布の上に置いたタマゴが、今度はさっきより大きく揺れた。右へ傾き、戻りきる前にもう一度動く。寝ぼけていた頭もさすがに目を覚まし、俺は布団から這い出してタマゴの前へ膝をついた。キルリアも隣まで寄ってきている。寝る前はあれだけ言葉を探していたのに、今は殻の向こうに何かを見るみたいに黙ったまま動かない。
「……これ、生まれるんじゃねえの」
『多分。寝る前に言ってたのが、さっきから急に強くなったんだよ。近いって言ったでしょ? 今はもう、殻の向こうですぐ動いてるみたいに感じる。さっきまでとは全然違う』
「じゃあ最初からそう言えよ」
『だから、さっきはここまでじゃなかったの。急に変わったから起こしたんだって!』
言い返す声につられたのか、後ろで布の擦れる音がした。振り返ると、チュリネが眠そうに目を開けている。ヤトウモリも身体を起こし、状況が分からないまま俺とキルリアを交互に見ていた。さらに廊下側から翅の震える音が近づき、開いていた戸の隙間からビブラーバが頭を覗かせる。
「お前らまで起きたのか。静かにな、夜中だから」
そう言った俺の声が一番でかかった気もする。
ビブラーバが翅を止めて部屋へ入ってくる。チュリネも布団から抜け出し、いつの間にかキルリアの反対側へ座っていた。ヤトウモリはまだ半分眠っているような顔で近づいてきたのに、タマゴがまた揺れた途端、目が開く。クチートはどこだと思って視線を動かすと、少し離れた壁際にもう座っていた。俺が起きるより先に起きていたらしい。
タマゴはそこで一度動きを止めた。
誰も喋らない。
『……止まった?ユア、なんで止まったの?大丈夫だよね?』
「ちょっと落ち着けって」
さっきまで何度も揺れていたせいで、止まっている方が気になった。俺が手を伸ばしかけると、殻の上の方から小さな音がする。
白い表面に細い線が入った。
『ユア、ひび』
「見えてる」
線はそこで止まらず、二つに分かれて横へ伸びていく。内側からもう一度押されると、ひびの間がわずかに浮いた。ヤトウモリが鼻先を伸ばしたので、顔の前へ手を入れる。
「触んな。今、自分で出てこようとしてんだから」
「ヤト……」
一歩下がったと思ったら、首だけ伸ばしてまだ見ている。
殻がまた持ち上がった。小さな欠片が一つ外れ、布の上へ転がる。その穴の奥に緑色の何かが見えたかと思うと、すぐに引っ込んだ。
『今いた!』
「引っ張んなって。俺も見てたから」
腕を掴んできたキルリアを押し返している間にも、内側から何度も殻が押される。ひびが大きく繋がり、欠けた場所から今度は緑色の頭が出た。左右の耳が殻へ引っかかり、一度引っ込んでから角度を変えてもう一度押し出してくる。
前足が一本、布を踏んだ。
もう一本。
小さな身体が殻の隙間を広げながら前へ出て、最後に後ろ足で残った殻を蹴る。勢いを止めきれず、そのまま布の上へ腹をつけた。
「……見たことないポケモンだ」
俺の記憶を探ってみても、図鑑で見た覚えはない。黄緑色の身体に、顔から胸へ少し濃い緑が入っている。まだ身体の使い方がよく分からないのか、前足を踏ん張って頭を持ち上げるだけでも少しふらついた。細く開いた目が俺たちを順番に見て、鼻先が二、三度動く。
「みゃ……」
小さな声が出た。
鳴いた本人まで耳をぴくっと動かした。
キルリアがその場へしゃがみ込んだ。いきなり触らず、まず掌を見えるところへ置く。生まれたばかりのポケモンはキルリアの顔と手を何度か見比べ、静かに鼻先を寄せた。
『大丈夫。何もしないよ』
もちろん向こうに言葉が通じているのかは分からない。
キルリアの指が額へ触れる。
