シンオウ地方のクロガネシティは、テンガン山と鉱山に囲まれるようにして存在している街だった。
すぐ近くのテンガン山は、そこにあるだけで空気の重さが少し変わるような、巨大な存在だ。晴れた日でも、その頂は見えず、まるで世界の縁がそこで折れ曲がっているみたいだった。
そんなテンガン山の麓にあるクロガネシティに住む俺、【ユア】は、その日、両親と一緒にピクニックに来ていた。
まだ7歳の幼い俺にとっては、外の世界へ踏み出す数少ない機会でもあった。
草の匂いは街とは違っていて、風の音も、どこか遠くから届いているように感じる。
俺は歩きながら、山の斜面をじっと見つめ、
「この山ってさ、奥に行くとどうなってるの?」
と、前を歩く父さんに聞いた
父さんは少しだけ歩幅を緩める。
「子供が簡単に入れる場所じゃない。奥は危ないから行くなよ」
と、少しぶっきらぼうに言う。
母さんは苦笑しながら、俺の頭を軽く撫でた。
「今日はここまで。ピクニックは安全な場所でするの、勝手に一人で行っちゃダメよ」
俺は頷いたが、視線だけは山から離れなかった。
ふと、足元の草むらに、何かを見つけた。
小さな、ポケモンの足跡。
俺はしゃがみ込み、その足跡を観察する。
この辺りでは見たことのない足跡だった。
「……これ、何のポケモン?」
俺が聞くと、父さんが後ろから覗き込む。
「見たことがないな」
その言葉には、珍しさよりも警戒が混じっていた。
母さんも足跡を見て、表情をわずかに曇らせる。
「ユア、あまり近づかない方がいいわよ」
未知のポケモン。野生というものは恐ろしいものだと知っている両親は俺に注意をする。
だが俺の目は、すでに足跡の先を追っていた。
「……ちょっとだけ、見てくる」
「ユア!」
母さんの声が少し強くなる。
だが俺は、もう既に踏み出していた。
足跡は草むらを抜け、岩場へと続いている。そこから先は、整備された道ではなく、人の手がほとんど入っていない、山の中だ。
草が膝をかすめる。
岩の隙間から風が抜けるたび、小さな音が鳴る。
幼い俺にとって、これは探検のようなものだった。
進むにつれて、空気が変わっていく。
音が少ない。
鳥の声が消えている。
代わりに、山そのものが静かに俺を“見下ろしている”ような感覚になる。
ポケモンの足跡は洞窟の中へと続いていた。
黒い口を開けたまま、何も語らない洞窟の入口。
俺は立ち止まる。
「……あー。」
後ろを振り返ると、両親の姿はない。
洞窟の奥から、わずかに風が流れてくる。
ーー引き返すか?いや、だが気になる。
好奇心に勝てなかった俺は、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
洞窟の中は完全な暗闇ではなく岩肌がかすかに光を反射している。
進めば進むほどに、外の世界が薄れていく。
音も、光も。
そして気づけば、俺は迷子になっていた。
「……やば、どーしよ」
小さく呟いた声は、洞窟の奥へと吸い込まれていった。
――――――
洞窟の中は、静かというより「音が遅れている」という表現が似合っていた。
足音を立てても、すぐには返ってこない。数拍遅れて、岩に吸い込まれるような反響が返ってくる。その違和感が、俺の背中にじわじわと張りついていた。
「……出口どこだ。」
この薄暗い中だ。入口の光はとうになくなっていた。
俺は一度立ち止まり、深く息を吸った。
「落ち着け。まだそんなに奥じゃない」
自分に言い聞かせるように進もうとした、そのとき。
足元の土が唐突に崩れだした。
「っ……!」
バランスを崩した俺の身体は、斜面を滑るように落ちていく。岩肌に肩をぶつけながら、視界が一気に下へ引きずり込まれた。
どれくらい落ちたのか、気絶していたのか、気絶していのならばどのくらいなのか…はわからない。
天井は高く、岩の壁が円形に広がっている。地面は平らで、まるで誰かが削り出したような空間。
自然にできたとは思えない。
俺はゆっくりと立ち上がる。
「……いってぇ」
呟いたそのときだった。
視線の端にある岩陰で黒い影がかすかに揺れた。
俺は恐怖から一瞬呼吸を忘れながらも、影が揺れた方を見る。
そこにいたのは、小さなポケモンだった。
白に体色。
頭部は緑色で赤い角が生えている。
そのポケモンは体のあちこちに擦り傷があり、呼吸も浅い。それでも、その存在は明らかに“拒絶”の意志を示していた。
俺は一歩、近づきかけて止まる。
「……野生のポケモン」
頭の中に、図鑑でみたポケモン記憶が浮かぶ。
確か、似た特徴の種族がいた。
【ラルトス】
人間の感情を読み取ることが出来る、エスパータイプのポケモン。
俺がもう一歩近づこうとした瞬間、頭の中に“声”が響いてきた。
『こないで』
俺は足を止めた。
「……お前、喋れるのか」
音として、声としての返事はない。
だがもう一度、頭に声が響く。
『こないで』
拒絶。
俺はゆっくりとしゃがみ込む。
距離を詰めない。
視線も外さない。
「わかった。近づかない」
沈黙。
ラルトスは動かずにこちらをじっと見ている。
敵か、味方か、見定めているかのように。
俺は小さく息を吐いた。
「俺、迷子なんだよ。出口がわからなくて」
話しかけていると、警戒がほんの少しだけ弱くなる。
対話には応じてくれるようだ。
それでも完全には解けない。
俺は続ける。
「大丈夫、俺は敵じゃないよ」
長い沈黙のあと、ようやくラルトスの視線が少しだけ和らいだ。
拒絶の奥に、別の感情が混じる。
“疑心”。
本当にそうなのか、と、真っ直ぐ俺を見る。
そのときだった。
すぐ近くで、低い音がした。
ズズン、と重い足音。
俺の背筋が一気に冷える。
ラルトスが体を竦める。
明確な“敵意”。
洞窟の奥から巨大な影が現れた。