手持ちを診てもらって休憩室へ戻ると、入口のそばでポピーが待っていた。椅子へ座る俺についてきて、足元のクチートと顔を見合わせる。俺が見ていても、どちらもこちらを向かない。
「で、いつから内緒にしてたんだ?」
ポピーが大きな鍵の飾りを両手で握った。クチートは椅子の横へ座り、大顎を床へ下ろす。試合で汚れていた頭はきれいになっていたが、左腕にはまだ手当ての跡が残っていた。
「ユアさんが、ポピーたちと修行したときです。休憩のときに、クチートちゃんが来たんですよ」
「去年じゃん。そんな前から?」
「最初はできませんでした。でも、クチートちゃん、何回もやってたんです。ポピーがもう休みましょうって言っても、もう一回って」
ポピーは小さな手を前へ出し、肘を曲げたまま突き出した。クチートが顔を上げ、その手の動きを追う。
「ポピーの真似をして、手をこうやって動かしてたので、“メタルクロー”をやってみたいんですかって聞いたんです。そしたら、あのお口を鳴らしてくれました」
手のひらほどの距離を空けて、ポピーがもう片方の手を構える。腕を大きく振らずにそこへ当てると、クチートも手当てされた左手を持ち上げかけた。
「今日はやらなくていい。見たから、ちゃんと」
クチートは俺を見上げ、腕を下ろした。ポピーが隣へしゃがみ、触れる前に手を止める。クチートが顔を背けなかったので、その頭をそっと撫でた。
「さっき、すごかったです。ニンフィアちゃんがすぐ横まで来ても、ちゃんとできましたね」
ガチン。
床に置いていた大顎が開閉し、ポピーが声を上げて笑った。俺は背もたれへ身体を預け、天井を仰いだ。何も知らずに“アイアンヘッド”を繰り返していた自分の声まで思い出しそうになって、口を閉じる。
「教えといてくれたら、俺も使わせられたのに」
「言おうとしましたよ。でもクチートちゃん、ユアさんが戻ってくるとやめちゃうんです。ユアさんが見てないときは、ポピーに手を見せてくれるのに」
足元を見ると、クチートは大顎をこちらへ向けていた。肝心の顔は向こう側だ。
「できるようになってから見せたかったのか?」
返事はなく、大顎の先がゆっくり床へ下りた。俺が横から覗こうとすると、クチートは身体ごと向きを変える。ポピーは口元へ手を当てていたが、肩が揺れていた。
「ポピーも秘密にしました。ユアさん、びっくりしましたか?」
「そりゃしたよ。ポピーの声で、やっと誰に教わったのか知ったんだから。……ありがとな。あれ、助かった」
ポピーは手を下ろし、クチートと並んで俺を見上げた。
「はい! でも、いっぱい練習したのはクチートちゃんです!」
頷いてからクチートへ手を伸ばすと、今度は逃げなかった。頭へ触れている間に、廊下からポピーを呼ぶ声がする。返事をしたポピーは入口まで走り、振り返って大きく手を振った。
「また一緒に練習しましょうね! 今度はユアさんも!」
「そこは最初から入れといてくれ」
扉の向こうへ小さな姿が消えた。俺はクチートの頭から手を離し、椅子に掛けていた上着を取る。立ち上がるとクチートも腰を上げたので、ボールを見せたが、通路の方へ先に歩き出した。歩けるなら一緒でいいか。大顎を壁へぶつけないように扉を広く押さえ、俺も部屋を出た。
ーー
会場の裏手には、屋根の下にベンチを並べた休憩場所があった。客席へ続く道から外れている分、人も少ない。空いた席を探して奥へ目を向けると、ベンチの下から緑色の尾がのぞいていた。
近づくにつれて、リーフィアの向こうにボタンの靴が見える。その膝にはニンフィアが上半身を預け、隣のブラッキーは座面をほとんど使って横になっていた。ボタンは端へ押しやられた格好で、片手に持ったブラシをニンフィアの背へ滑らせている。
「……これ、座る場所ある?」
「隣のベンチ空いてるし。ブラッキー、そこまで詰めなくていいって」
声をかけられたブラッキーは耳を動かしただけで、鼻先をボタンの袖へ押し込んだ。ボタンも動かそうとはせず、ブラシを膝へ置いて耳の後ろを掻く。俺が隣へ腰を下ろすと、ニンフィアが頭を持ち上げた。視線が俺の足元へ移り、長い触角が一本、クチートの方へ伸びる。
クチートは鼻先を寄せてから、ベンチの脚のそばへ座った。触角はその肩へ一度触れ、ボタンの膝へ戻っていく。俺は腰のボールからキルリアを出し、空いた膝へ手を置いた。
『あ、ニンフィアもいる。もう痛くない?』
ニンフィアが短く鳴き、首を傾ける。近づいたキルリアの腕へ触角が絡み、キルリアはくすぐったそうに腕を引いた。リーフィアもベンチの下から顔を出し、二匹の間へ鼻先を入れてくる。
「そっち、ポピーと話してきた?」
「去年の修行からだってさ。クチートの方から覚えたがってたらしい」
ボタンはブラシを持ち直しかけ、手を止めた。
「去年から隠されてたんだ。よく気づかなかったね」
「俺が見てるとやめてたって。そこまでされたら気づかないだろ」
足元から大顎の閉じる音がした。ボタンがそちらへ目を落とし、口元を緩める。俺は何か言おうとしたが、膝へ飛び乗ったキルリアの重みで息が詰まった。
『ユア、手、どけて。ここに座りたい』
「もう座ってるじゃん……」
ブラッキーが顔を上げたのは、そのときだった。長い耳の向いた方を見ると、ナンジャモが柱の陰で足を止めていた。隣にはスマホロトムが浮いている。俺と目が合うと、ナンジャモは口元へ立てていた指を下ろした。
