坑道から戻る頃には、昼になっていた。クロガネシティはいつも通りに見えた。煙突から煙が上がり、荷車が鉱石を運び、作業場の方からは金属を叩く音が聞こえてくる。けれど、すれ違う職人たちは俺を見ると口を閉じた。誰も声は掛けてこない。ただ、少しだけ道が空く。坑道で何かがあったことは、もう伝わっているらしかった。
俺はそのまま作業場へ向かった。中へ入ると、鉄と油の匂いが鼻をつく。奥では父さんがしゃがみ込み、壊れた重機の部品を前にしていた。曲がった金属、欠けたボルト、噛み砕かれたような端。父さんは俺の足音に気づいて顔を上げる。
「戻ったか」
「うん」
俺は近くの木箱へ腰を下ろし、膝の上で拳を握る。走ったせいか、坑道で叫んだせいか、まだ息が少し落ち着かない。ラルトスは俺の隣に立ち、作業場の奥を静かに見ていた。
「クチートに会った」
父さんの手が止まる。俺は坑道で見たことを順番に話した。職人の人がゴーリキーを連れて入ったこと。クチートが奥へ追い詰められていたこと。ゴーリキーの拳が振り下ろされそうになったこと。その間へ飛び込んだこと。職人の人が引いてくれたこと。クチートは何も言わず、奥へ続く道の前に戻ったこと。分からないことは、分からないまま話した。余計なことを混ぜると、見たものまで違う形になってしまいそうだった。
父さんは最後まで口を挟まなかった。途中で工具を床へ置き、腕を組む。話し終わると、作業場の奥で誰かが金属を叩く音だけがしばらく続いた。
「……そうか」
父さんはそう言って、壊れた部品へ視線を落とした。
「今朝の件は聞いた。あいつも焦っていたんだろう。何度も被害が続いて、仕事が止まって、皆の顔つきが変わってきている。だからといって、ゴーリキーを連れて奥へ踏み込んでいい理由にはならないがな」
「うん」
「クチートはどうだった」
「分からない。何を考えてるのかは全然分からない。でも、あの場所から動かなかった。職人の人たちがいなくなっても、奥へ戻るだけだった」
言いながら、クチートの赤い目を思い出す。俺を見ていた。ラルトスを見ていた。去っていく職人たちも見ていた。けれど何を思っていたのかは分からない。
父さんは部品を一つ持ち上げた。端が丸く抉れて、鋼がめくれている。
「壊すだけなら、もっと派手にやれる。人を襲うこともできたはずだ。だが、今のところそうはなっていない。壊されているのは設備ばかりだ」
「父さんも、変だと思う?」
「変だ。だが、変だから安全とは言えない。そこを間違えるな。理由がありそうに見えることと、近付いていいことは別だ」
父さんは部品を置いた。鈍い音が鳴る。俺はその音を聞きながら、拳を膝の上で握り直した。
「父さん」
「なんだ」
「この件、俺に任せてほしい」
言った瞬間、父さんの目が俺へ向いた。作業場の音が遠くなる。ラルトスもこちらを見上げた。
「何を言っているか、分かってるのか」
「分かってる。全部を俺だけで解決できるなんて思ってない。クチートが何を考えてるのかも、まだ分からない。でも、俺とラルトスは直接会った。あの場所で、クチートの前に立った。だから、もう少し見たい。外から危ないって決めるだけじゃなくて、ちゃんと何が起きてるのか見たい」
「それだけなら許可できない。気になるから行きたい、見たから知りたい。そんな理由で坑道へ入るには危険すぎる。お前は昨日、戻ってきた。今朝は飛び込んだ。どちらも運が悪ければ怪我では済まなかった」
父さんは静かにそう言った。だからこそ逃げ道がなかった。俺は言葉を探す。うまく言えるか分からない。でも、ここで黙ったら終わる。
「気になるだけじゃない。今日、俺が止めなかったら、ゴーリキーの拳は振り下ろされてた。クチートもやり返してたかもしれない。そうなったら、どっちが悪いとか言う前に、誰かが怪我してた。俺は、それを見なかったことにはしたくない」
