空気が変わった。音がしたわけじゃない。風が吹いたわけでもない。ただ、坑道の奥へ向けていた目が、勝手に離せなくなった。ラルトスも同じだった。俺の隣で息を詰め、赤い目を奥の闇へ向けている。
『……くる』
坑道の奥から、硬いものが岩を擦る音が近づいてくる。一歩ごとに音が伸びて、壁に当たり、遅れて戻ってくる。ランプの光は途中で途切れていて、その先は黒い。そこから影が一つ、少しずつ形を持ち始めた。
「……クチート」
名前が口から漏れた。本で見たことはある。小さな体。黄色と黒の姿。赤い瞳。そして後頭部から伸びた、大きすぎる顎。暗がりの中で、その顎だけが別の生き物みたいに見えた。クチートは俺たちから数メートル離れた場所で止まり、それ以上近づいてこない。
ラルトスが一歩前へ出て、両手を胸の前で握る。
『……こんにちは。わたしたち、少しだけ、話を聞きたい』
返事はなかった。クチートは目を逸らさない。坑道のどこかで水滴が落ちる。ぽつん、と音がして、それが消えるまで誰も動かなかった。クチートの赤い目はラルトスへ向き、それから俺へ向く。見られた瞬間、指先に力が入った。俺は金属片を握りしめたまま、息を吸うことも忘れかける。
『……ここ』
ラルトスが言った。
『……ここ、あなたの?』
その瞬間、クチートの大顎がゆっくり開いた。黒い内側がランプの弱い光を飲み、鋼の牙が見える。クチートは近くの岩へ顎を向け、そのまま噛みついた。
ガチィン……。
鋼がぶつかり合うような音が坑道中へ響いた。噛まれた岩が割れ、砕けた石が床を跳ね、俺たちの足元まで転がってくる。耳の奥がじんとした。クチートは岩を砕いただけで、俺たちには近づいてこない。けれど今の音だけで、そこから先へ進むなと言われたことは分かった。
『……っ』
ラルトスが言葉を止める。クチートはまだこちらを見ていた。俺は一歩も動かないまま、口を開いた。
「俺たちは壊しに来たんじゃない。外のみんなは怒ってるけど、俺はまだ何も見てない。だから決めつけたくないんだ。お前が何をしてるのか、どうして近づけたくないのか、それだけでも知りたい」
クチートは返事をしない。大顎の牙が、ほんの少しだけ開く。俺は続けるか迷った。言葉が届いているのかどうかも分からない。
「ここに、近づかれたくないのか?」
クチートの赤い目が細くなる。次の瞬間、また近くの岩へ顎を向けた。さっきより速い。黒い大顎が岩を挟み込み、閉じる。
ガチィン……。
足元の石まで震えた。砕けた岩の欠片が転がり、その一つが俺の靴先に当たって止まる。俺は反射的に半歩下がった。ラルトスも同じだけ下がる。クチートは追ってこない。岩を砕いた場所から動かず、俺たちの反応だけを見ている。
やっぱり、当ててこない。
俺たちを傷つけようと思えば、たぶんできる。でもクチートが壊すのは、岩だけだった。
『……ユア』
「何か分かる?」
ラルトスは目を閉じ、少しだけ顔をしかめる。そしてすぐに目を開け、クチートを見る。
『……うまく、いえない。いっぱい、ある。ことばじゃない。奥、だめ、って……それだけ、強い』
「奥……」
俺はクチートの後ろを見る。ランプの届かないさらに奥。冷たい空気が流れてくる場所。何があるのかは見えない。
クチートの大顎がまた少し開く。俺はそれ以上進まなかった。ラルトスも隣で止まっている。
「……分かった。今日は、それ以上行かない」
ラルトスが俺を見る。俺は握っていた金属片に気づいて、ゆっくり床へ置いた。持ったままだと、武器みたいに見えるかもしれないと思ったからだ。
「でも、また来る。まだ何も分かってないから。外の人たちにも、俺が見たことは言う。お前が当ててこなかったことも、奥へ行かせたくなさそうだったことも。だから、また来る」
クチートは返事をしなかった。ただ、赤い瞳が俺から床の金属片へ移り、それからラルトスへ戻る。
『ユア』
「戻ろう。父さんに話す」
『……うん』
俺たちは少しずつ後ろへ下がった。すぐに背中を向ける気にはなれなくて、しばらくはクチートを見たまま下がる。クチートは追ってこない。ただ、坑道の奥へ続く道の前に立っていた。小さな体なのに、その後ろの闇全部を塞いでいるみたいだった。
曲がり角へ差しかかった時、俺はもう一度だけ振り返った。ランプの光の端で、クチートの赤い目がまだこちらを見ている。
次の瞬間、クチートは闇の中へ一歩下がった。
赤い目が消えた。
大顎の輪郭も、黄色い体も、坑道の暗さに飲まれていった。