1話
クロガネシティの近くには、テンガン山がある。街の道を歩いていても、鉱山の音を聞いていても、顔を上げるといつもそこにあった。晴れている日でもてっぺんの方は白くかすんでいて、どこまでが山で、どこからが雲なのかよく分からない。近くにあるのに、簡単には入れない。俺にとってテンガン山は、そういう大きな山だった。
その日、俺は父さんと母さんと一緒に、テンガン山の麓までピクニックに来ていた。七歳の俺にとって、街の外へ出るだけでも少し特別だった。クロガネの街は石と鉄の匂いがするけれど、山の近くまで来ると草の匂いが先に来る。それに風も街より冷たくて、歩くたびに靴の下の土がやわらかく沈むから、いつもの道とは全然違う。母さんは敷物を広げられそうな場所を探していて、父さんは荷物を持ったまま周りを見ていたけれど、俺だけは何度も山の方を見上げていた。岩の間に細い道みたいなものが見えると、その奥がどうなっているのか気になってしまう。
「この山ってさ、奥に行くとどうなってるの?」
前を歩いていた父さんが足を止めた。俺もその場で止まる。父さんは山の方を見て、それから少しだけ声を低くした。
「子供が入っていい場所じゃない。道に見えても途中で崩れてることがあるし、野生のポケモンもいる。奥へは行くなよ」
「うん」
返事はした。父さんがそう言うなら危ないのだと思ったし、母さんに怒られるのも嫌だった。すると母さんが近づいてきて、俺の頭を軽く撫でる。
「今日はここまで。ピクニックは安全な場所でするの。勝手に一人で行ったらだめよ」
「分かってるって」
そう言ったけれど、岩場の方はやっぱり気になった。崩れてる道とか、野生のポケモンとか、そういうものが危ないのは分かる。でも、分かるのと見てみたいのとは違う。俺は山の奥へ行きたいわけじゃなくて、ただ、あの岩の向こうに何があるのか、少しだけ見てみたかった。
そんなことを考えながら歩いていると、足元の草むらに小さな跡があるのに気づいた。最初は石が転がった跡かと思ったけれど、しゃがんで見ると、土の上に同じ形がいくつも続いている。ポケモンの足跡だ。丸くもないし、爪の跡が深いわけでもない。クロガネの近くでよく見るポケモンのものとは違う気がして、俺は顔を近づけた。
「……これ、何のポケモン?」
父さんが横から覗き込む。しばらく足跡を見たあと、少し眉を寄せた。
「見たことがないな」
珍しい、と笑ってくれたわけではなかった。面白いものを見つけた時の声じゃない。母さんも足跡の先を見て、すぐに俺の肩へ手を置いた。
「ユア、追いかけちゃだめよ。野生のポケモンかもしれないから」
「ちょっとだけ」
「だめ」
すぐに返されて、俺は口を閉じた。だめなのは分かっている。でも、足跡は草むらの奥へ続いていた。見たことのないポケモンが、ついさっきここを通ったのかもしれない。まだ近くにいるのかもしれない。そう思うと、どうしても目が離せなかった。父さんと母さんが荷物を置く場所を話している間、俺はもう一度だけ足跡を見る。ほんの少しだけなら大丈夫。見つけたらすぐ戻ればいい。そう決めて、俺は草むらへ足を踏み入れた。
「ユア!」
母さんの声が聞こえた。けれど振り返る前に、背の高い草が体を隠した。足跡はまっすぐではなく、石の間を抜けたり、木の根のそばを回り込んだりしている。俺は見失わないように何度もしゃがみながら進んだ。最初は探検みたいで、少し楽しかった。自分だけが何かを見つけた気がして、足が勝手に前へ出る。でも岩場に入ると土が少なくなって、足跡はだんだん薄くなった。石の上には跡が残らないし、草も減ってくる。風の音ばかりが大きく聞こえるようになった頃には、父さんたちの声ももう聞こえなくなっていた。
「あれ……どっちだ?」
最後に見た足跡は、岩の割れ目のそばで消えていた。近くの土を探しても、同じ形は見つからない。戻ろうと思って振り返ったけれど、似たような岩と草ばかりで、どこから来たのかすぐには分からなかった。さっきまで通ってきたはずの場所なのに、振り返ると全部同じ景色に見える。俺は少し焦って、父さんたちがいる方を探そうとした。その時、岩場の奥に洞窟の入口が見えた。
洞窟の入口の周りには苔のついた岩が重なっていて、中から冷たい空気が流れてくる。足跡はもう消えている。それでも、あのポケモンが洞窟の中へ入ったのかもしれないと思うと、怖いのに気になった。父さんは奥へ行くなと言っていた。母さんも一人で行くなと言っていた。だから入らない方がいい。そこまでは分かっていたのに、入口の前に立つと、もう少しだけならという気持ちが出てきた。
「……ちょっと見るだけ」
誰かに言ったわけではない。たぶん、自分に言ったのだと思う。俺は洞窟の中へ足を入れた。中は真っ暗ではなかった。外の光が少しだけ届いていて、濡れた岩がぼんやり光っている。けれど数歩進むと、外の明るさはすぐに細くなった。足音が岩に当たって返ってくる。自分で出した音なのに、後ろから誰かが歩いてくるみたいに聞こえて、俺は何度も立ち止まった。
