その日の放課後、俺とアイはポケモンリーグへ向かった。入口で待っていたハッサク先生に挨拶をすると、そのまま練習用のコートへ案内してくれる。廊下を歩きながら、俺は腰のボールに手を当てた。
「先生、今日はキルリアでお願いします。チリたちに見てもらったときは、クチートがほとんどだったから」
「ええ、承知していますよ。今日は小生たちが攻めますから、ユアくんたちは受ける側です。動ける服装で来てくれましたね」
先生に足元を見られ、俺も自分のスニーカーへ目を落とした。アイが隣で、ユアも走るんですか、と尋ねる。先生はコートへの扉を開けながら笑った。
「必要ならば。自分で立ってみると、見え方も変わりますからね」
外へ出て、ベンチに鞄を置いた。キルリアをボールから出すと、先生を見上げて挨拶し、白線で囲まれた地面へ顔を向ける。俺が今日の修行の話を伝えている間に、先生もボールを取り出した。
「始める前に、一つだけ。今日は、相手のポケモンへの攻撃は禁止です」
キルリアが俺を見た。俺もコートへ向けていた足を止め、先生へ向き直る。
「近づかれても、追い払っちゃ駄目ってこと?」
「技を当てて追い払うのは駄目です。ただし、向かってくる攻撃に技をぶつけるのは構いません。もちろん、避けても結構ですよ。どう防ぐかは二人にお任せします」
キルリアが両腕を少し持ち上げた。俺はその手元を見てから頷く。
「じゃあ、“サイコショック”とかも使えるんだな。相手に当てないようにすれば」
『うん。やってみたい』
先生がボールを開いた。現れた小さなポケモンが赤いリンゴの皮を左右に広げる。それが翼になって羽ばたき、細長い身体を持ち上げた。先生にアップリューと呼ばれると、こちらへ飛んできてキルリアの前で止まる。キルリアが頭を動かして見上げ、アップリューも首を伸ばした。
「“りゅうのはどう”と“ドラゴンクロー”を使います。キルリアさんにはドラゴン技が効きませんが、身体の位置まで攻撃を通されたら一本です。爪は寸止めにしますから、どこまで近づかれたかを見ておいてください」
動くのは白線の内側まで。強さと速さは練習用に抑え、途中で止めながら進めるという。先生がアップリューへも同じことを伝える間に、俺はキルリアとコートへ入った。
「まずはいつもどおりでいこう。攻撃を返すところだけ、今日はなしな」
『わかってるよ。ユアも、うっかり言わないでね』
白線の外でアイが笑った。いつもの調子で反撃まで指示しそうだったので、俺も言い返せない。キルリアを中央に残し、二匹を横から見られる位置へ下がった。
「それでは。“りゅうのはどう”!」
アップリューの口に光が集まった。キルリアはすでに相手を見ている。背後へ回れば波動を避けられるし、アップリューが向き直る間に次の動きも選べる。波動が放たれたところで、俺は“テレポート”を指示した。
キルリアの姿が薄れた。アップリューの翼が傾き、細長い身体がくるりと回る。後ろにキルリアが現れたときには、赤い翼の脇から光る爪が伸びていた。
「キルリア!」
キルリアが上体を引く。爪の先が顔のそばで止まり、アップリューは翼を動かしてその場に留まった。俺は上げかけた手を下ろせないまま、二匹を見ていた。
「そこまで。一本ですね」
先生の声で爪の光が消えた。キルリアはアップリューから一歩離れ、俺の方へ来る。
『出たら、もうこっちを見てた』
俺は頷いた。消えた場所と現れた場所へ順番に目をやる。アップリューの翼が動いたとき、背後にはまだ誰もいなかった。
「……出てから振り返ったんじゃないのか。後ろに来るって、待ってた?」
「ええ。姿を消して背後へ回る相手とは、何度も戦っていますから。今回はそちらへ爪を用意していたのです」
