コートの向こうで、ジニア先生が眼鏡を押し上げた。
「今日はよろしくお願いしますねえ、ユアくん」
「はい。よろしくお願いします」
頭を下げてから、手の中のボールを握り直す。先生は教室で話すときと変わらない柔らかい顔をしていたが、視線は一度だけ俺の手元へ落ちた。
「予選第2戦、ユア選手対ジニア選手! 使用できるポケモンは三体ずつ。両者、準備はええな?」
チリさんの声に頷くと、先生もボールを構えた。
最初に出てきたサーナイトを倒したのはキルリアだった。ただ、戻ってきたときには呼吸が速く、片足を庇うように立っていた。差し出したボールへ手を添えたキルリアが顔を上げる。
『少し休んだら、まだ戦えるよ』
「ああ。今は休んでてくれ」
赤い光がボールへ収まるのを見届け、俺は次の一個を投げた。飛び出したヤトウモリが四本の足を広げて腹を低くし、その向こうでは先生のエルレイドが片足を引く。肘から伸びた刃が傾き、ヤトウモリの高さへ狙いを合わせた。
「さあ続いてはヤトウモリ対エルレイド! 体格差はかなーりあるけど、ちっちゃい方にはちっちゃい方の戦い方があるぞー!」
ナンジャモの声が響き、チリさんが腕を下ろした。
「ヤトウモリ、“どくガス”! 吐きながら右へ!」
ヤトウモリの口から紫色のガスが流れ、地面の近くへ広がった。その縁に沿って走り、正面から踏み込んできたエルレイドの外側へ回る。エルレイドは顔をガスから外したものの、深くは追ってこない。
「そのまま、“かえんほうしゃ”!」
ヤトウモリが走る向きを保ったまま首を曲げ、横から炎を吐いた。エルレイドは後ろへ跳び、炎から腕を引く。着地した場所へもう一度首を向けると、ジニア先生の声が飛んだ。
「エルレイド、“エアスラッシュ”でガスを散らしましょう」
腕が横へ振られ、飛んできた空気の刃が紫の煙を切り裂いた。ガスが左右へ押し退けられ、隠れていたヤトウモリの姿が露出する。続けてもう一度腕が動いたのを見て、俺は刃の向きを追った。
「前へ抜けろ!」
ヤトウモリが地面を蹴り、空気の刃が背後のコートを削った。そのままエルレイドの脇へ潜り込むと、相手が身体を返すために足を置き直す。
「“どくどくのキバ”!」
ヤトウモリが跳びつき、牙がエルレイドの脚へ食い込んだ。すぐに口を離して着地すると、緑色に光った腕が頭上を通る。エルレイドも次は高い位置を振らず、膝を曲げて刃を下げた。
同じ入り方はもう使えない。ヤトウモリも追わずに距離を取り、残ったガスの向こうへ回ろうとした。
「“はどうだん”です」
エルレイドの両手の間に青い光が集まり、球になって飛んでくる。ヤトウモリが横へ走っても軌道がずれず、その背中を追って曲がった。
「振り向いて、“かえんほうしゃ”!」
ヤトウモリが爪を立てて止まり、炎を正面からぶつけた。青い球が火の中へ食い込み、押し返そうと四肢を張った身体が少しずつ後ろへ滑る。光が弾けたところでヤトウモリが顔を背け、その向こうからエルレイドの腕が振り下ろされた。
「“サイコカッター”!」
「左!」
飛んできた光の刃から跳び退いたものの、背中の端が切られた。ヤトウモリが横へ転がり、爪を立てて身体を止める。すぐに立ったが、さっきより足の運びが狭い。
炎を吐くために止まれば、“サイコカッター”が来る。ガスへ逃げ込もうとしても、“エアスラッシュ”で開けられる。
「もう一度、“どくガス”! 広げすぎなくていい!」
今度は自分の周りだけを覆うように吐かせる。エルレイドが腕を振ったところでヤトウモリがガスの端から飛び出し、空気の刃を外して左へ走った。
エルレイドは追わなかった。
短く足を運び、ヤトウモリが回ろうとする方向へ身体だけを向ける。正面を外せないまま距離が縮まり、緑の光が低い位置へ落ちた。
「“リーフブレード”!」
ヤトウモリが腹を伏せる。刃そのものは頭上へ逃がしたが、腕に押されるように脇腹を打たれ、身体が地面を滑った。起き上がったところへ光の刃が飛び、今度は避けきれず肩口を弾かれる。