足跡はもう見えなかった。地面は硬い岩ばかりで、土があっても薄く、どこにもはっきり残っていない。戻ればよかった。そう思った時には、入口の光が思ったより小さくなっていた。来た時はまっすぐ歩いていたつもりだったのに、洞窟の中には横に曲がる細い道がいくつもあって、どれを通ったのか分からない。俺は明るい方を探そうとして、壁に手をつけた。
「……出口、どこだよ」
声を出すと、洞窟の奥で小さく返ってきた。父さんを呼ぼうか迷う。でも大きな声を出したら、何かが来そうな気がした。そう思うと声が喉で止まって、俺は結局、黙ったまま進むしかなかった。すると、足元の石がぐらりと動いた。
「っ!」
土が崩れた。踏ん張る前に体が傾き、伸ばした手は何も掴めなかった。斜面になった岩を滑り落ち、肩や背中を何度もぶつける。痛くて、息がうまくできなくて、どこで止まるのかも分からない。最後に地面へ投げ出された時、目の前が白くなった。
どれくらい倒れていたのかは分からない。気を失っていたのかもしれないし、ただ痛くて動けなかっただけかもしれない。ゆっくり目を開けると、上の方に暗い穴が見えた。そこから落ちてきたのだと分かって、俺は起き上がろうとする。けれど肩がずきっと痛んで、思わず顔をしかめた。手のひらもひりひりするし、服には土がついている。
「……いってぇ」
そこは、さっきの細い道とは違う場所だった。天井は高く、岩の壁が丸く広がっている。地面はやけに平らで、周りには大きな石がいくつも転がっていた。上に戻れそうな道は見えない。父さんと母さんの声もしない。やっと本当にまずいと思って、俺は立ち上がりかけたまま動けなくなった。
その時、岩陰で何かが動いた。
俺は息を止めた。暗がりの中に、小さなポケモンがいる。白い体に、緑色の頭。顔のあたりには赤い角みたいなものがあって、細い腕を体の前で固めるようにしていた。体には傷がある。立っているのもつらそうなのに、こちらを見る目だけは弱くなかった。逃げたい。でも逃げられない。近づくな。そう言われているみたいで、俺はその場から動けなかった。
「……ラルトス?」
本で見たことがある。人の気持ちを感じ取る、不思議なポケモン。名前を口にした瞬間、そのポケモンはびくりとした。俺は慌てて一歩近づきかける。怪我をしているなら、何かした方がいいと思った。でも、その前に頭の中へ声が響いた。
『こないで』
耳で聞いた声ではなかった。頭の中に直接入ってきたみたいで、俺はそこで固まる。
「……お前、しゃべれるの?」
ラルトスは口を動かさない。ただ、もう一度同じ声が届いた。
『こないで』
短い声だった。怖がっているのに、はっきり拒んでいた。俺は慌てて両手を少し上げ、その場にしゃがむ。
「分かった。行かない。近づかない」
ラルトスは動かなかった。俺のことをじっと見ている。少しでも近づいたら逃げようとしているのかもしれない。でも傷のせいで動けないのかもしれない。俺はどうすればいいのか分からなかった。助けたいと言えばいいのかもしれない。けれど助け方なんて知らないし、ここから出る道も分からない。俺だって迷子だ。
「俺、ユア。……迷子になった。出口、分かんなくて」
言ってから、すぐに変なことを言ったと思った。怪我をしているポケモン相手に、出口が分からないなんて言ってどうするんだよ。助けに来たわけでもない。勝手に足跡を追って、勝手に洞窟へ入って、勝手に落ちただけだ。ラルトスは返事をしない。けれど、さっきより少しだけ俺を見る目が変わった気がした。信じてくれたのかは分からない。ただ、すぐに追い払おうとしている感じは少し薄くなった。
「何もしねぇよ。ほんとに。だから……そんなに見るなって」
言ったあとで、ちょっと違うと思った。ラルトスは俺を睨んでいるわけじゃない。怖がっているのだと分かったから、俺は口を尖らせたまま、小さく付け足した。
「……びっくりさせたなら、ごめん」
ラルトスはまだ黙っていた。洞窟の中は静かで、自分の息がやけに大きく聞こえる。俺は父さんと母さんのことを思い出した。今ごろ探しているかもしれない。怒っているかもしれない。怒られてもいいから、早く見つけてほしい。そう思った時、洞窟の奥から低い音がした。
ズズン、と地面が震える。
俺は顔を上げた。ラルトスの体が小さく縮こまる。それを見て、今の音がただの岩の音ではないと分かった。もう一度、重い足音が近づいてくる。暗い奥で何か大きなものが動いた。硬い体が岩にこすれるような音がして、冷たい空気が流れてくる。
「……なに」
声が震えた。立ち上がろうとしたけれど、足がうまく動かない。ラルトスは逃げない。逃げられないのだと、その時になって分かった。
洞窟の奥から、巨大な影が現れた。