坑道から戻ったあと、俺は見たことだけを父さんに話した。クチートがいたこと。ラルトスが話しかけたこと。大顎で岩を砕かれ、それ以上近付けなかったこと。クチートが奥へ続く道の前から動かなかったこと。父さんは途中で口を挟まなかった。職人たちがまだ外でざわついている声を聞きながら、煤で汚れた作業着のまま腕を組み、俺の言葉が途切れるまで黙っていた。話し終えると、父さんは壊れた掘削機の方へ一度だけ目を向け、それから坑道の入口を見た。
「……そうか」
返ってきたのは、それだけだった。けれど、その一言で終わったわけじゃない。父さんはしばらく考えていた。職人たちの怒った声、重機を片づける金属音、鉱山の奥から流れてくる冷たい空気。全部を聞きながら、何をどう動かすべきかを量っているみたいだった。やがて父さんは俺へ視線を戻した。
「しばらく坑道には近付くな。お前が見たことは信じる。クチートが奥へ行かせたがらなかったことも、むやみに人を狙ったわけじゃないことも、聞いた。だが、それで安全になったわけじゃない。あいつが何を考えているのか、俺たちはまだ知らない。無理に踏み込めば、お前も怪我をするし、あいつも余計に追い詰める。こっちは大人で調べる。お前は勝手に動くな」
「でも、このまま職人の人たちが決めつけたらどうするんだよ。今だって、追い出せって言ってた。俺が見たことを話しても、みんなが信じるとは限らないだろ」
「だから俺が聞いた。お前の話を、親方として預かった。ここから先は俺の仕事だ。ユア、お前が気になっているのは分かる。だが、分からないものへ近付く時ほど、急いだ方が負ける。今日のお前は無事に戻ってきた。それだけで収穫だ」
怒鳴られているわけじゃないのに、言い返せなかった。父さんは俺を子どもだから黙っていろと言っているわけじゃない。俺の話を聞いたうえで、そこから先を止めている。そのことが分かるから、悔しいのに、何も言えなかった。隣でラルトスも黙っていた。赤い目は坑道の入口へ向いたままで、さっきのクチートの姿をまだ探しているみたいだった。
その日は、家に帰ってからも落ち着かなかった。夕飯の味もあまり覚えていない。母さんに何度か名前を呼ばれ、父さんには「今日はもう考えるな」と言われた。それでも布団に入ると、暗い坑道がまぶたの裏に戻ってくる。ランプの光が届かない奥。赤い目。黒い大顎。岩が砕ける音。俺たちの足元まで転がってきた石。何度思い出しても、答えにはならなかった。ただ、同じ場所でぐるぐる回るだけだった。隣の布団ではラルトスも眠れていないらしく、時々、布団の端を握る小さな音がした。
『……ユア』
「ん?」
『……まだ、いる』
「クチート?」
『……うん。たぶん、あそこに』
俺は天井を見た。家の天井はいつも通りなのに、坑道の低い岩天井の方が目に浮かぶ。
「父さんは近付くなって言った」
『……うん』
「だから行かない。勝手には」
そこまで言って、自分でも引っかかった。勝手には。そんな言い方をした時点で、俺はまだどこかで行く理由を探していたのかもしれない。ラルトスは何も言わなかった。ただ、暗い部屋の中で小さく寝返りを打つ音だけがした。
ーー
翌朝、まだ朝食の片付けも終わっていない時間だった。母さんが湯呑みを下げ、俺が箸をまとめていると、外から慌ただしい足音が近づいてきた。玄関の前で一度止まり、すぐに戸が強く叩かれる。
「親方!」
返事を待つより早く扉が開いた。飛び込んできたのは職人の一人だった。顔には煤がつき、息が乱れている。父さんが椅子から立ち上がる。ガブも庭の方で顔を上げたのが見えた。
「どうした。落ち着いて話せ」