「ヤトウモリ!」
前脚が一度折れた。歯を見せて起き上がり、エルレイドへ顔を向け直すものの、呼吸のたびに背中が大きく動いている。
俺はベルトへ手を伸ばした。
「一回戻るか」
ヤトウモリの頭がこちらを向く。俺の手とボールを見てから、またエルレイドへ視線を戻した。尾を地面へ押しつけ、四本の足を踏み直す。
まだやるらしい。
手をボールから離したところで、黒い背中に白い光が浮かんだ。
首から尾へ光が広がり、ヤトウモリの輪郭が崩れる。地面についていた前脚が伸び、胴が持ち上がった。後ろ脚で立ち上がるにつれて身体は細長くなり、伸びた尾がコートを擦る。
俺は口を開いたまま、その変化を見ていた。
「来た来た来たー! 試合中の進化! ヤトウモリ、エンニュートになったぞー!」
実況席からナンジャモの声が降ってきた。
「……エンニュート」
名前を口にすると、進化したばかりのそいつが首をこちらへ向けた。短く鳴き、長くなった両腕を地面から離す。さっきまで四本の足で支えていた身体を後ろ脚で受け止め、尾を左右へ動かしながら姿勢を探っていた。
エルレイドも構え直し、ジニア先生が眼鏡へ触れる。
「続けられそうですねえ。では、“エアスラッシュ”!」
「横へ!」
エンニュートが地面を蹴る。頭と胴は空気の刃から外れたが、長く伸びた尾の先が遅れて残り、そこを打たれて腰が流れた。着地した足で曲がろうとすると、尾が大きく振られ、さらに一歩余計に踏む。
ヤトウモリのときと同じ曲がり方じゃ、後ろが残る。
「無理に向き変えなくていい! そのまま首だけ向けて、“かえんほうしゃ”!」
エンニュートが身体を立て直しきらないまま首を捻り、炎を吐いた。エルレイドが両腕を上げて足を止め、その間に尾を横へ逃がして姿勢を戻す。
炎の端からエルレイドが抜けた。エンニュートが首で追い、その身体へ向き直ろうと腰を捻る。大きく振れた尾が地面すれすれを通ったところで、先端から炎が走った。
火をまとった尾がしなり、踏み込んできたエルレイドの腕を横から打つ。
エルレイドが二歩下がった。
俺も、エンニュートも動かなかった。
エンニュートは自分の尾を一度見てから、もう一度エルレイドへ向ける。尾の先にはまだ小さな火が残っていた。
「今のやつ、もう一回いけるか?」
返事の代わりに尾が持ち上がった。
「大きく振らなくていい。足元!」
エンニュートが腰を落とし、炎を帯びた尾を低く走らせた。エルレイドは踏み込む足を止めて引き、その瞬間だけ正面が空く。
「“かえんほうしゃ”!」
首を起こしたエンニュートの炎が胴へ届いた。エルレイドは腕を交差させながら後ろへ押され、コートへ足跡を残す。
「エルレイド、“はどうだん”!」
青い球が炎の中を押し返してきた。エンニュートが吐き続ける火と正面からぶつかり、光が膨らむ。
「止めろ、横!」
炎を切ったエンニュートが身体を倒し、青い球が肩のそばを抜ける。長い尾が遅れて動いたところへ、エルレイドが駆け込んでいた。
「“サイコカッター”!」
腕から伸びた光を見て、エンニュートが上体を反らす。刃が喉元をかすめた。
まだ近い。
「尾!」
地面へ残っていた尾が火をまとい、エルレイドの足元を横切った。片足を上げてかわしたエルレイドの身体が傾く。
「“どくどくのキバ”!」
エンニュートが踏み込み、開いた牙が肩口を捉える。エルレイドが腕を振り上げたところで口を離し、その勢いのまま横へ抜ける。今度は身体を全部回さず、尾を後ろへ流したまま距離を取った。
エルレイドが追う。
「“リーフブレード”!」
緑色の刃が伸びる。エンニュートが腰を落とし、腕を振り下ろす軌道から頭を外した。刃が肩を掠める。
「今度は下から!」
炎を帯びた尾が地面を掃き、エルレイドの前脚を打った。踏ん張った身体が沈んだところへエンニュートが首を上げる。
「“かえんほうしゃ”!」
