して僕には冷たいのか! 差別だ差別だ!
「非道いなぁ……用が無ければ友達の部屋にも行っちゃダメなんか?」
「あんまり男の部屋に無防備に来るのはどうかと思うよ〜。」
彼は苦笑し、開いたままの研究ノートに視線を落とした。
ページには複雑な数式が並んでいる。量子力学か統計物理学——どちらにしても僕の頭じゃ途中で眠くなる代物だ。
ベンジャミンかアインだったなら話は別だろうが、僕の天才美少女ブレインは理系ではない。文系なのだ。
「で、本当に何も無いの?」
「うん。きみの顔を見に来ただけ。」
「なるほどね、つまり俺のストーカーかぁ。」
「愛の使者と呼んでくれてもいいよ!」
「精神科医を呼ぼうか?」
冗談交じりの会話なのに、ダニエルの顔には微妙な緊張感が漂っていた。
ま、確かに普通じゃありえないシチュエーションだろう。
何しろ僕たちはまだ出会って二ヶ月程度。親友と呼ぶには早すぎる関係だ。
「嘘じゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「きみの脳みそに興味があってさ。」
「急に猟奇的にならないでくれるかな?」
困惑した表情で僕を見るダニエル。その金色の瞳がわずかに細まる。
「違う違う! 脳科学的な意味じゃないよ! 単純にきみの考え方とか……思想? そういうの。すごく独特だし、面白いよね、って話!」
「それ俺褒められてる?」
褒めてるんだなーこれが。
実際、問題児だらけのこの研究所においてトップクラスにまともだ。常識人と言っても差支えが無い。
ダニエルは考え込むように顎に手を当てた。やがて苦笑しながら頷く。
「まあ、よくわからないけど。リリスの方が十分個性的だと思うよ。」
えぇ〜本当にでござるかぁ?
ダニエルがコーヒーを淹れ始める。
香ばしい香りが広がる。
窓から差し込む光がカップの中で踊る。
鳥のさえずり。
穏やかな午後の時間。僕は思わずため息を漏らした。
「本当にいいところだね。ここで暮らしたいくらい! まあ僕はここで寝泊まりしてるんだけど。ダニエルもどう?」
「やめてよ、ここは仕事場だよ?」
「でも落ち着くでしょ?」
「まぁ……それは否定しないけどさ。」
ダニエルは肩をすくめた。
「それよりさ、」
「ん?」
「リリスって本当によく来るよね。最初はびっくりしたけど、今では慣れちゃったよ。」
「そう? まあそうだね、理系の会話に首突っ込むのもアレだし。えー、僕が来てくれて嬉しいとかある?」
僕が尋ねると、ダニエルは少し考えてから答えた。
「嬉しいかどうかはさておき……正直驚いたよ。こんなに積極的に交流を求めるタイプだと思ってなかったから。」
「ふぅん……そう見える?」
「少なくとも、最初の頃はね。あの頃のリリスはどこか距離を置いてるように見えたよ。」
「今は違うの?」
「うん。今じゃすっかり……こうやって遊びに来るようになったしね。」
ダニエルは微笑んだ。
その表情を見て、胸の奥が少しだけ暖かくなるのを感じた。
「そうだね。確かに今は違うかも。」
僕も微笑み返す。
「……あ。」
「どうしたんだ?」
「それ、インスタントじゃないんだ。」
「……君、コーヒー飲まないのにそういう所は気にするんだね……。」
ダニエルがキッチンの奥から持ってきたマグカップ。
そこには既に湯気を立てる黒い液体が満たされていた。
その色は確かに、缶コーヒーとは違う深い褐色。僕は思わず身を乗り出した。
「すっげ〜、ホンモノ?」
「うん、ちゃんと豆から挽いたやつだよ」
「へぇ〜! すごい! どうやって?」
「そこのコーヒーメーカーで。ほら、見せてあげるよ。」
ダニエルが指差した先には、小型の家庭用エスプレッソマシンがあった。
