空気が変わった。
それだけははっきり分かった。
さっきまで感じていた警戒とは違う。
もっと重く、もっと鋭い。
背筋をゆっくりなぞられるような感覚だった。
坑道の奥から音がする。
ギギ……
硬いものが岩を擦る音。
ゆっくりと、一定の間隔で近付いてくる。
隣でラルトスが顔を上げた。
『……来る』
小さな声。
俺も息を止める。
薄暗い坑道。
揺れるランプの光が届かないほどの奥。
その闇の中から、一つの影が姿を現した。
「……クチート」
思わず呟く。
本で見たことはあった。
だけど実際にこの目で見るのは初めてのポケモン。
小柄な体。
けれど、その存在感は妙に大きかった。
後頭部から伸びる巨大な顎と鋼の牙。
赤く光り、こちらを睨みつける瞳。
そして何より。
その威圧感。
ーーー静かだった。
足音さえほとんど聞こえない。
まるで鋼の塊がそのまま歩いてきたみたいだった。
クチートは数メートル先で立ち止まる。
一定の距離を保ち、近付いてこない。
ただ、じっとこちらを見ていた。
その視線に思わず肩へ力が入る。
見られている。
観察されている。
試されている。
そんな感覚だった。
『……』
ラルトスが一歩前へ出る。
俺を守るように。
小さな身体がクチートへ向く。
『こんにちは』
テレパシー。
ラルトスは、クチートと対話を試みた。
だが返事はない。
クチートは動かなかった。
『ここに住んでるの?』
沈黙。
ーーーぽたり。
どこかで水滴が落ちる音だけが響く。
『私たち……敵じゃない』
『話、聞かせて』
淡々と、短く、しかし相手を刺激しないように、ラルトスは話しかける。
その時だった。
クチートの耳がわずかに動く。
ほんの小さな変化。
でも確かに反応した。
ラルトスも気付いたらしい。
少しだけ表情が柔らかくなる。
『ここで何かあったの?』
その瞬間、空気が張り詰めた。
クチートの目が細くなる。
後頭部の顎がゆっくりと開いた。
ギリ……
鋼が擦れる音。
思わず息を呑む。
『……』
ラルトスの肩がぴくりと震えた。
「ラルトス?」
返事はない。
ただ目を見開いたままクチートを見つめている。
どうやら、対話ができないので感情を読み取っているらしい。
『……重い』
ようやく絞り出された声。
『いっぱい……ある』
ラルトス自身も上手く説明できないようだった。
怒り。
警戒。
拒絶。
色んな感情が混ざり合っている。
そんな風に見えた。
クチートが一歩前へ出る。
ガッ。
小さな体とは思えない重い音が響いた。
俺はつい、反射的に身構える。
だが襲ってこない。
ただ立っている。
それだけなのに妙な圧迫感があった。
『……どうして怒ってるの?』
ラルトスが小さく問いかける。
返事はない。
けれど。
『近づくな』
そんな意思だけは伝わってくる。
見えない壁がそこにあるみたいだった。
俺はクチートを見る。
クチートも俺を見る。
その目は敵を見る目だった。
でも、俺個人じゃない。
もっと大きな何かを見る目。
おそらく、人間そのものを見る目。
そんな気がした。
胸の奥が少しだけ痛くなる。
俺は何もしていない。
でも、このクチートにとっては違うんだろう。
俺も。
町の人たちも。
人間というだけで同じ敵なんだ。
『ユア』
ラルトスが小さく呼ぶ。
『……この子』
言葉を探すように口を閉じる。
そして。
『怖がってる』
静かにそう言った。
思わず目を見開く。
怖がっている?
こんなに敵意を向けているのに。
こんなに強そうなのに。
ラルトスは小さく頷いた。
『怒ってる』
『でも……怖がってる』
その言葉と同時にらクチートの顎が大きく開く。
ギィン。
鋼の牙がランプの光を反射した。
警告だった。
これ以上近付くなと。
その意思だけは痛いほど伝わってくる。
一歩も動かない。
クチートも動かない。
静寂。
聞こえるのは自分の鼓動だけだった
『何かを守ってる』
ラルトスのその言葉だけが、不思議なくらい耳に残った。