岩の隙間から流れ込む湯が、そばに浮かんだ葉を少しずつ押していた。俺が動くと葉も遠ざかり、背中を岩に預け直すと、またゆっくり近づいてくる。顔に当たる風は冷たいが、湯から出るつもりにはなれなかった。
隣の浅いところで、キルリアが目を細めている。時々まぶたが下がるので名前を呼ぶと、こちらへ顔を向けた。
『起きてるよ。あったかくて、目を閉じたくなっちゃうだけ』
「眠くなったら言えよ。帰りは抱えてくから」
キルリアは頷き、また岩に寄りかかった。リーグで手当てをしてもらったあとも、足取りはいつもよりゆっくりだった。ほかのみんなを休ませて夕飯を食べ、俺も部屋へ戻るつもりでいたのだが、ネモにこの温泉を教えてもらうと、キルリアが一緒に行きたいと言った。
灯りを消しても、岩の縁くらいは見える。空を遮る屋根はなく、湯気が薄くなったところから星が覗いていた。大きく息を吐く。昼間あれだけ叫んだせいで、まだ少し喉が掠れた。
「ユア、いる?」
向こうの岩陰に灯りが揺れた。砂利を踏む音が近づき、アイの顔が見える。
「こっち。そこ、足元が濡れてるから気をつけろよ」
「うん。……あ、キルリアも入ってたんだ」
アイが灯りを岩の上へ置いた。こちらに来るつもりらしい。俺はキルリアの向こうを見て、それからアイへ顔を戻しかけた。
「待って。お前も、ここに入るの?」
「そのつもりで来たんだけど」
「いや、だって……一緒でいいのかよ」
アイが足を止めた。少し間が空き、灯りから顔を外した俺の耳に、砂利を踏み直す音が届く。
「まぁ、ユアならいっか。ボクはこっちにいるから」
少し離れたところで湯が揺れた。男湯も女湯もない場所なのは、来たときに見ている。だからって、こんなに普通に入ってくるとは思わなかった。俺は流れ込む湯の方を向き、アイが落ち着くのを待った。しばらくして「あったかい」と声がしたので、ようやくそちらへ顔を戻す。
キルリアが岩の上の灯りを見ていた。アイは光が直接当たらないよう少し向きを変え、それから俺へ顔を向ける。
「ねえ。この1年、どうだった?」
「楽しかったよ」
すぐに返すと、アイが小さく笑った。俺は岩の縁へ目を向けた。さっきの葉が引っかかっている。
「……なんか、いろいろあったな。学校で勉強するつもりで来たのに、キルリアが配信に出るし」
『あれ、楽しかった。またナンジャモさんとやりたいな』
「終わったあとも、しばらく踊ってたもんね。ボクたちの方がびっくりしてたのに」
アイに言われ、キルリアがこちらを見た。俺も頷く。
「お前、全然困ってなかったよな。俺だったら、あのカメラの前で何喋ればいいんだか」
『ユアも一緒に踊ればよかったのに』
「それはもっと無理」
キルリアが声を立てて笑い、つられたアイが顔を伏せた。笑うと少し喉が痛い。俺は唾を飲み込んでから、湯を指でかいた。
「ハイダイさんとの競りもさ。バトルじゃないし、一回くらい勝てるだろって思ってたんだけど。三回とも負けるとはな」
「まだ悔しい?」
「そりゃ悔しいだろ。こっちは必死なのに、ずっと笑ってるんだぞ。……でも、ああいうのも修行になるんだな。あのとき、買うかどうか決めるだけであんなに迷うとは思わなかった」
指から離れた波が、岩の縁に当たって戻ってきた。アイは俺の話を聞きながら、ゆっくり頷いていた。
「ボクも、競りをするって聞いたときは驚いたよ。キミに会ってほしいとは思ってたけど、あんな勝負になるんだもん」
「オモダカさんには、修行のこと頼んでくれてたんだよな。前に聞いた」
「うん。ボクとばっかり戦うより、いろんな人とやれたらいいなって。キミ、ボクの手持ちにはだいぶ慣れてきてたし」
アイは湯の流れる方へ目を向けた。
「誰にお願いできるかとか、どんな修行がいいかとか、相談してたんだ。みんな忙しいから、すぐにとはいかなかったけど。ボクが連れていくより、キミに直接話してもらった方がいいこともあるでしょ」
修行が決まると、俺はどういうポケモンが出てくるのか、どんなことをするのかと、そればかり考えていた。アイがいつ誰と話していたのかは、聞いたことがなかった。
「お前、そんなことしてたのか。俺と遊んだり、バトルしたりもしてたのに」
「毎日ずっと相談してたわけじゃないよ。ボクも自分の修行してたし。夕飯で会う頃には、もう終わってたってだけ」
夕飯の席で会えば、俺はその日にできたことや、うまくいかなかったことを話していた。アイは聞いて、ときどき笑ったり、一緒に考えたりしてくれた。その前に何をしていたかまで、毎回聞いていたわけじゃない。
「……今度、お前の話も聞かせろよ。俺ばっか喋ってた」
