1話
パルデアで迎える二度目の新学期は、教室を間違えかけるところから始まった。
去年と同じつもりで階段を上がり、踊り場で時間割を確かめて引き返す。隣を歩いていたアイは俺が方向を変えるのを見ると、手に持っていた紙をひらひら振った。
「ボク、さっきこっちだって言ったよ」
「聞こえなかったんだよ。人、多かったし」
階段の下には、案内板を見上げる生徒が何人もいた。去年の俺もあそこで立ち止まっていた。今なら教室くらい教えられるつもりだったのに、自分が間違えていたら世話がない。
授業が終わったあと、その時間割をしまおうとしていると、開いたままの教室の扉からネモが顔を出した。
「ユア、アイ! ちょっといい?」
アイが空いた椅子を引いたが、ネモは座らず、俺たちの机に手をついた。
「今、学園でいちばん強いのって、誰なんだろうね」
鞄の口へ入れかけていた紙が折れた。俺は引き抜いて角を伸ばしながら、ネモを見る。
「……急にどうしたんだよ」
「新しく入ってきた人にも強そうな人がいるし、みんな、この一年でどんどん強くなってるでしょ。ユアたちとトップのバトルを見てから、ずっと考えてたんだ。ああいう勝負、もっと見たいなって」
「あれは俺とアイ、二人でやっとだったけどな」
「うん! だから今度は、二人が別々に戦うところも見たい!」
隣でアイが椅子の背から身体を起こした。
「ボクはいいよ。ユアとも、ちゃんと決着つけたいし」
「俺だって、そのつもりだけど」
返した途端、ネモが両手を合わせた。
「じゃあ、大会にしようよ! 学園のみんなで集まって、誰がいちばん強いか決めるの!」
「大会って、俺たちだけで決めていいのか?」
「校長先生に相談しよう。今ならまだ校長室にいるかな」
ネモは扉の方へ身体を向け、俺たちが立つのを待っていた。もう行く気だ。俺は時間割を今度こそ鞄に押し込み、アイと一緒にそのあとを追った。
校長室では、クラベル校長が仕事の手を止めて話を聞いてくれた。
ネモは大会の話になると、さっきより身振りが大きくなった。机の端に置かれた書類へ手が近づくたび、隣に座る俺の方が落ち着かない。
「日頃の学習の成果を、皆さんで披露し合う機会ですね。よい提案だと思いますよ」
「じゃあ、開けますか!」
「まずは先生方にも相談しましょう。会場や日程の調整も必要ですから。ポケモンリーグにご協力いただけるか、オモダカさんにもお話ししてみます」
校長はそこまで言ってから、俺とアイにも目を向けた。
「お二人も、参加したいと考えているのですね?」
アイと一緒に頷いた。みんなの前で戦うのは緊張するだろうし、ネモまで相手になるなら楽な勝負になるはずがない。それでも、参加せずに見ている方が嫌だった。
「出たいです。開催するなら」
答えると、隣でネモが嬉しそうに拳を握った。
そのあともネモは、会場をどこにするかという話の途中で誰と戦いたいかを話し始め、校長に二度ほど日程の相談へ戻されていた。
ーー
大会の開催が決まったと聞いたのは、それからしばらくしてからだった。
もう一度呼ばれた校長室にはオモダカさんもいて、机の上には学園とリーグの名前が入った案内が並んでいた。ネモがその一枚を両手で持ち、上から下まで食い入るように読んでいる。
「学園最強大会……!」
「皆さんにとって、実りある大会にしたいですね。リーグも運営に協力させていただきます」
オモダカさんの言葉に、ネモが勢いよく顔を上げた。
「ありがとうございます! わたし、みんなに知らせてきます!」
「ネモさん。配布用の案内もお持ちください」
校長が差し出した束を受け取って、ネモはまた礼を言った。その隣で、アイが俺の手元の案内を覗き込む。
「楽しみだね。ボクも、のんびりしてられないな」