耳の間をゆっくり撫でると、身体を引くどころか目が少し細くなった。キルリアが耳の付け根へ手を移しかけたところで、緑色の耳がわずかに動く。すると触れる前に手の位置を変え、今度は頬の横を撫でた。そこは平気だったらしく、小さな頭が掌へ寄っていく。
『……すごい。全然嫌がらない』
「むしろ甘えてね?」
キルリアが手を止める。
すると今度は向こうから額を押しつけた。
『ほんとだ』
「生まれたばっかだぞ」
『だからって甘えちゃ駄目なわけじゃないでしょ。ねえ?』
「そいつに聞くなよ」
俺にはタマゴの中にいた時の気配なんて分からないし、目の前の小さいやつが何を考えているのかも分からない。けど、キルリアは昔から人やポケモンの気分が変わると俺より先に気づく。今も相手が身体を引く前に手を止め、平気なところへ触れ直していた。そのせいなのか、生まれたばかりだというのにキルリアの手の下では随分大人しい。
そのすぐ横にはチュリネがちょこんと座っていた。
近づいてきたのはいいものの、何をするでもない。
新しく生まれたポケモンが顔を向けると、チュリネも同じように顔を向ける。しばらく見つめ合い、チュリネの頭の葉が小さく揺れた。向こうが鼻を近づけようと一歩出たところへ、横から別の鼻先が割り込んでくる。
「ヤトウモリ、お前は近いって」
「ヤト?」
こいつはさっきから落ち着きがない。キルリアの後ろを通ったかと思えばチュリネの横へ回り、今度は反対から鼻先を寄せて匂いを嗅いでいる。俺が顔を押し戻すと素直に二歩下がったが、数秒もしないうちに別の方向からまた近づいてきた。
その外側ではビブラーバが右へ左へ首を動かしていた。キルリアとチュリネが近くに座り、ヤトウモリまで周囲を歩き回っているせいで顔を入れる隙間がない。少し身体を浮かせて上から覗こうと翅を開きかけたので、俺が手を上げる。
「飛ぶな。こんな夜中に飛んだらシロナ達に迷惑だろ」
翅が閉じる。
今度はキルリアの肩越しに首だけ伸ばす。けど、そこへまたヤトウモリが通った。
「……お前、場所譲ってやれよ」
「ヤト?」
「ずっと見てんだろ。ビブラーバも見たいんだって」
脇を抱えて少し横へ動かすと、ようやく空いた隙間からビブラーバが顔を近づけた。自分よりずっと大きな頭が来ても、新しく生まれたポケモンは耳を立てただけで逃げない。キルリアの手がまだ背中に触れている。そのまま鼻先を動かしてビブラーバを見上げ、細く一度鳴いた。
「みゃ」
ビブラーバの翅が一度だけ震えた。
「今は飛ぶなって」
慌てて止めると、ビブラーバは不満そうに頭を下げた。
クチートだけは輪の中へ入ってこなかった。
壁際から動かず、俺たちの方を見ている。ヤトウモリが近づきすぎた時にはそちらへ目を動かし、小さな声が鳴ればまた中央を見る。大顎も床へ下ろしたままで、一度も寝る場所へ戻ろうとはしなかった。
その時、廊下の向こうで足音がした。
部屋の戸が開き、長い金髪が隙間から覗く。
「……こんな時間に随分賑やかね」
昼間より少し低い声だった。寝ていたところを起こしたらしい。
「ごめん。タマゴ、生まれた」
「あら」
シロナの目が俺から床へ移る。
キルリアに撫でられている緑色のポケモンを見つけると、眠そうだった目が少し開いた。みんなの隙間から覗くようにその場へしゃがむ。
「この子は…ニャオハね。シンオウではほとんど見かけないけれど、パルデア地方にいるポケモンよ。アイから預かったタマゴなら、向こうから持ってきたものなのかもしれないわね」
「パルデア……」
アイが生まれた地方だ。
何が入っているかは知らないと言っていたけど、そもそもタマゴを持っていたのがアイなら、そこから来たポケモンでもおかしくはない。