銀色の本体に透明な豆ケース。サイドには粉砕ダイヤルと抽出ボタン。
シンプルだけど、どこか高級感のあるデザインだ。
さっすが巣出身の御坊ちゃん、金には困らんね〜。
「え、すご……こんなのあったの?」
「最近買ったんだ。カフェに行かなくても美味しいコーヒーが飲めるって聞いてね。」
ダニエルは少し得意げに笑いながら、豆を一掴みケースに入れ始めた。
細かな粉が舞い上がり、豊かな香りがさらに強く漂ってくる。
「へぇ、専用の道具まで使うなんて……本格的だな……。」
「大げさだな、趣味の一環だよ。」
豆が挽かれ始めると、甲高い摩擦音とともに、きめ細かな粉がフィルターに落ちていく。
その過程を見つめるダニエルの横顔には、いつもより少し真剣な表情が浮かんでいた。
「ダニエルって意外と凝り性なんだ?」
「そうかな? 単純に楽しいからやってるだけだよ~。」
「ふぅん……豆の種類は?」
「今日はブラジルの豆をベースに、ちょっとエチオピアをブレンドしてみたんだ。酸味とコクのバランスがちょうどいいと思ってね。」
「ほぇ〜、なんかめっちゃ詳しいじゃんね☆」
ダニエルがボタンを押すと、マシンから勢いよく蒸気と湯気が噴き出す。
カップに落ちていく濃褐色の液体。
その光景を、僕はじっと見つめていた。
「ちなみに、これが最後の一杯なんだけど……飲んでみる?」
「え、いいの?」
「うん。もし苦手じゃなければだけどね。」
「ん〜……挑戦してみる!」
僕は差し出されたマグカップを受け取り、慎重に鼻を近づけた。
鼻腔をくすぐる芳醇な香り。目を閉じて、一口含む。
「……おぉ?」
「どう?」
「思ったより飲みやすいかも。苦いんだけど……なんか、舌の上でちょっとだけ甘い?」
「ああ、それはエチオピアの豆の特徴だね。酸味と甘みがあるから、初めて飲む人でも飲みやすかったんじゃない?」
「うん、全然想像してたコーヒーと違う! これなら僕でも好きかも!」
ダニエルは嬉しそうに笑った。
「それは良かった。リリスが喜んでくれたなら、淹れた甲斐があったよ。」
カップの中の液体を眺めながら、ふと思う。
普段のダニエルはこんなにも穏やかで、優しい声を出す人だったのか。研究に没頭している時の真剣な顔とはまた違う、リラックスした表情。
もしかして、普段より少し距離が縮まったって感じか?
「ねえ、ダニエル。」
「ん?」
「こうやってたまにお話しながらコーヒー飲むの、けっこう楽しいかも。」
「俺もだよ。正直、こうやって君と一緒にコーヒーを飲むの、初めてだったからね。」
「そっか。じゃあこれからも、たまに来ていい?」
「もちろん。……いつでも歓迎するよ」
マグカップ越しに視線が合う。穏やかな午後の光が二人の間に降り注いでいた。
僕はテーブルに肘をついて、目を瞑る。すると物凄い数の音が、まるで粒の様に聞こえてくる。
ダニエルが紙をめくる音。
ペンを走らせる音。
窓の向こうの鳥の鳴き声。
止め処無く流れるジャズソング。
カップが鳴らす金属音。
椅子の軋む音。
室内に吹き込む風の音。
木々のざわめき。
そして僕らの呼吸音。鼓動。
全ての音が、研究室という一つの音楽になっていた。
もう少しだけ、この音を聞いていたいなあ……そう思いながら、僕は音の奔流に身を委ねていたのだった。
「リリス?」
「ん?」
「なんか変なこと考えてない?」
「え何、僕の事変態だと思ってる? やめてよネ清純派として売ってるんだから♡」
「何をどう売ってるんだ……?」
未来を知る者として一つだけ言える。
どうにもならない事態というのは確かに存在する。
そして大抵の場合、それは静かな日常の真ん中から始まるのだった。
どうにかなっちゃい葬!!!!!!!!!!