紙のいちばん上に印刷された大会名を、指で押さえた。あのときはネモが言い出した大きな話だったのに、こうして渡されると、俺もここで戦うんだという気がしてくる。
「ユアさんには、一つお願いがあります」
顔を上げると、オモダカさんが別にしてあった封筒を揃えていた。
「各地で協力してくださる方へ、開催決定のご報告をお願いできますか。準備については、すでに相談を進めています。皆さん、あなたとも親しい方ですし、直接お会いすれば、お話しできることもあるでしょう」
封筒にはナンジャモさん、ハイダイさん、それからアオキさんの名前があった。いつ、どこを訪ねるかという予定も添えてある。
「授業のない時間を使って、何日かに分けて回っていただければ結構です。先方からお返事があれば、リーグで伺います」
「分かりました。俺、行ってきます」
大会の話をしたら、どんな反応をするだろう。ナンジャモさんのところは少し騒がしくなりそうだ。そんなことを考えながら、折れないように封筒を鞄へ入れた。
ーー
「よくぞ来てくれました、ユア氏!」
最初に向かったハッコウシティで、ナンジャモさんは俺の顔を見るなり、机の上を片づけ始めた。
使っていない機材を端へ寄せ、椅子を引く。まだカメラの電源は入っていない。俺は勧められた椅子へ座り、鞄から封筒を取り出した。
「大会、正式に決まりました。これが案内で、今日から告知していいそうです」
「待ってましたあ! ボク、話せる日をずーっと待ってたんだよねえ」
ナンジャモさんは封筒から紙を抜き、視線を素早く動かした。机の下から顔を出したキルリアも、俺の膝に手をかけてそれを見上げる。
「今から配信でお知らせしちゃおっかな。ユア氏とキルリア氏にも、ちょこっと出てもらっていい? 顔も声も配信に乗るけど、だいじょぶ?」
「俺は大丈夫です。キルリアは?」
『いいよ。ユア、ここに座ってもいい?』
キルリアが隣の空いた椅子を示したので、座りやすいように少し引いた。キルリアが腰を落ち着けるのを待って、ナンジャモさんがカメラの位置を合わせる。
「二人とも、ありがとー! ではでは、準備するから少々お待ちを!」
俺も襟を直して待った。画面の中では、自分が思っていたより固い顔をしている。キルリアがこちらを見て首を傾けたので、口元の力を抜いたところで、ナンジャモさんが大きく息を吸った。
「あなたの目玉を エレキネット! 何者なんじゃ? ナンジャモです! おはこんハロチャオー!」
さっきまで案内を読んでいた人と同じとは思えない勢いで、長い袖が画面いっぱいに広がった。
「皆の者〜! 本日はグレープアカデミーから、とっておきのお知らせが届いております! その名も、学園最強大会!」
用意した案内が画面に映ると、端に並んでいたコメントが次々と上へ流れ始めた。
いつ開くのか、見に行けるのか、ナンジャモさんも出るのか。読んでいる途中で次の文字に押し上げられ、全部は追えない。
「詳しいお知らせは学園とリーグの公式案内をチェックしてね! そして本日、ボクのところへ届けてくれたのが、こちらのユア氏とキルリア氏でーす!」
「こんにちは」
『こんにちは。覚えてくれてる人、いるかな?』
キルリアが手を振ると、名前を呼ぶコメントが一度に増えた。隣の椅子が少し揺れる。キルリアが嬉しそうに足を動かしながら、流れていく文字を目で追っていた。
「覚えてるどころか、お待ちかねの皆の者がいっぱいですなあ! ユア氏、大会へ向けてひと言いただけますか?」
カメラを見た。案内を渡すだけのつもりで来たから、気の利いた言葉は何も用意していない。
「……出るからには、勝ちたいです。みんなと練習して、準備してきます」
「聞きましたか、皆の者! これは当日が楽しみですぞ〜!」
