翌朝、目を覚ますと、窓の外はもう薄く明るくなっていた。カーテンの隙間から差し込んだ光が床を細く照らし、その上をヤトウモリが行ったり来たりしている。昨日ポケモンセンターで診てもらった傷はもう気にならないらしく、歩くたびに四本の脚が軽く床を叩いていた。俺が身体を起こすと一度だけこちらを見たものの、すぐに窓辺へ戻り、外を通る人やポケモンの気配を追うように首を動かしている。
「おはよう。もう元気そうだな」
「ヤトッ」
返事だけして、また窓の外へ顔を向ける。昨日まで誰かのポケモンだった奴が、今朝は当たり前みたいに俺の泊まっている部屋にいる。少し不思議な感覚だ。
ベッドから降り、机の上へ置いていた荷物をリュックへ戻していく。着替えを畳み直し、キズぐすりの残りを確かめ、木の実と携帯食が入った袋を奥へ押し込む。最後に部屋の中を一周して、ベッドの下や机の脇まで覗き、忘れ物がないことを確かめてからリュックの口を閉じた。
宿の食堂へ降りると、朝食の匂いが広がっていた。自分の分を受け取り、ポケモンたちにもそれぞれ食事を用意してもらう。ヤトウモリの皿を床へ置こうとしたところで、まだ手を離していないのに鼻先が伸びてきた。
「待てって。まだ置いてないだろ」
皿が床へ触れた瞬間にはもう食べ始めている。昨日木の実を渡した時にも思ったけど、食べ物が絡むと本当に迷いがない。
『よく食べるね』
「昨日までちゃんと食わせてもらってなかったのかもな」
キルリアの声に返しながら自分の朝食へ手を伸ばす。ヤトウモリは一度も顔を上げず、先に食べ終えると空になった皿を舐め、それから俺の方を見た。
「俺のはやらないぞ」
「ヤト…」
「ほんとに食い意地張ってんなぁ」
朝食を終え、宿の人へ礼を言って外へ出る。通りにはまだ夜の冷たさが少し残っていたけど、店先では扉が開き始め、道の端へ看板や商品を運び出す人の姿が増えていた。大通りを進み、二つ目の角を曲がる。看板を探さなくても足はそのままジムの方へ向かい、少し歩けば見慣れた建物が通りの先に現れた。
受付で挨拶をして奥へ進むと、昨日みたいなゴーリキーの足音は聞こえなかった。代わりに、床を踏み込む軽い音が一定の間隔で続いている。
練習場ではスモモが一人で動いていた。腰を落として一歩踏み込み、拳を真っ直ぐ前へ出す。その腕を引きながら身体を回し、横へ蹴りを伸ばすと、着地した足をそのまま次の踏み込みへ繋げる。何度か同じ動きを繰り返し、最後に最初と同じ構えへ戻ったところで、こっちに気づいた。
「ユア! おはようございます!」
「おはよう。もう練習してんの?」
「はい。今日はゴーリキーを休ませてるので、一人でジム戦の時気になったところを確認してました」
昨日までなら「ユアさん」だった名前が、今日は最初から呼び捨てになっている。本人も言い直す様子はなく、近くに置いていたタオルを取って額の汗を拭いた。
「もう出るんですよね?」
「うん。荷物もまとめたし、このあとそのままズイに向かう」
「それなら、ちょっと待っててください!」
何をするのか聞く前に、スモモは奥へ走っていった。
「……なんだ?」
『さあ?』
少し待つと、今度は両手で袋を抱えて戻ってくる。そのまま俺の前へ差し出されたので受け取ると、見た目よりずっと重かった。
「途中で食べてください。ユアの分と、ポケモンたちの分も入ってます。ズイまで歩くならお腹空くでしょうし!」
「ありがたいけど……結構入ってない?」
袋の口を少し開くと、木の実だけじゃなく、包まれたパンや日持ちしそうな食べ物まで詰まっていた。
「みんなで食べたら、これくらいすぐなくなりますよ!」
「その『これくらい』がスモモ基準な気がするんだよな……」
「足りないよりいいじゃないですか!」
「まあ、それはそうだけど」
重いとはいえ、旅の途中で食料が増えるのは普通に助かる。リュックへ入れようと袋を持ち直したところで、足元からヤトウモリが寄ってきた。