「ニャオハか」
「みゃ」
偶然なのか、呼んだところで返事がきた。
シロナはしばらく様子を見ていたが、自分から手を伸ばすことはしなかった。
「足取りもしっかりしてきているし、今のところ心配はなさそうね。朝になったら、もう一度ちゃんと様子を見ましょう。ただ、生まれたばかりなんだから、みんなで囲みすぎないようにね」
「俺もさっきからそう言ってる」
『別に怖がってないよ』
「そーゆー問題じゃない」
キルリアがこっちを見て口を尖らせる。シロナは俺たちのやり取りにもう慣れたのか、クスッと笑った。
「それじゃ、おやすみ。あまり遅くまで起きていないのよ」
「うん、おやすみ」
戸が閉まり、足音が遠ざかる。
静かになったと思ったのも束の間、キルリアはまたニャオハを撫で始めた。
「お前、シロナの話聞いてた?」
『聞いてたよ。囲みすぎなきゃいいんでしょ。撫でてるだけだし、この子も嫌がってないから大丈夫』
「そういうとこだけ都合よく解釈すんなよ」
言っても手は止まらない。
チュリネも相変わらずニャオハの横に座っているし、ヤトウモリは歩き回るのをやめただけで、少し離れて伏せながら時々鼻を動かしている。ビブラーバもようやく場所を取れたせいか、輪の少し外で身体を伏せた。クチートだけは最初からいた壁際に座ったままだ。
囲まれているニャオハの方は、もう最初ほど周りを気にしていなかった。
キルリアの手が額を通るたびに目が細くなり、とうとう前足を折って布の上へ腹をつける。そのままチュリネの横へ身体を寄せ、尻尾まで床へ下ろした。
「……眠いんじゃねえか?」
『多分。さっきから目閉じそうになってる』
「じゃあ寝かせてやれよ」
『撫でてても寝られるよ』
「お前が離れたくないだけだろ」
返事がない。
その代わりキルリアは少しだけ撫でる速度を落とした。
「みんなもほどほどにな。ニャオハ寝れねえだろ」
『ちゃんと静かにしてるから。ユアこそ早く寝なよ、さっき眠そうだったじゃん』
「起こしたのお前だろ」
『起きて正解だったでしょ』
「それはまあ……そうだけど」
もう言い返すのも面倒になり、布団へ戻る。
灯りを消して横になると、さっきまであれだけ動いていた連中もさすがに静かになった。暗い部屋の中で、ときどきヤトウモリが身体を動かす音がして、その向こうから細い寝息が聞こえてくる。
ーー
目を開けると、障子の向こうがもう明るかった。
身体を起こして最初に見えたのはキルリアの背中で、その向こうに黄緑色の耳が二つ出ている。ニャオハは昨夜より少し場所を移して丸くなっていて、チュリネもそのすぐ横にいた。ヤトウモリは少し離れたところで腹を出しかけた妙な格好で眠っている。ビブラーバはその横で体を伏せて寝ていた。
壁際を見る。
クチートまでまだいた。
「……みんなもほどほどになって言ったよな」
キルリアが振り返る。
『ちゃんと寝たよ。ニャオハも途中からずっと寝てたし、誰も起こしてないから大丈夫。それより夜中より足もしっかりしてるよ。さっきちょっと歩いてた』
「朝からもう見てたのかよ」
『気になるんだから仕方ないでしょ』
話している間にニャオハの耳が動いた。
ゆっくり目を開け、身体を伸ばす。前足を突っ張って腰を上げると、昨夜よりはまともに立てた。まだ一歩目だけ少し頼りなかったけど、そのまま俺の方へ二、三歩近づいてくる。
「みゃ」
「おはよ」
手を出すと、まず指先の匂いを嗅いだ。
それから額を少しだけ押しつけてくる。
一度撫でると、すぐにキルリアのところへ戻っていった。
『ほら、ユアにも慣れてきた』
「お前には負けるけどな」
『昨日からずっと一緒にいたからね』
「数時間だろ」
