「マニューラ、“つめとぎ”」
アカギが告げると、マニューラは両手を胸元まで持ち上げ、白い爪同士を擦り合わせた。乾いた音が石室へ響き、刃先を確かめるような動きが終わる。何をする技なのかは知らなくても、さっきより動きや攻撃を通しやすくする準備なのは見れば分かる。好きなだけ続けさせる理由はない。
「クチート、“ちょうはつ”! これ以上やらせんな!」
大顎を大きく鳴らし、クチートが正面からマニューラを煽る。赤い目が細くなり、爪を研ぐ動きはそこで止まった。一回は使われた。それでも強化を重ねられるよりいい。しかもマニューラはこおりとあく。図鑑で見た時に覚えている。だったら、クチートにはちゃんと効く技がある。
「そのまま“かわらわり”!」
クチートが石床を蹴り、振り上げた腕を叩き込む。アカギの「“でんこうせっか”」と言う指示と同時に黒い身体が横へ流れ、腕は何もない場所を切った。速い。でも動きそのものを見失ったわけじゃない。右へ抜けたのは見えたし、クチートもすぐ身体を返せる。追いかければ振り回されるなら、向こうから近づいてくるところを狙えばいい。
「追わなくていい! そこで待て、入ってきたら“かみくだく”!」
クチートが足を止め、大顎を半分だけ開いた。マニューラは低く腰を落とし、そのまま真っ直ぐ距離を詰めてくる。近づかなければ攻撃もできない。射程へ入ったところで大顎が一気に閉じ、ガチン、と硬い音が石室へ響いた。
「……は?」
何も噛んでいない。視線をずらすと、マニューラは大顎の外側に立っていた。ぎりぎりで抜けたようには見えない。いつ離れたのか分からないまま白い爪が持ち上がり、アカギの声が重なる。
「“ブレイククロー”」
「クチート、横!」
クチートが身体を捻る。それでも避けきれず、爪を受けた身体が横へ流れた。足を開いて踏ん張り、倒れずにマニューラを睨み返す。まだやれる。あの大顎で相手を捕まえたことも、攻撃を押し返したことも何度もある。“かわらわり”だって当たれば効くはずだし、一度捕まえればあの速さも使えない。
当てればいいはずなのに、その「当てる」ができない。
「もう一回。逃げる方まで見ろ!」
クチートが構え直す。マニューラとの間は数歩しかないのに、今度はその距離まで妙に遠く見えた。アカギが短く“あくのはどう”を指示すると、黒い波が正面から押し寄せる。クチートは大顎を前へ出しながら身体を捻ったが、避けきれなかった波に押され、石床へ横倒しになった。
「クチート!」
大顎が床を叩き、腕に力を入れて起きようとする。それでも一度身体を持ち上げたところで沈んだ。俺が駆け寄りかけると、横から翅音が近づいてくる。ビブラーバがマニューラを見据えていた。
近づくから捉えられないなら、近づかなくていい攻撃に変えればいい。マニューラがどれだけ速くても、音が石室いっぱいへ広がれば、一点を追いかける必要はなくなる。
「ビブラーバ、“むしのさざめき”!」
翅が細かく震え、低い音と一緒に空気が揺れ始める。
「“でんこうせっか”」
床を蹴ったマニューラが一気に距離を潰す。音が壁から返ってくる頃にはビブラーバの真下まで入り込んでいて、俺が上昇を叫ぶとビブラーバは身体を跳ね上げるように高度を取った。黒い影がすぐ下を抜け、翅の動きが乱れたことで広がりかけていた振動も途切れる。
「……音から逃げるんじゃないのか」
広がってから避けるのではなく。技を出しているビブラーバへ突っ込んできた。
なら、今度は攻撃する場所そのものを見せなければいい。
「ビブラーバ、“あなをほる”!」
高度を落としたビブラーバが石床へ潜り、欠けた石と土だけを残して姿を消した。マニューラは追わず、アカギから指示も飛んでこない。地下へ入ればあの速さで追い回されることはないし、どこから出るかはこっちで決められる。正面を避けて背後へ回らせ、地上へ出たところから仕掛けようと床を見ていると、マニューラの斜め後ろで小さな石片が転がった。
床が僅かに盛り上がる。
マニューラがそちらを向いた。
「“あくのはどう”」
地面を割ってビブラーバが飛び出した瞬間、黒い波がまともにぶつかった。浮き上がるはずだった身体が横へ弾かれ、そのまま床を転がっていく。
「ビブラーバ!」
翅が何度か震えるものの、すぐには身体が持ち上がらない。
床が動いた瞬間だった。ビブラーバが出てくる場所を最初から知っていたんじゃない。マニューラは追わずに待っていて、地面に変化が出たところだけを見ていた。
「……待ってた?」
速いだけじゃない。こっちがその速さをどうにかしようと考えても、そのやり方ごと潰されている。
「ヤト」
足元から声がして顔を落とすと、ヤトウモリが前を向いていた。クチートでも捕まえられず、ビブラーバで広く狙っても、地面へ潜っても通じなかった。だったらもうマニューラ自身を追う必要はない。速さを消せないなら、使える場所を減らせばいい。
「ヤトウモリ、“えんまく”! 奥側を塞げ!」