至近距離から炎が広がった。エルレイドが腕を上げて受け、後ろへ跳ぶ。その着地点へエンニュートが一歩踏み込み、さっきより小さく腰を回した。
火をまとった尾が腕の外側を叩く。
エルレイドの構えが開いた。
「もう一発!」
返した尾が胴へ入り、エルレイドの足がコートを離れた。背中から地面へ落ち、起き上がろうと伸ばした腕が途中で止まる。
チリさんが横から状態を確認し、片腕を上げた。
「エルレイド、戦闘不能! この勝負、ユア選手のエンニュートや!」
「進化して、そのまま一勝もぎ取ったー! エンニュート、こいつは派手なデビューだー!」
エンニュートはしばらく倒れたエルレイドを見ていたが、俺が名前を呼ぶと振り返った。こちらへ一歩進み、長い尾までついてきたところで足を止める。
「やったな」
しゃがんで手を出すと、エンニュートは顔を近づけ、鼻先で指に触れた。すぐに身体を戻し、先生の方へ首を向ける。
ジニア先生はエルレイドをボールへ戻し、残った一個を手に取っていた。
ーー
最後に現れたのはフーディンだった。
先生がテラスタルオーブを掲げると光が集まり、フーディンの身体を結晶が包む。頭上にエスパータイプのテラジュエルが現れ、両手のスプーンがゆっくり持ち上がった。
エンニュートは進化する前から攻撃を受け続けている。俺は一度ボールへ戻し、先にキルリアを出した。
キルリアは“テレポート”で位置を変えながら“サイコショック”を当てた。フーディンの身体が傾き、もう一度横へ回ろうとしたところで、向けられたスプーンが動く。
キルリアの足が地面から離れた。
身体を捻って抜けようとしたが、そのままコートへ押し戻される。立ち上がった膝がもう一度落ち、チリさんの判定が入った。
『ごめん。もう、足が動かない』
「十分だ。戻って休め」
キルリアを戻し、次にエンニュートを出す。紫色のガスを吐きながら横へ回り、“かえんほうしゃ”でフーディンを動かしたところへ、さっき覚えたばかりの尾の炎を振るった。先端がフーディンの腕を掠めたものの、次に踏み出した身体が途中で止まる。
スプーンが傾く。
エンニュートの長い身体が横へ投げ出され、地面を滑った。両腕をついて起き上がろうとしたところへ二度目の力がかかり、尾まで土の上へ落ちる。
「エンニュート!」
頭は上がったが、後ろ脚がついてこなかった。
判定を聞き、俺はボールを向けた。赤い光へ変わる最後まで、長くなった尾がコートの上に残った。
残るのは一匹。
「頼む、クチート!」
白い光から降りたクチートが大顎を開く。
フーディンはもう肩を上下させていたが、クチートも簡単には近づけなかった。“アイアンヘッド”で踏み込めば軌道をずらされ、足を止めれば身体そのものを押し返される。それでもクチートは大顎を下げず、二度、三度と距離を詰めた。
フーディンのスプーンが上がる。クチートの足が地面を滑った。
「まだだ! “かみくだく”!」
大顎が開く。
押し戻されながらクチートが身体を捻り、横から回った牙がフーディンの肩へ届いた。スプーンがクチートへ向き、身体がわずかに浮く。
「離すな!」
大顎が閉じた。
引き剥がされかけたクチートが首を振り、フーディンの身体を地面へ引き倒す。砂が跳ね、二匹の動きが止まった。
クチートの大顎がゆっくり開く。
片手を地面につき、一度膝を落としながら立ち上がった。向かいのフーディンは倒れたまま、スプーンを持ち上げない。
チリさんが腕を上げる。
「フーディン、戦闘不能! 勝者、ユア選手!」
歓声がコートへ落ちてきた。
俺はクチートのそばまで走ってしゃがんだ。クチートは肩を上下させたままこちらを見て、大顎を一度閉じる。
ガチン。
「ありがとな。帰ろう」
立ち上がると、ベルトで二つのボールが軽くぶつかった。クチートのものと、さっきまでヤトウモリが入っていたものだった。
俺は位置を直してから、コートの向こうのジニア先生へ頭を下げた。