先生が近づくと、アップリューはキルリアを見たまま少し高度を下げた。俺はキルリアの横にしゃがみ、相手の翼を見る。向き直らせるつもりで選んだ場所で、待ち構えられていた。
「じゃあ、もっと離れて出るか」
『遠くなら爪は届かないけど、また波動が来るよ。わたし、あの爪を見てから動きたい』
キルリアがアップリューの片側へ顔を向けた。俺もそこを見ると、先生は二匹の間を空けるように横へ退いた。
「背後へ出ること自体が悪いわけではありませんよ。出る場所を変えてもいいし、すぐには消えずに様子を見てもいい。ほかに試したいことはありますか?」
俺はキルリアと目を合わせた。キルリアが手を持ち上げたので、俺も立ち上がる。
「今度は波動を止めてみる。“チャージビーム”をぶつけたい」
先生に頷いてもらい、二匹の位置を戻した。キルリアがアップリューへ腕を向ける。俺はその後ろに人がいないのを確かめ、飛んできた波動を指した。
「真ん中で止めろ、“チャージビーム”!」
黄色い光が波動へ突き当たった。ぶつかったところが膨らみ、細かく弾ける。キルリアは足を開き、両腕を伸ばしたまま押し返した。光がこちらへ進まなくなったので、俺はキルリアへ顔を向けかけた。その向こうで赤い翼が見える。
アップリューが、ぶつかり合う光の横へ回り込んでいた。キルリアとの距離は、もう最初の半分ほどしかない。
「キルリア、来てるぞ!」
キルリアが顔を上げた。二つの光が散って消えると、腕を引き、横へ跳ぶ。アップリューも身体を傾けて追ったところで、先生が手を上げた。
「そこで待ってください。ユアくん、今のキルリアさんの場所へ」
俺はコートへ入り、キルリアが踏ん張っていた足跡に立った。アップリューが目の前で羽ばたいている。最初に浮いていた場所を見ると、そこから随分近い。
「止めてる間に、こんなに来てたんだ」
キルリアも足跡へ戻り、さっきと同じように腕を伸ばした。俺が横へ一歩動くと、キルリアは腕を向けたまま俺を見る。
『それだと、撃ってるところがずれちゃう。途中でやめて、残った波動が来たら?』
俺は足を戻した。ぶつかった光がなくなるまで待てば、アップリューが近づく時間がある。かといって、残っている波動の前へ出るわけにもいかない。
「全部消そうとしなくてもいいのでは?」
先生は俺たちの見ていた辺りを指し、それから誰もいないコートの奥へ手を動かした。キルリアがそちらへ顔を向ける。
『あっちへ逸らすの?』
「止められたのですから、ぶつけ方を変えてみるのも一つの方法ですよ。ただし、今は受けられる強さにしています。どんな波動でも同じようにできるとは思わないでくださいね」
先生がアップリューを元の位置へ呼び戻した。俺はキルリアの隣に立ち、奥の白線を指す。
「波動はあっちへ押して、キルリアは逆に動こう。俺が立ってた側へ抜ける。横から当てるなら、“サイコショック”の方がやりやすいか?」
『うん。そっちは空けておいてね』
俺は白線からさらに下がった。キルリアが一度こちらを見てから、アップリューへ向き直る。先生に合図を送り、次の波動を待った。
キルリアが片腕を上げた。飛んでくる波動の横へ薄紫の光が集まり、斜めにぶつかる。波動の先端が奥へ振れた。キルリアは俺のいる側へ踏み出したが、伸ばしていた腕と上体が遅れ、崩れた光のそばに残った。
「身体も離せ!」
キルリアが地面を蹴った。白い身体の背後を波動の端が抜け、土が跳ねる。先生が止めると、キルリアは振り返り、自分がさっき立っていたところまで戻った。
俺もそこへ行き、キルリアが動きを繰り返すのを見た。腕を伸ばして、片足を横へ出す。その姿勢で止まったので、俺は肩の位置を指した。
