目を覚ますと、障子の隙間から差し込んだ朝の光が畳の上まで伸びていた。昨日は布団へ入ってからも何度か目が覚めた気がする。それでも身体を起こしてみれば、頭の奥に張りついていた重さは少し薄れていて、手にも昨日みたいな震えはない。クチートたちの様子を見に行こうと布団をめくったところで、すぐ横から小さな寝息が聞こえた。
振り向く。
アイがいた。
俺の布団から少し離れた畳の上で横になり、腕の中にはニャオハまで収まっている。ニャオハは前足を丸め、アイの胸元へ背中を預けたまま気持ちよさそうに眠っていた。
昨夜のことなら覚えている。タマゴから生まれたのがニャオハだと知った途端、アイはしばらくまともな言葉を使わなくなった。
「にゃー」
「みゃ」
「にゃー?」
「みゃあ」
何をしているのか聞いても「会話」としか答えず、しまいにはニャオハまで付き合い始めた。寝る時間になって、ようやく別の部屋へ行ったのも見ている。
なのに、いる。
「……おい、アイ」
「……んー……」
「なんで俺の部屋で寝てんだよ」
肩を軽く揺らすと、アイはニャオハを抱いたまま片目を開け、ぼんやり部屋を見回した。自分がどこにいるのか思い出したらしく、一度だけ瞬きをする。それでも慌てる様子はなかった。
「まぁ、キミはボクに変なことしないだろうし。ほら、美少女が隣で寝てるから、ちょっとは気持ちが緩んでくるでしょ?」
「自分で美少女って言うな」
「事実を言っただけだけど」
「朝からうぜえ……」
「みゃ」
俺の声で起きたニャオハが、アイの腕から顔だけ出した。
「お前もなんで普通に馴染んでんだよ」
「昨日いっぱい話したからね」
「ずっと『にゃー』って言ってただけだろ」
「通じてたよ?」
「どこがだよ」
「ボクたちにしか分からないものがあるの」
「昨日会ったばっかだろ」
アイが何か返そうとしたけど、大きな欠伸に邪魔され、口を閉じた。ようやくニャオハを畳へ下ろして身体を起こすと、寝癖のついた黒髪を手で適当に直しながら俺を見る。
「……少しは寝れた?」
さっきまでのふざけた声じゃなかった。
「……まあな。昨日よりは」
「そっか」
それだけ聞くと、アイはまたニャオハへ手を伸ばした。どうして俺の部屋まで来たのかは結局説明しなかったし、俺も聞き直さなかった。
部屋を出て廊下へ足を踏み出す。
「……朝から疲れた」
「おはよう、ユア」
「おはよ、シロ――」
曲がり角から現れたシロナへ返事をしようとしたところで、その腕が肩へ回った。そのまま抱き寄せられ、顔のすぐ横に金色の髪が落ちてくる。
「……なんで?」
「昨日、かなり張り詰めてたでしょう? 少しは気持ちが緩むかなと思って」
「……さっきアイにも似たようなこと言われたんだけど」
「アイにも?」
振り返ると、ニャオハを抱いたアイがちょうど部屋から出てきた。
「美少女が隣で寝てれば気持ち緩むでしょって言った」
「なるほど。じゃあ私は抱きしめる方にして正解だったわね」
「何の正解だよ」
「シロナさん、それボクより強くない?」
「何が?」
「距離の詰め方」
「朝から何の話してんだお前ら」
シロナの腕から抜けると、二人は揃って何事もなかったみたいに歩き始めた。昨日は二人がかりで家まで連れて帰られ、今朝は片方が勝手に部屋へ入り込み、もう片方には廊下で抱きしめられる。気を遣われているのは分かるけど、やり方まで似なくていい。
朝飯の前にクチートたちのところへ行くと、三匹とも昨日よりずっと動けるようになっていた。ビブラーバは俺を見ると翅を震わせ、ヤトウモリも自分の足で近づいてくる。クチートは身体を起こしたままこちらを見ていて、しゃがんで顔を覗くと大顎が一度鳴った。
「……無茶すんなよ」
ガチ。
「俺もだけど」
また鳴る。
「わかったよ。2回も鳴らすな」
大顎がもう一度動きかけたので、その前に頭へ手を置いた。昨日、最後まで立とうとしていた姿はまだ頭から消えていない。それでも今こうして普通に睨み返してくるクチートを見ていると、胸の奥で固まっていたものが少しだけほどけた。
朝飯を食べ終えてから、俺はアイとシロナに居間へ残ってもらった。昨夜から考えていたことがある。アイに怒鳴られた言葉も、そのあとで言われたことも、布団へ入ってから何度も頭の中を回った。
今勝てないことと、もう勝てないことは違う。
アカギのマニューラが強かったことは変わらない。一晩寝たからって、次に会えば勝てるなんて思えるほど簡単でもない。でも、昨日の俺とこれから先の俺まで同じ強さのままじゃなきゃいけない理由もなかった。
「……俺、旅は一回やめる」
アイもシロナも口を挟まず、俺を見る。
「ジムもまだ全然回れてねえし、行ってない町だってある。やりたいことも残ってる。でも今は、そっちじゃない。アカギを止める。ギンガ団が何しようとしてんのかもはっきり知らねえままだし、あいつが言ってたことをそのままにして旅続ける方が嫌だ」
自分の言葉を聞きながら、昨日まで背負っていた旅の予定を一つずつ思い浮かべる。なくすわけじゃない。ただ、今やることの順番を変えるだけだ。
「あれだけデカイ野望だ、すぐに動くとは思えないし、何ヶ月、もしかしたら何年かかるかも分かんねえけど……旅なんか、それから続けりゃいいだろ」
「……うん」
アイが小さく頷いた。
俺も頷き返して、そのままアイを見る。