「落ち着いてる場合じゃねぇです。昨日、奥のポケモンを追い出せって騒いでたやつがいたでしょう。あいつがゴーリキーを連れて坑道へ入りました。俺たちも止めたんです。親方が調べるまで待てって言ったんです。でも、あいつ、もう何台やられたと思ってるんだ、また壊されたら誰が責任取るんだって聞かなくて……」
箸を持っていた手が止まった。父さんの顔が変わる。
「一人で入ったのか」
「はい。何人かが後を追ってます。でも、奥まで行かれたらまずい。あいつ、完全に頭に血が上ってる。ゴーリキーまで連れてるんです。止めるなら早くしないと」
次の瞬間には、俺は椅子を蹴って立ち上がっていた。父さんが俺の名前を呼んだ。待てと言ったのかもしれない。俺が行くと言ったのかもしれない。でも、その言葉が終わる前に、体が玄関へ向いていた。ラルトスは俺が飛び出すことをわかってたみたいに先に玄関で待機していた。母さんの声が背中に当たる。
「ユア!」
「分かってる! でも今止めないと!」
靴を引っかけるように履いて外へ飛び出す。坂道を駆け下りる。朝の空気は冷たいのに、喉だけが熱い。昨日のクチートが頭に浮かぶ。俺たちに近付くなと警告してきたクチート。奥へ続く道の前で動かなかったクチート。そこへゴーリキーの拳が向かっている。クチートの大顎が人やポケモンへ向くところも、ゴーリキーの拳があの小さな体へ落ちるところも、見たくなかった。
鉱山の入口が見えた時、中から怒鳴り声が響いた。
「逃げてんじゃねぇ!!」
続いて、岩が砕ける音がした。俺は止まらず坑道へ飛び込む。昨日通った薄暗い道。古いランプ。湿った石の匂い。足元が悪いのは分かっているのに、走る速度を落とせない。曲がり角を抜けるたび、声が近くなる。
「出てこい! 何日も何日も好き勝手壊しやがって! 運搬車も掘削機も、鉱石までやられてんだぞ! こっちは遊びで仕事してるんじゃねぇんだ!」
その声の先に、職人の男がいた。昨日、入口で一番強く追い出せと言っていた人だ。隣にはゴーリキー。太い腕を構え、男の指示を待っている。さらに奥、岩壁を背にしてクチートが立っていた。昨日と同じ場所。奥へ続く道の前。けれど昨日みたいに距離を保っているわけじゃない。職人とゴーリキーに押し込まれ、後ろには岩壁しかない。クチートの大顎は開きかけ、赤い目は男とゴーリキーを行き来していた。
「やめろ!」
叫んでも、男は振り返らなかった。
「ゴーリキー、もう一発だ! あいつを奥から引きずり出せ! 出てこねぇなら、出てくるまで壊すだけだ!」
ゴーリキーが前へ出る。地面が鳴る。拳が振り上がる。クチートの大顎も開く。昨日、坑道中に響いた音が頭をよぎった。あれが今、ゴーリキーへ向いたら。ゴーリキーの拳が、クチートへ落ちたら。
「やめろ!!」
考えるより先に体が動いた。ゴーリキーとクチートの間へ飛び込む。視界いっぱいにゴーリキーの拳があった。振り下ろされる寸前で止まる。風圧で髪が揺れた。ほんの少し前へ出ていたら、たぶん当たっていた。足がそこで震え出す。
「なっ……お前、何やってんだ!」
男が目を剥いた。ゴーリキーも拳を止めたまま、困ったように俺を見る。ラルトスが遅れて隣へ飛び出し、俺の袖を掴んだ。俺を下げようとしたのか、隣に立とうとしたのか分からない。けれど俺が動かないと分かると、ラルトスもその場に残った。
「どけ! 本気で死ぬぞ! ゴーリキーの拳が当たったらただじゃ済まねぇ!」
「それは分かってる! でも今殴ったら、クチートもゴーリキーもただじゃ済まないだろ! ここでやり合ったら坑道だって危ない。壊れてるのは重機だけじゃないんだぞ、支柱だって傷ついてた!」