「足は動いてるけど、ここが残ってる。……光、ずっと押してたのか?」
『ちゃんと曲がったか、見てた。途中で戻ってきたら嫌だったから』
キルリアは腕を下ろし、今度は上体も一緒に横へ運んだ。俺はその動きが終わるところまで手でなぞる。
「当てたら、こっちへ抜けよう。波動がまだ近かったら俺が言う。曲がるところは、俺が見てるから」
キルリアが俺を見て頷いた。先生は何も付け加えず、俺がコートから退くのを待っていた。
二度目は、薄紫の光がぶつかったところでキルリアの腕が下がった。足に合わせて身体も横へ抜け、波動が空いた場所を通り過ぎる。俺は光が離れていくのを見届け、すぐにアップリューへ目を戻した。
「避けたぞ。次、近づいてくる!」
アップリューは傾けていた翼を返し、キルリアへ向かって飛んできた。片側に爪の光が伸びる。俺が“かげぶんしん”を指示すると、キルリアの姿が左右へ重なった。
爪がその一体を横切った。輪郭が揺らいで消え、本物のキルリアが脇へ滑るように足を運ぶ。アップリューは翼を動かして向きを変え、低くなりながらもう一度爪を振ろうとした。キルリアが身を引く。
「そこまでです。少し休みましょう」
先生がアップリューを呼び戻した。キルリアが立ち止まって息を吐く。俺は近づきながら、爪が残像を通った場所を見た。
「今の、一回は外れたよな」
『うん。でも、また近くに来ちゃった。離れる方へ動いたら、こっちを向いた』
キルリアが横へ一歩動いてみせた。その足が止まったところから、爪の届いていた場所までを見比べる。近い。けれど、残像へ爪を振っていたときは、アップリューの頭も身体もそちらへ向いていた。
「……あのときなら、飛べたかも」
キルリアが顔を上げた。俺は爪が通った場所を指しかけ、先生に水を飲んでからにしましょうと言われて、手を下ろした。
日陰へ戻ると、アイが鞄を横へ寄せてくれた。俺はベンチに座って水を飲み、器へキルリアの分を注ぐ。渡そうとして手を伸ばしたが、キルリアはまだコートを見ていた。
「ほら。俺も言われたんだから、キルリアも飲めよ」
キルリアが振り返り、器を受け取った。アイが隣で口元を押さえている。俺は何だよと目を向けたが、キルリアが水を飲み終えたので、コートの方へ身体を向け直した。
「最初は、消えたらすぐ振り返ってきただろ。でも今は、爪を振ってからこっちを見た。あそこで“テレポート”したらどうだ?」
『どこに出る? また真後ろだと、あの爪が回ってきそう』
俺は膝の上で手を回し、アップリューの動きを真似した。爪を振り抜いて、身体を返す。そのまま背後へ回ってくるところで手を止める。
「真後ろまで行かなくてもいいか。振ってる爪から離れた横に出る。今度は、向こうが動いてから決めよう」
『じゃあ、出るところはわたしに決めさせて。ユアは遠くから見てるから、爪が届かないと思っても、こっちだと近いときがある』
言われてコートを見た。俺の立っていた線の外からなら二匹の間が見えるが、爪が目の前へ伸びるところは、キルリアにしか見えない。
「わかった。爪を振ったら合図するけど、危なかったら待たなくていいからな」
『うん。それと、出たあとも相手を見てたい。向き直すときに顔が見えるところにする』
キルリアが器を置いた。俺もボトルの蓋を閉め、少し休んでから一緒にコートへ戻った。先生に場所を借り、俺がアップリューのいたところに立つ。片腕を横へ振ると、キルリアはその腕から離れた斜め横へ歩いていった。
俺はキルリアを追って身体を回した。キルリアは俺の顔を見たまま、もう半歩だけ離れる。
『このくらい。ユア、もう一回やって』