「だから、昨日の話。行くよ、パルデア」
アイの口元が少し上がる。
「じゃあ、グレープアカデミーではボクが先輩だね」
「よろしく頼むよ先輩」
「……なんかやっぱキモイからいつも通りで」
「ひどくね?」
「キミが悪い」
「言わせたのお前だろ」
「そこまで気持ち悪く言ってとは頼んでない」
「もう先輩って絶対呼ばねえ」
「うん、その方がいい」
昨日あれだけ怒鳴り合ったのに、こうして話していると結局いつもの調子へ戻る。腹は立つけど、この方がいい。
「で、シロナはどうするんだ?」
俺が聞くと、シロナは膝の上で組んでいた手をほどいた。
「私はシンオウに残るわ。あなたから聞いた話が本当なら、ギンガ団をこのまま放っておくわけにはいかないもの。それに、アカギがいた場所も気になる」
「遺跡?」
「ええ。あの壁画にはディアルガやパルキアに関わると思われるものが残っていた。彼がそこにいたことと計画に繋がりがあるのか、今のところは何も分からないけれど、ギンガ団の動きと一緒に調べる価値はあると思う」
シロナは俺とアイを順番に見た。
「あなたたちがパルデアで出来ることを増やすなら、私はシンオウで出来ることを増やしておく。次に会った時、チャンピオンの私だけ仲間はずれなんて嫌だもの」
「じゃあ、情報勝負だな」
「情報勝負?」
「俺がどれだけ覚えて帰ってくるかと、シロナがどれだけ調べられるか」
「いいわね。負けるつもりはないけど」
「そこ張り合うところ?」
アイが呆れたように口を挟み、シロナは楽しそうに笑った。
それで話はまとまったはずだった。俺とアイはパルデアへ行く。シロナはシンオウに残る。やることは違っていても、向いている先は同じだ。そこで、昨日の遺跡を思い返した時に、引っかかっていたものが一つだけ残っていることに気づいた。
「……そういやシロナ、もう一個気になることあった」
「なに?」
「創世の神と、時と空間の神と……あと外側に三ついるのは分かったんだけどさ」
シロナが続きを待つ。
「真ん中のでかい光あっただろ。たぶん創世の神のやつ。そのすぐ横に、黒い光みたいなのがあったんだよ」
「……黒い光?」
「うん。光ってるっていうより、そこだけ暗くなってる感じだった。周りの明るさまで吸ってるみたいでさ。気になって触ったら、そこの石だけ妙に冷たかった」
あの時の感触はまだ指に残っている気がする。
「でも、アカギが来てからもう一回壁画見たら消えてた」
シロナの眉が僅かに寄った。
「……黒い光? そんなものはなかったはずだけど……」
「やっぱ変なのか?」
「ええ。少なくとも、私が知っているあの壁画にはないわ。昔の記録でも見た覚えがない」
「でも、あったぞ」
「あなたがそう言うなら、見間違いだと決めつけるつもりはないわ」
シロナは少し考え込んだあと、ゆっくり顔を上げた。
「それも調べてみる。壁画そのものと昔の記録、それから同じものを見た人がいないかも」
「……なんなんだよ、あれ」
「分からないわ」
シロナはそう言って、少しだけ笑った。
「だから、調べるの」
それから数日は、出発の準備とクチートたちの回復を待つ時間になった。
荷物を整理していると、鞄の底からシンオウの地図が出てきた。何度も開いてきたせいで、折り目の部分が柔らかくなっている。今いるズイから先にも道は続き、その向こうにはまだ行ったことのない町がいくつも残っていた。
「それ置いてくの?」
後ろからアイが地図を覗き込む。
「なんで?」
「しばらく使わないでしょ」
「帰ってきたら使う」
「ああ、そっか」
「旅やめるっつっても、ずっとじゃねえし」
地図を畳み直し、今までと同じ場所へ戻す。その横ではニャオハが荷物から垂れた紐を前足で引っかき、アイがすぐ隣へしゃがみ込んだ。
「にゃー」
「みゃ」
「……まだやってんのかよ」
「今のは『この紐楽しいね』って意味」
「絶対違うだろ」
「みゃあ」
「ほら、合ってる」
「ニャオハに判定させんな」
そんなことをしているうちにクチートたちも十分動けるまで戻り、出発の日が来た。
シロナの祖母へ世話になった礼を言い、荷物を背負って外へ出る。ほんの数日前、ズイへ来た時には、ここからシンオウの外へ向かうことになるなんて考えてもいなかった。
門の前ではシロナが見送ってくれている。
「じゃあ、またな」
「ええ。また会いましょう」
「次会う時は、もっと強くなっとくから」
言ったあと、アカギのマニューラが頭をよぎる。まだ勝てるとは言えない。それでも、もう目を逸らすつもりはなかった。
シロナは俺の顔を少し見てから頷いた。
「楽しみにしてる。でも、強くなることだけに夢中にならないでね。あなたが何を見て、何を覚えて帰ってくるのかも楽しみにしてるから」
「分かってるよ。シロナも黒い光のやつ、なんか分かったら教えてくれ」
「もちろん」
少し先を歩き始めていたアイが振り返る。
「ユア、行くよ」
「今行く」
返事をして歩き出し、町を離れるところで一度だけ後ろを見た。
ズイの向こうにもシンオウは続いている。まだ歩いていない道も、まだ見ていない町も、途中になった旅も一度中断だ。
鞄の肩紐を直す。
中には、シンオウの地図が昨日までと同じ場所に入っている。
「ユア?」
「ああ、悪い」
アイの隣まで駆けて追いつく。
旅の続きは、帰ってきてからでいい。