「だから止めに来たんだろうが! 支柱までやられてるなら、なおさら放っておけるわけねぇだろ! 最初は事故かと思った。けど一度や二度じゃないねぇ!これ以上仕事を止められたら、俺たちの飯が止まるんだよ!」
男の声は怒鳴り声だった。けれど、ただ乱暴に怒っているだけじゃなかった。手には煤が染みついていて、腕には細かい傷がいくつもある。昨日壊れた重機も、この人たちが毎日使っていたものなのだ。壊されたら困る。怒る。止めようとする。それは当然のことだと思う。
「それでも、今ここで殴るのは違う!」
「何が違う! お前は昨日ちょっと見ただけだろ。俺たちはずっとやられてるんだ。壊された分だけ作業は遅れる。直すにも金がかかる。怪我人が出てからじゃ遅い。親方が慎重なのは分かるが、待ってる間にまた何か壊されたらお前が責任取るのか!」
「俺には責任なんて取れないよ! 仕事のことも、直す金のことも、全部分かるわけじゃない。でも、目の前で殴り合いになりそうなのを見て、何もしないのは嫌なんだ。父さんが来るまで待ってくれ。ちゃんと調べるって言ってた。今ここでクチートを追い詰めたら、もう話を聞くどころじゃなくなる!」
「話? ポケモンが話してくれるのかよ!」
その言葉に、ラルトスの手が俺の袖を強く掴んだ。俺は一度だけラルトスを見て、それから男を見る。
「言葉じゃなくても分かることはある。だからもう一回だけ待ってくれ。頼むから、今は拳を下ろしてくれ」
坑道の中が静かになる。ゴーリキーは拳を上げたまま、男の指示を待っていた。男は俺を睨み、次にクチートを見る。クチートは岩壁を背にしたまま、俺たちを見ていた。赤い目が俺を捉え、ラルトスを捉え、それからゴーリキーの拳へ移る。
長い沈黙のあと、男が舌打ちした。
「……チッ。ガキに止められて、何やってんだ俺は」
男は乱暴に頭をかき、ゴーリキーへ手を振った。
「下ろせ。戻るぞ。親方が来る前に、これ以上面倒を増やすわけにもいかねぇ」
ゴーリキーはゆっくり拳を下ろした。岩を踏む重い足音が一つ、二つと戻っていく。男は去り際、クチートを睨んだ。
「次に何か壊したら、黙ってねぇからな」
吐き捨てるように言って、男は坑道を戻っていった。足音が遠ざかる。しばらくして、曲がり角の向こうから父さんの声と、何人かの職人たちの声が聞こえた。男が何か言い返している。父さんの低い声がそれを止める。
残されたのは、俺とラルトスとクチートだけだった。
坑道のどこかで水滴が落ちる。ぽたり、と音がして、暗い壁に吸い込まれる。俺はようやく息を吐いた。膝がまだ震えている。クチートは動かない。大顎は少しずつ閉じていったが、昨日みたいに噛み鳴らすことはなかった。
「……大丈夫か」
言ってから、変な聞き方だったと思った。大丈夫なわけがない。俺だって大丈夫じゃない。クチートは当然、返事をしなかった。赤い瞳が俺を見る。次にラルトスを見る。それから、男たちが去っていった方を見る。
クチートが一歩、後ろへ下がった。奥へ続く道の前に、また戻る。
ラルトスが俺の袖を引く。
『ユア、帰ろう。今は、近づかない方がいい』
「……うん」
俺は頷いた。けれどすぐには背を向けられなくて、もう一度クチートを見る。クチートもこちらを見ていた。何を考えているのかは分からない。どうして俺が間に入ったのかも、たぶん分かっていない。俺だって、自分でちゃんと説明できるわけじゃない。
ただ、飛び込まなかったら、あの拳は振り下ろされていた。
俺たちはゆっくり坑道を戻り始めた。背中に視線を感じる。クチートがまだこちらを見ているのか、それとも奥を見ているのかは分からない。振り返りたいのを我慢して、足を前へ出す。曲がり角を抜けるまで、ラルトスの手だけが俺の袖を掴んでいた。