俺の返事にまで応援が届き、画面の向こうにいる人の多さが急に気になった。変なことを言わなくてよかった、と息をついた横で、キルリアはまだ手を振っている。
出番を終えてカメラから離れても、ナンジャモさんの声は弾んでいた。持ってきた案内は一枚なのに、もう俺が会ったこともない人たちが、大会の話をしていた。
ーー
翌日のマリナード市場では、ハイダイさんの大きな頭が人混みから突き出ていた。
呼びかけようとして口を開くと、その手が高く上がった。
「もうひと声、乗せるよお!」
競り台に並んでいるのは、乾燥させた香り付け用のハーブだった。束が幾つも詰まった箱の前で、売り手が周囲を見回す。少し離れたところからも手が上がり、ハイダイさんがまた値をつけた。
決着するまで待って近づくと、足元に置かれた別の箱にも同じ店の札がついていた。こちらには豆の袋がぎっしり入っている。
「おお、ユアの坊! よく来たねえ!」
「大会の案内を持ってきたんですけど……もう買ってるんですね」
「校長さんから屋台の相談をもらっててねえ。決まったって連絡が来たから、仕入れに来たのよ!」
俺が封筒を渡すと、ハイダイさんは大きな手で受け取り、さっそく中を確かめた。
「ウオーッ! こうして見ると待ちきれないねえ! 坊たちが腹いっぱい食べられるように、オイラも腕を振るうとするかい!」
その肩越しに、さっきのハーブの箱が運ばれてくるのが見えた。邪魔にならないようにキルリアと端へ寄ると、今度はそちらにも箱が置かれる。
俺たちは揃って、もう一歩下がった。
「これ、全部屋台に使うんですか?」
「そうとも! 戦う方も応援する方も、腹は減るからねえ。途中で売り切れましたじゃ申し訳ないだろう?」
俺は豆の箱と、積まれたハーブを見比べた。寮の台所で見かける量とはまるで違う。何人分になるのか考えかけたところで、次の商品を知らせる声が響いた。
「こちら、乾燥きのこの詰め合わせ!」
「おっ、それもいいねえ!」
ハイダイさんが振り向いたので、俺は反射的にその袖をつかんだ。
「待ってください。返事を聞いて帰るように言われてて。屋台のこと、リーグには何て伝えればいいですか?」
「予定どおり出すよって伝えとくれ! 細かい相談はオイラから連絡するから、坊は当日、腹をすかせておいで!」
俺が頷いて手を離すと、すぐにその腕が上がった。
また始まってしまった競りを眺めていると、キルリアが俺の鞄を軽く引いた。
『ユア、こっちから出よう。また箱が来るよ』
振り返れば、通路へ出る隙間が箱一つ分しか残っていない。キルリアを通してから俺も抜け出すと、ちょうどきのこの買い手が決まった。
ハイダイさんだった。
ーー
リーグへ報告に寄った日、チリさんは机に肘をついて、片手で額を押さえていた。
開いた扉を叩くと、こちらを向き、いつものように軽く手を上げる。
「おう、ユア。回ってきてくれたんやな。座り」
「忙しいところでした?」
「大会の予算と相談中や。向こうがちっとも譲ってくれへんねん」
チリさんは机の紙を指で弾き、椅子をこちらへ向けた。紙には会場の設備や係の人数が書いてあって、幾つかの数字に線が引かれている。
「で、どないやった?」
俺はナンジャモさんが配信で知らせてくれたことと、ハイダイさんの屋台は予定どおりだという返事を伝えた。ハイダイさんがもう仕入れを始めていると話すと、チリさんの口元が緩んだ。
「あの人らしいわ。まあ、ごはんの心配はせんでよさそうやな」
「ナンジャモさんの配信も、見に行きたいって人が結構いました。俺、コメントが速くて、全部は読めなかったですけど」
「……結構、か」
チリさんはペンを持ち直し、紙へ目を落とした。