『数時間も、でしょ』
朝っぱらから言い合っていると、廊下から祖母さんに飯だと呼ばれた。
ーー
朝飯の席にはシロナももう座っていた。昨夜起きてきた時の眠そうな顔はなく、俺が来る前から何か書かれた紙を読んでいたらしい。食事が並ぶと横へ退け、そのまま一緒に箸を取る。
「ニャオハはどう?」
「元気。キルリアたちがずっと構ってる」
「昨日あれだけ囲んでたものね。生まれたばかりなら今日は無理に連れ歩かず、しばらくここで休ませた方がいいわ。祖母もいるし、私も仕事の合間には戻れるから心配しなくて大丈夫よ」
「俺も置いてくつもり。まだちゃんと歩けるようになったばっかだし」
「それならいいわ。それで、ユアは今日はどうするつもり? 昨日着いたばかりだから、まだズイもほとんど見ていないでしょう。特に予定がないなら、町の近くにある遺跡へ行ってみたら?」
箸を動かしていた手が止まる。
「遺跡?」
「かなり昔から残っている場所で、シンオウの古い歴史に関わるものもあるの。町からそれほど離れていないし、ただ歩き回るよりは面白いと思うわ。興味があるなら行ってみたらどうかしら。創世の歴史が少しわかるかもしれないわよ」
創世。
前にも似た話を聞いた。
ヨスガで聞いた、テンガン山の頂上にいるという神。シンオウそのものを作ったとも言われている存在の話だ。
「前にヨスガでも、そういう話聞いたな」
「それなら余計に見ておいて損はないと思うわ。同じ地方の昔話でも、残っている場所によって形が違うもの。私は昨日話したリーグの仕事があるから一緒には行けないけれど、遺跡までの道ならあとで教えるわ」
「じゃあ行ってみる。ここにいてもキルリアがニャオハから離れそうにないし」
「それは関係ないでしょう」
「あるだろ。ずっとベッタリなんだぞアイツ」
シロナが笑い、祖母さんは何も言わずに味噌汁を飲んでいた。
朝食を済ませて部屋へ戻ると、予想通りキルリアはまだニャオハの横にいた。俺がリュックを開いて必要なものだけ入れ直している間も、チュリネと一緒に遊ぶニャオハを見ている。
「俺、ちょっと遺跡見てくるから。ニャオハはここに置いてくぞ」
キルリアはすぐには返事をせず、ニャオハを見た。
そのあと、俺へ顔を向ける。
『だったら、今日はここに残っててもいい? まだ生まれたばかりだし、昨日から感じてた気配も今どうなってるのか気になる。元気そうだけど、何か変わったらすぐ分かると思うから』
「いいよ。じゃあ頼む。なんか変だったら自分だけでどうにかしようとしないで、シロナか祖母さん呼べよ」
『分かってる。そこまで無茶しないって』
「お前たまにするだろ」
『ユアよりはしない』
「余計な一言つけんな」
ニャオハの横にはチュリネも座ったままだった。
「チュリネも残るか?」
名前を呼ぶと、チュリネは俺を見てからニャオハへ顔を戻した。
「……まあ、そうなるよな」
無理に連れていく理由もない。
今日やるのは遺跡を見るだけだ。クチートとビブラーバ、それにヤトウモリがいれば十分だろう。
準備を終えて立ち上がると、キルリアの横からニャオハがこちらを見た。
「じゃ、行ってくる」
「みゃ」
『気をつけてね。帰ってきたらニャオハがどれくらい歩けるようになったか教えてあげる』
「それ俺が帰ってきたら見れば分かるだろ」
『じゃあ見せてあげる』
「同じじゃねえか」
戸を開ける。
朝の光が廊下へ差し込んだ。
振り返ると、ニャオハはキルリアの足元に座り、その横にはチュリネがいる。昨夜割れた殻はもう片づけられていて、布だけが畳まれて壁際へ寄せてあった。
俺はリュックを背負い直し、シロナに教えられた道を確かめるため玄関へ向かった。