坑道から戻ったあと、俺は見たことだけを父に話した。
クチートがいたこと。
ラルトスが話しかけたこと。
そして、拒絶されたこと。
父はその話を黙って聞いていた。
途中で口を挟むこともなければ、意見を言うこともない。
ただ静かに最後まで聞いていた。
「……そうか」
一通り話し終えたあと、父からその短い一言だけが返ってきた。
しばらく沈黙が続く。
やがて父は腕を組みながら言った。
「しばらく坑道に近付くな」
「でも」
「ユア」
静かな声だった。
怒っているわけじゃない。
この事件の違和感を、父も感じているのだ。
だからこそ強かった。
思わず言葉が止まる。
「無理に踏み込めば、あいつも傷付く」
父はそう言って窓の外を見る。
「お前も傷付く」
それ以上は何も言わなかった。
俺も何も返せなかった。
頭の中には、あのクチートの目が残っていたからだ。
怒り。
警戒。
拒絶。
だけど、それだけじゃない。
言葉にできない何か。
胸に引っ掛かったまま、その日は終わった。
夜になっても、布団へ入っても、なかなか眠れなかった。
気付けば何度もあの目を思い出していた。
そして中々眠れない中訪れた翌朝。
まだ朝食の片付けも終わっていない時間だった。
外から慌ただしい足音が聞こえてくる。
バンッ!!
勢いよく扉が開いた。
「親方!」
飛び込んできたのは職人の一人だった。
顔色が悪い。
息も上がっている。
ただ事じゃない。
父が椅子から立ち上がった。
「どうした」
「まずい!」
男は肩で息をしながら叫ぶ。
「あいつが!」
「昨日の件で騒いでた奴が……!」
そこで嫌な予感がした。
父の表情も変わる。
「アイツがどうした」
「ゴーリキー連れて坑道へ入った!」
一瞬で空気が凍り付く。
「一人でか!?」
「ああ!俺達も止めたんだ!……だけど、聞かなくて」
次の瞬間には椅子を蹴って立ち上がっていた。
父が何か言ってた気がする。
でも耳には入らなかった。
ラルトスも慌てて後を追ってくる。
『ユア!』
走る。
とにかく走った。
胸の奥で嫌な予感が膨らんでいく。
頼む、間に合え。
ただそれだけを考えていた。
やがて鉱山の入口が見える。
その瞬間。
「逃げてんじゃねぇ!!」
怒鳴り声が響いた。
続いて。
ドゴォン!!
岩が砕ける音。
背中を冷たい汗が流れる。
俺は坑道へ飛び込んだ。
薄暗い通路を抜ける。
そして見た。
職人の男。
その隣にいるゴーリキー。
その奥には、岩壁を背に立つクチート。
その場所は、昨日俺がクチートと出会った場所だ。
だが空気はまるで違う。
クチートが追い詰められている。
「逃げるな!」
男の叫び声に合わせて、ゴーリキーが前へ出る。
拳が振り上げられた。
クチートの顎が開く。
ガチリ。
鋼が噛み合う音。
その瞬間。
「やめろ!!」
気付けば飛び出していた。
考えるより先に体が動いていた。
ゴーリキーとクチートの間へ飛び込む。
「なっ!?」
男が目を見開く。
振り下ろされる寸前だったゴーリキーの拳が止まった。
ほんの数十センチ。
風圧で髪が揺れる。
心臓が暴れていた。
怖い。
今さら足が震える。
でも退けなかった。
「どけ!」
男が怒鳴る。
「危ねぇだろ!」
「危ないのは分かってるよ!」
思わず叫び返した。
情けないくらい声が震えている。
それでも止まらなかった。
「なんでクチートを攻撃するんだ!!」
「被害が出てるんだぞ!」
「理由があるかもしれないだろ!」
「理由があれば壊していいのか!?」
言葉に詰まる。
何も返せない。
でも。
昨日見たものだけは忘れられなかった。
「……違う」
男が眉をひそめる。
「何がだ」
「分からない」
正直に答える。
「本当に分からない」
拳を握る。
「でも、あいつはただ暴れてるだけじゃない」
それだけは言い切れた。
男は黙る。
険しい顔のままクチートを見る。
そして俺を見る。
長い沈黙だった。
やがて。
「……チッ」
舌打ちが響く。
頭を乱暴に掻きながら振り返る。
「戻るぞ」
ゴーリキーへ手を振った。
ゴーリキーも腕を下ろし、男について行く。
男は去り際、クチートを睨み付けた。
「次、何かあったら承知しねぇぞ」
吐き捨てるような声。
そして坑道を去っていった。
足音が遠ざかる。
やがて静寂が戻った。
残されたのは俺たちだけだった。
俺。
ラルトス。
そしてクチート。
誰も動かない。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちる音だけが聞こえる。
しばらくして。
「……大丈夫か」
口から出た瞬間、少し後悔した。
大丈夫なわけがない。
だけど、クチートは何も答えない。
当然だ、昨日会ったばかりだ。
信用なんてされていない。
むしろ警戒されていて当然だ。
クチートはゆっくり一歩後ろへ下がる。
顎がわずかに開く。
警告。
それは変わらない。
『ユア』
ラルトスが小さく呼ぶ。
『帰ろう』
俺は頷いた。
その前に、もう一度だけクチートを見る。
クチートもこちらを見ていた。
昨日と同じ冷たい目。
だけど、ほんの少しだけ違う気がした。
敵を見る目ではない。
だからといって味方を見る目でもない。
ただ、なぜ助けたのかと、理解できないものを見るような目だった。
俺たちはゆっくりと坑道を後にする。
背中へ視線を感じながら。
そして歩きながら考えていた。
あのクチートは何を守っているんだろう。
どうしてあんな目をしていたんだろう。
まだ何も分からない。
分からないことだらけだ。
それでもわ放っておいてはいけない気がした。
理由は分からない。
だけど、その気持ちだけは妙にはっきりしていた。