父さんは黙っていた。俺は続ける。
「職人の人たちが困ってるのも分かる。仕事が止まったら大変なのも、少しは分かる。でも、クチートを追い詰めて終わらせるのは違うと思う。俺は、クチートの味方をしたいんじゃない。職人の人たちが間違ってるって言いたいだけでもない。ただ、もう一回ちゃんと向き合わないと、また誰かが勝手に動く。俺は、それを止めたい」
言い終えると、喉が少し痛かった。作業場の空気が重い。父さんはすぐには答えなかった。ラルトスの手が、俺の袖をそっと掴む。
「ユア」
「うん」
「任せるというのは、好きにしていいという意味じゃない。お前が前に出れば、話を聞く者もいるだろう。だが、お前が間違えれば、その分だけ話が悪い方へ転ぶ。クチートも、職人たちも、どちらか一方だけを見て動くな。お前はまだ十歳だ。全部を背負える年じゃない」
「分かってる。でも、俺はこのまま放っておけない。昨日も、今日も、俺はあの場所にいた。クチートの前にも立った。職人の人が怒るところも見た。だから、俺がもう一度行きたい。俺が見たところから、ちゃんと続けたい」
父さんの眉が動いた。困ったような、怒りきれないような顔だった。
「お前は昔からそうだな」
「え?」
「放っておけないと思ったら、自分の足で行く。ラルトスの時もそうだった。あの時は迷子だったが」
「そこは言わなくていいだろ」
「言う。忘れるなという意味でな。自分がそういう人間だと分かっていないやつほど、危ない場所で止まれなくなる」
父さんは立ち上がり、俺の前まで来た。俺も木箱から立ち上がる。父さんは俺を見下ろした。
「分かった。お前に任せる。ただし、条件がある。勝手に一人で行くな。ラルトスの言葉を聞け。危ないと思ったら引け。見たことは必ず俺に話せ。それから、必要な人間がいると思ったら連れて行け。お前一人で解決しようとするな」
「……うん」
「返事だけじゃない。約束しろ」
「約束する」
父さんは俺の肩に手を置いた。強く押すわけでも、軽く叩くわけでもない。ただ、そこに重さが乗る。
「なら行け。だが忘れるな。任せたのは、好き勝手に動けという意味じゃない。お前が見てきたものを、ちゃんと人に繋げるためだ」
俺は頷いた。父さんの言葉に、何か重いものを渡された感じがした。それでも、その重さから逃げたいとは思わなかった。
『ユア』
ラルトスが袖を引く。
『……いく?』
「行く。でも、今すぐ奥へ突っ込むわけじゃない。まず、ちゃんと考える。誰に話すべきか、誰を連れて行くべきか」
ラルトスは俺を見た。少し考えて、それから小さく頷く。
『……うん。いっしょに、考える』
「頼む」
作業場の外では、まだ職人たちの声がしていた。怒っている声。不安そうな声。壊れた重機をどうするか話す声。その全部の向こうに、坑道の奥がある。クチートがいた、あの暗い場所がある。
まだ何も分かっていない。クチートのことも、坑道で何が起きているのかも。だけど、何も分からないまま、誰かがまた拳を振り上げるのは嫌だった。
俺はラルトスと一緒に、作業場の出口へ向かった。
その背中を見送って、父さんはしばらく何も言わなかった。近くにいた職人が、壊れた部品を片づける手を止める。
「親方、本当に任せるんですか」
父さんは作業場の出口を見たまま答えた。
「任せるとは言った。放っておくとは言ってない」
職人はそれ以上何も聞かなかった。金属を拾う音がまた戻ってくる。父さんは俺たちが出ていった方を見たまま、小さく息を吐いた。
「……成長してるのは分かるんだがな」
その声は、作業場の音にすぐ紛れた。
「親としては、複雑だ」