「いいよ。聞いてほしいこともあるし」
アイはそう言って、岩に背を預けた。俺も足の位置を変える。湯の中では滑らかに見えていた石が、触ってみると少しざらついていた。
「ボタンたちとも仲よくなったね。今日、みんな来てくれてたし」
「ああ。呼ばれただけだったのに、あんなに人が集まるとは思わなかった。飯のときも、ネモがずっとバトルの話してたし」
「まだ話し足りなさそうだったよ。明日も捕まるんじゃない?」
「明日は喉、休ませたいんだけどな」
掠れた声で言うと、アイが笑った。キルリアも目を細めている。岩の縁に引っかかっていた葉が、俺たちの立てた波に外れて流れていった。
「でもまぁ、キミを連れてきてよかったよ」
アイの声に顔を向けた。こちらを見ていたアイは、俺と目が合うと一度言葉を切り、キルリアの方にも視線を向けた。
「これが全部。ボクがパルデアで経験して、出会った宝物、キミとだから共有した」
俺は口を開きかけて、少し黙った。アイは続きを急かさず、こちらを見ている。湯の落ちる音を聞きながら言葉を探したが、結局、返せたのは短いものだった。
「……俺も、来てよかった。連れてきてくれて、ありがとな」
「うん」
アイが笑った。俺は岩の上の灯りへ目を移した。横を向けて置かれているから、明るいのは足元だけだ。その先は暗く、来た道も途中で見えなくなっていた。
「ここも、ネモに聞かなきゃ知らなかったしな。まだ行ってないとこ、いっぱいあるんだろうな」
「あるよ。ボクが行ったことないところも。一緒に探してもいいし」
『今度は、みんなで来たいね』
言い終えたキルリアが小さくあくびをしたので、俺は顔を覗き込んだ。キルリアはこちらを見て『まだ大丈夫』と付け足し、岩へ置いていた手を引き寄せた。
「次は休みの日にしようぜ。今日みたいなバトルのあとだと、帰って寝るので精いっぱいだ」
「ボクも、今になって眠くなってきた。さっきまでは全然だったのに」
アイが目元を指で押さえた。俺もつられて息を吐いたが、昼間のことを思い出すと、口元が緩んだ。隣のキルリアを見て、もう一度アイを見る。
「でも、勝てたな」
「うん。ドーにもアチゲータにも、何回も言っちゃった」
湯の中で右手を開いた。ハイタッチの音は、今もよく覚えている。
「また一緒にやりたい。……けど、お前とも戦いたいんだよな」
アイが目元から手を離した。俺はそちらへ向き直る。
「俺、まだ自分が強いなんて思ってないし、アイに追いついたとも思ってない」
「じゃあ、また勝負しようよ。ボクも今日のバトルで、やってみたいこと増えたから」
「今日あれだけ戦って、まだ考えてたのかよ。こっちは追いかけるので精いっぱいなのに」
「ボクも勝ちたいもん。そこは譲れないよ」
アイが笑うので、俺も笑ってしまった。今ここで何をするつもりか聞きたくなったが、それは次に戦えば見られる。岩へもたれ直し、空を見上げた。湯気が流れ、細かい星がいくつも見えた。
しばらく三人とも黙っていた。風が草を擦る音に、キルリアの声が重なる。
『ユア、そろそろ上がりたい。帰る前に寝ちゃいそう』
「そうだな。アイ、俺たち上がるけど」
「ボクも行く。灯り、持ってくるね」
俺はキルリアへ手を差し出した。小さな手が乗り、ゆっくり立ち上がるのを支える。アイが岩の上の灯りを取ると、濡れた石の並びが明るく照らされた。
ーー
靴紐を結び終えて顔を上げると、タオルにくるまったキルリアが、荷物の隣で俺を待っていた。緑の髪から落ちる雫を拭いてやる間にも、まぶたが下がってくる。
「ボールに戻るか?」
『もうちょっと、一緒にいたい。抱っこしてくれる?』
頷いて、背中と足を支えながら抱き上げた。キルリアは俺のパーカーを掴み、肩へ頭を預ける。鞄を持とうと手を伸ばすと、アイが横から取ってくれた。
「こっちはボクが持つよ。タオル、落とさないようにね」
「悪い。そこのポケット、開いてないか」
アイが確かめて、ファスナーを端まで引いた。灯りを道へ向けて歩き出したので、俺もキルリアを抱え直して続く。来るときは気にならなかった坂が、帰りは少し長く感じた。
後ろから聞こえていた湯の音が遠くなる。アイの持つ灯りに草の先が照らされ、その向こうに、街の明かりが見え始めた。
「明日、何時に起きる?」
「目が覚めたら。用事もないし」
「じゃあ、朝ご飯に行くとき連絡するね。寝てたら、そのまま寝てていいよ」
頷くと、肩に触れていたキルリアの頭が少し動いた。
『わたしも、起こしてね』
「おう。ちゃんと呼ぶよ」
道が狭くなり、アイが半歩前へ出た。足元の石を照らして、俺が通るまで待っている。そこを越えて隣へ戻ると、二人分の靴音がまた並んだ。