腕を戻し、今度は反対へ振った。キルリアがさっきと逆側へ動く。俺も振り返ったところで足を止めた。先生が少し離れてこちらを見ていたので、最後にもう一度お願いしたいと声を掛けた。
ーー
コートへ戻ったアップリューが、キルリアの前で翼を広げた。先生は二匹の間を見てから、俺の方へ頷く。
「三つ続けていきます。技の順番は教えませんが、速さと強さは今までと同じです。終わりの合図まで続けてくださいね」
キルリアがこちらを見た。俺は頷き返し、白線から離れる。二匹の間を横から見るこの位置なら、波動が逸れていくところも見える。
「始めます。“りゅうのはどう”!」
口元から光が伸びた。俺が“サイコショック”を指示すると、キルリアの腕が上がる。薄紫の光が波動を斜めから打ち、先端をコートの奥へ押した。キルリアは手前へ身体を運び、俺は波動がその背後から離れていくのを追う。
「抜けた! キルリア、相手を見ろ!」
アップリューが低く飛んできていた。キルリアが顔を向け、俺の指示で“かげぶんしん”を使う。重なった白い姿へ、光る爪が伸びた。
さっきとは逆側の爪だった。俺は出しかけた手を止め、アップリューの顔を見る。残像へ向けて頭が動き、翼が深く傾いた。
「振ったぞ!」
キルリアが消えた。爪が残像を抜け、アップリューが身体を返す。その回転から離れた斜め横にキルリアが現れ、両足で地面を踏んだ。顔はもうアップリューへ向いている。
アップリューが首を動かしてキルリアを捉えた。羽ばたいて身体の向きを直す間も、キルリアはそこを見ていた。口元へ光が集まる。
「波動だ!」
俺は動く方まで言わなかった。キルリアが片足をずらす。放たれた波動に対して身体を横へ開き、続けてもう一歩離れた。光は足元の土を削って通り過ぎる。キルリアは相手を見たまま止まり、下げていた腕を持ち上げ直した。
「はい、終了です!」
アップリューが高度を上げた。キルリアは先生の方を見てから腕を下ろし、俺へ向き直る。俺は握った手を持ち上げた。
「よし!」
キルリアがこちらへ来た。途中でアップリューを振り返り、また俺を見る。
『今度は、こっちを探してた』
「見えた。爪も届いてなかったな」
先生がコートに入り、キルリアの立っていた位置を見た。アップリューを呼び寄せると、赤い翼が先生の横でゆっくり動く。
「最後は、姿を見つけてから向き直らなければなりませんでした。その間にキルリアさんは構えていましたね。今日は、ここまでにしましょう」
俺は先生とアップリューに礼を言い、頭を下げた。キルリアも隣で頭を下げる。顔を上げたら、先生が目元へハンカチを当てていた。
俺はキルリアと顔を見合わせた。先生はハンカチを離し、何か言おうとして口を開く。けれど、出てきたのは鼻をすする音だった。
「先生、どうしたの。土、目に入った?」
「いえ……すみません。小生は、こうして皆さんに教えられることが……嬉しくてですね」
先生がまた目を押さえた。アップリューが顔のそばまで寄り、短く鳴く。先生は空いた手を振って大丈夫だと伝えたが、ハンカチを外すところまではいかなかった。
アイが鞄を持って近づいてきた。先生を見て足を止め、ポケットからもう一枚ハンカチを出す。
「先生、これもどうぞ。先に座りましょう。二人とも、まだここにいるから」
先生が頷き、差し出されたハンカチを受け取った。俺はベンチへ戻って鞄をどかし、先生の座る場所を空ける。キルリアは鞄から水を出して、俺へ渡してきた。
『先生にも』
俺は頷いて蓋を開けた。先生はボトルを受け取ろうと手を伸ばし、両手のハンカチを見て止まる。アイが片方を預かっても、もう片方は目元から離れなかった。
水を隣に置いて、俺たちは先生が顔を上げるのを待った。