吐き出された黒煙がマニューラと奥の通路の間へ広がる。
「その端に“どくガス”! 部屋全部に広げなくていい、逃げる方を潰せ!」
毒を含んだガスが黒煙の外側へ重なる。右へ逃げれば煙で視界が切れ、さらに外へ回れば毒ガスへ入る。こっち側へ出てくるなら場所を絞れる。マニューラは煙のまだ薄いところへ身体を滑らせ、狙った通り俺たちの側へ抜けてきた。
「そこだ! “ヘドロばくだん”!」
ヤトウモリが身体を反らして紫色の塊を吐き出す。狙った方向は合っている。マニューラが出てきた位置も見えていた。それでも黒い身体が沈むと、塊は頭上を抜けて後ろの床へ弾けた。次の技へ繋ごうとしたヤトウモリへマニューラが踏み込み、白い爪が持ち上がる。
「“ブレイククロー”」
小さな身体が石床を転がった。
「ヤトウモリ!」
「……ヤト」
声は返ってきた。前足を立てようとしているけど、身体がついてこない。
顔を上げる。
マニューラは変わらずそこにいた。多少位置を変えただけで、目立った傷もなく、呼吸も大きく乱れていない。アカギも最初に立っていた場所からほとんど動かず、こっちが三匹で考えられることを試している間、必要な時に何度か指示を出しただけだった。
次が出てこない。
いつもなら相手を見れば何か一つは浮かんだ。正面が駄目なら位置を変えて、技が通らなければ別の技を考えて、相手が何をしているのか見ながら次へ繋げてきた。今はマニューラを見ても、何をさせればいいのか頭の中に出てこない。
「……何すればいい」
マーズには負けた。それでも最後まで次の指示は出せた。大湿原でもジュピター本人には勝てなかったけど、ビブラーバと一緒にスカタンクまでは倒した。
今回は、一発も届いていない。
ガチ、と小さな音がした。
「……クチート?」
倒れていたクチートが大顎を床へつき、身体を起こそうとしている。一度足が崩れても、そのまま大顎を支えに立ち上がり、身体を揺らしながらマニューラへ顔を向けた。
「もういい、クチート」
それでも前を向いたままだった。
まだ立てる。まだ戦う気がある。だったら俺まで止まってどうする。ここでアカギを帰したら、さっき聞いた計画をそのまま進められる。世界を一度なくして作り直すなんて、そんなものを聞いて見逃せるわけがない。
でも、また届かなかったら。
ガチン、と何もない場所で閉じた大顎の音が頭に戻ってくる。“かわらわり”は当たれば効くと思った。大顎で捕まえれば止められると思った。
なのに、最後まで、一度も届かなかった。
今のクチートを、もう一度あのマニューラの前へ出したら。
「クチート、もう一回……」
「やめなさい!」
石室に声が響き、身体が止まった。通路の入口へ顔を向けると、シロナが立っている。いつもの穏やかな表情はなく、俺へ駆け寄る前に床へ倒れているビブラーバとヤトウモリ、どうにか立っているクチートへ目を走らせ、そのまま傷らしい傷もないマニューラを見てからアカギへ視線を移した。
「……チャンピオンか」
アカギが初めてシロナを正面から見た。
「この子たちはもう戦わせないわ。続けるつもりなら、ここからは私が相手になる」
シロナが俺たちの前へ立つと、アカギはしばらくその姿を見てからモンスターボールを取り出した。
「少々、分が悪いな」
赤い光がマニューラを包み、その姿が消える。シロナは通路へ向かうアカギから目を離さなかったが、追いかけることはせず、クチートの足がまた崩れたところでそちらへ身体を向けた。その間に足音は遠ざかり、やがて石室には俺たちの呼吸とビブラーバの翅が擦れる音だけが残った。
「ユア、まずこの子たちを診ないと。クチートも無理に立たせないで、ビブラーバとヤトウモリもここで一度休ませましょう」
シロナの声を聞いて、ようやく戦いが終わったんだと分かった。
次を考えなくていい。
そうなった途端、両手がおかしくなった。指を曲げようとしても細かく震え、握ったつもりなのにすぐ力が抜ける。
「……なんで、……初めてだ、こんなの……」
ガチン、と不発に終わった噛み砕くの音がまた頭の中で鳴った。あのままクチートを戦わせていたら、シロナが来なかったら、俺が「もう一回」の続きを言っていたら。その先を考えるたび、三匹の向こうでほとんど傷もなく立っていたマニューラまで一緒に浮かんでくる。
「ユア……」
名前を呼ばれて顔を上げる前に、シロナの腕が肩へ回り、そのまま身体を引き寄せられた。
「……シロナ」
離れようとはした。少し前までアカギに向かって止めると言い切り、自分からクチートを前へ出したのも俺なのに、今さら手を震わせて抱き寄せられているところなんか見られたくない。
けれど腕へ力を入れても身体が動かなかった。あのまま続けていたら、俺はどこで止めていたのか。クチートがもう立てなくなるまで戦わせて、それでもまだ次を考えていたのか。答えを出そうとすると指の震えが強くなり、気づけばシロナの服を掴んでいた。
それ以上、何も言えなかった。