「椅子、もうちょい要るかなあ。案内する人も増やしとかんと、入口で詰まるし……」
さっき引かれていた線の横に、また文字が増える。俺が黙って待っていると、チリさんが顔を上げた。
「ああ、ごめんな。ユアに相談してもしゃあないわ。来てくれる人が多いんは、ええことや。こっちで考えとく」
そう言ってから、チリさんは紙の端に書いた合計を消した。
「これ、今日何回消してるんやろ」
思わず笑うと、チリさんも困った顔のまま笑った。
「笑うてるやろ。チリちゃん、当日はちゃんとバトル見たいねんで。今のうちに済ませとかな」
「じゃあ、見てもらえるように頑張ります」
「頼むわ。楽しみにしてるからな」
返事をすると、チリさんは報告の済んだ案内を脇へ揃えた。
「残りはアオキさんやったな。移動中、ちゃんと休みや」
立ち上がって鞄を背負い直したところで、机の上のスマホが鳴った。チリさんが画面を見て、小さく息を吐く。
「もしもし、チリです。はい、大会の件ですね。……ええ、配信、見てくださったんですね」
俺は声を出さずに頭を下げた。チリさんも手を振ってくれたが、反対の手では、またあの紙を引き寄せていた。
ーー
アオキさんとの約束は、その翌日の昼を少し過ぎた時間だった。
チャンプルタウンの宝食堂に着くと、アオキさんは奥の席に座っていた。こちらに気づいて隣の椅子から鞄をどけ、座る場所を空けてくれる。
「お疲れさまです。どうぞ」
「ありがとうございます。これで、頼まれてた分は最後です」
封筒を渡して腰を下ろした。鞄を下ろした肩を回すと、重さから解放されてほっとした。椅子の下で足を伸ばし、そのまま背もたれに身体を預ける。
アオキさんは案内を読み、丁寧に封筒へ戻した。
「確かに受け取りました。あなたも、あちこち回って疲れたでしょう。何か食べていきませんか。自分がご馳走します」
「いいんですか? 案内を渡しに来ただけなのに」
「ええ。自分も、これからですので」
そう言われると急に腹が減ってきた。壁の品書きを眺め、きのこと野菜のあんかけ丼を頼む。アオキさんは店の人に注文を伝えたあと、キルリアにも食事を用意できるか聞いてくれた。
『ありがとう。わたしも、お腹すいてたの』
キルリアが椅子に座り直す。俺は鞄を足元へ置き、水を飲んだ。厨房の方で鍋を振る音がする。いい匂いが漂ってきて、さっき品書きで見た料理の写真を思い出した。
「ハイダイさん、大会の屋台用に食材をたくさん買ってました。俺たちが話してる間にも、また落札してて」
「それは楽しみですね。あの方の料理はおいしいですから」
「はい。でも、当日に食べすぎたら、動けなくなりそうで」
「試合を終えてからにしましょう。空腹で屋台を見て回るのは、なかなか難しいものです」
アオキさんの前には、もう品書きが開いていた。頼んだ食事を待ちながら、端に書かれた小鉢を見ている。
俺もつられてそちらを見ていたら、店の人が盆を運んできた。
丼の上で、あんが湯気を立てている。れんげを持ち、ご飯と一緒にすくおうとしたところで、ポケットのスマホが震えた。
ネモからだった。
〈ナンジャモさんの配信、見たよ! 早く大会の日にならないかな!〉
続けて、バトルを楽しみにしているというメッセージが届く。校長室へ向かっていたときの顔が浮かんで、笑ってしまった。
れんげを置き、返事を打ちかけると、アオキさんが丼へ目を向けた。
「食事の間くらい、休んでいてもいいと思いますよ。せっかくですから、温かいうちに」
隣ではキルリアが、もう一口目を食べていた。
「……そうします。いただきます」
スマホをしまい、れんげを持ち直す。ひと口すくって息を吹きかけたが、待ちきれずに食べたら、まだ熱かった。
慌てて水へ手を伸ばす俺に、アオキさんが黙ってコップを寄せてくれた。