目は袋だけを追っている。
「まだ食わないぞ」
「ヤト」
「今朝食ったばっかだろ」
鼻先が袋へ近づいたので、届く前に持ち上げる。
「昼になったらな」
ヤトウモリはしばらく上を見ていたけど、降りてこないと分かると諦めたらしい。スモモがその様子を見ながら小さく笑った。
「昨日よりずっと元気ですね」
「うん。センターでも大丈夫って言われたし、普通に歩けそう」
「よかったです」
餞別をリュックの空いているところへ収め、肩紐を引いて位置を直す。スモモもタオルを首へ掛け直し、少し離れたところへ置かれているゴーリキーたちのボールへ目を向けた。
「あのジム戦で負けたこと、ちゃんと覚えてますから。次にユアが来た時は、同じようにはいきませんよ。ゴーリキーたちともっと練習しておきます」
「俺だって旅してる間に強くなるけど」
「それでも勝ちます!」
迷う様子もなく言い切られた。
「じゃあ楽しみにしとく」
「はい!」
スモモなら、本当に次に会うまでずっと練習していそうだった。今朝だって俺が来る前から一人で身体を動かしているし、昨日はゴーリキーと組手をしていた。ジム戦で負けたことも、悔しがって止まらず、次に勝つための練習へ持っていっている。
これ以上話していると出発が遅くなりそうで、リュックを背負い直して入口へ身体を向けた。
「じゃ、そろそろ行く」
「はい。入口まで行きます」
二人で練習場を出て、受付の横を通る。外へ出ると、宿を出た時より陽が高くなり、通りにも人が増えていた。ここから先は俺が街を出て、スモモはまたジムへ戻るだけだ。
「ズイまで気をつけてくださいね。遺跡も行くなら、変なところに勝手に入っちゃダメですよ」
「同い年に言われてもな」
「ユア無茶しそうですから。友達が無茶したら誰だって心配します」
「…………」
返事をする前に、ほんの少しだけ間が空いた。
「……気をつけるよ」
「ちゃんとですよ?」
「分かったって」
スモモが納得したように頷く。
「それと、またトバリに来たらジムに寄ってくださいね。勝負じゃなくてもいいですから。近くまで来たなら普通に遊びに来てください」
「うん。来たら寄る」
「約束ですよ」
「分かった」
昨日までなら、ここへ来る理由はジム戦だった。次に来る時は別にバッジもいらないし、何か頼まれごとがあるとも限らない。それでも寄ってくれというのは、友情のようなものなのだろうか。
スモモが片手を上げる。
「じゃあ、いってらっしゃい! ユア!」
「うん。じゃあな、スモモ」
俺も手を上げて返し、そのまま通りへ出た。
少し進んだところで後ろから足音が聞こえた気がして振り返ったけど、スモモはジムの入口から動いていなかった。こっちを見ていたので、もう一度だけ手を上げると、向こうも同じように返してくる。
前を向き、街の出口へ向かう。
朝の通りを歩いていると、何日か見てきた建物が一つずつ後ろへ流れていく。交差点を抜け、店が並ぶ場所を過ぎると、道の両側にあった壁や看板が少なくなり、その隙間から遠くの空が広く見えるようになった。街を出入りする人や荷物を運ぶポケモンとすれ違いながら進み、最後の大きな建物を越える頃には、後ろから聞こえていた街の音も少し遠くなっていた。
道はそのまま先へ伸びている。
まだ午前中だから脚は軽い。昨日までの疲れも、昨夜銭湯へ行ったおかげでほとんど残っていなかった。
少し進んだところで、背中の方から小さな音がした。
カサッ。
「ん?」
歩く速度を落とす。
もう一度、カサッ。
後ろを見ると、ヤトウモリが俺のすぐ近くまで寄り、リュックの横へ鼻先を伸ばしていた。
「……お前、それスモモにもらった袋だろ」
「ヤト」
「昼まで待てって言ったじゃん」
ヤトウモリがリュックを見る。
俺を見る。
またリュックを見る。
「見ても出てこないからな」
数歩進む。
後ろからまた小さな爪の音がついてきた。