「いやー、休憩中に失礼! ちょっとこの光景、皆の者にもおすそ分けしたくなっちゃったんですが。ボタン氏、取材させてもらえたりする?」
「試合の話なら、さっきので終わり。今、この子たち休んでるから」
「もちろん無理はさせませーん! そのまま、今のままで結構! むしろそれが見たい! まだ配信はつないでないから、ご安心を」
ナンジャモがスマホロトムの画面をボタンへ見せる。ボタンはそれを確かめ、膝のニンフィアへブラシを当てた。背中を一度梳いてから、ナンジャモを見上げる。
「この子たちが嫌がったら終わりね。あと、近くで大声出さないで」
「承りましたー。ユア氏たちも映って大丈夫?」
俺が頷く横で、キルリアも両手を上げた。ナンジャモがロトムへ合図をし、カメラへ向き直る。
「あなたの目玉を エレキネット! 何者なんじゃ? ナンジャモです! おはこんハロチャオー! 皆の者、今回は大会会場から、ちょーっと寄り道。見てください、このもふもふパラダイス!」
抑えていても、よく通る声だった。ニンフィアが耳を動かし、ブラッキーは片目だけを開ける。カメラが三匹を順に映す間、ボタンはブラシに絡んだ毛を取り、脇へ置いた袋へ入れていた。
「先ほどは熱戦を見せてくれた三匹ですが、ただいま仲よく休憩中! ボタン氏、普段もこんなふうに集まってくるの?」
「毎回じゃないけど。……ニンフィア、そっちの脚も見せて」
返事の途中でニンフィアへ手を添え、膝から降りるのを手伝う。足を引きずっていないか確かめているらしく、ボタンの視線はカメラへ戻らなかった。ニンフィアは足元で一回りし、今度は両前脚をボタンの膝へ載せる。
「うん、大丈夫そう。今日はもう走らなくていいから」
額を撫でられたニンフィアが目を閉じ、首の触角をボタンの腕へ巻いた。その横でブラッキーが起き上がり、空いた膝へ鼻先を差し込む。ボタンは両手を別々の方へ伸ばしたまま、足元のリーフィアにも声をかけた。
「リーフィアもおいで。ブラシ、次やるから」
「これは忙しい! ボクだったら、一匹ずつ撫でてる間に日が暮れちゃうねえ」
「一匹ずつじゃ待ってくれないし」
リーフィアが前脚をボタンの靴へ載せる。葉の耳を傷めないように指を沿わせる手つきを見て、ナンジャモは伸ばしかけた袖を引っ込めた。
「ボクも、ちょっとご挨拶していいかな?」
「袖、少し上げた方がいいよ。顔にかかるから」
ナンジャモは片方の袖口を持ち上げ、リーフィアの前へしゃがんだ。差し出された指の匂いを嗅いでから、リーフィアが頬を寄せる。ナンジャモの口が開いたが、声は出なかった。空いた手で俺たちを指し、次にリーフィアを指して、しきりに頷いている。
「……静かに喜ぶとそうなるんだな」
ボタンが鼻で笑った途端、スマホロトムがそちらへ向いた。
「今のは撮らなくていいし」
「いやいや、ボタン氏! 皆の者が見たいのはこういうお顔ですぞ! ほら、もうコメントが――」
声が大きくなりかけたところで、ブラッキーが耳を伏せた。ナンジャモは自分の口へ袖を押し当て、それから声を落とす。
「……失礼。では引き続き、小声でお届けしまーす」
俺の膝からキルリアが降り、浮いているスマホロトムへ顔を近づけた。ナンジャモが気づいて手を振ると、キルリアはカメラの前で片足を引く。
「おっと、キルリア氏も登場! 今日は一緒に休憩?」
『うん。踊るのは今度にするから、今日はかわいく撮ってね』
両腕を広げたキルリアの横へ、ニンフィアの顔が入った。レンズへ鼻先を寄せられたロトムが後退し、キルリアもつられて一歩進む。二匹の後ろからリーフィアまでついていき、ボタンが慌てて声をかけた。
「あんまり追わないの。ロトム、ここで止まってていいから」
呼び戻された三匹がベンチの前へ集まる。キルリアが俺を振り返ったので、手でそのまま、と合図した。ニンフィアと並んだ姿が画面へ収まり、ナンジャモはしゃがんだまま、袖の中から親指を立てていた。
ブラッキーだけはそこへ加わらず、ボタンの腿へ顎を載せ直した。撫でていた手が止まると鼻先で押し上げ、また動き始めると目を閉じる。俺の靴のそばではクチートも大顎を下ろし、壁にもたれていた。
「さてさて、このまま見ていたいところですが、そろそろみんなを休ませてあげましょうか。会場の皆の者も、水分補給を忘れずに! それじゃ、また後ほどー!」
配信が切れ、ナンジャモが画面を確かめた。ボタンはブラッキーの顎を支えて膝から降ろし、身体を起こそうとして袖を引かれる。ニンフィアの触角が、まだ腕へ巻きついていた。
「水、飲むだけ。どこも行かないから」
触角が緩んだ隙にペットボトルを取る。キャップを外したボタンへ、ナンジャモが満面の笑みで画面を差し出した。
「ボタン氏、今日のところ、短くまとめた動画も出していい? ブイズたち、ものすごい人気なんだけど!」
「この子たちのかわいいとこなら。変なタイトルはつけないでね」
ナンジャモは大きく頷いてから、画面の何かを長押しした。指を滑らせると、入力されていた文字がまとめて消える。
俺とボタンが同時にその手元を見た。
「……今、何てつけてた?」
ナンジャモは答えず、キルリアと並ぶニンフィアの画像を画面いっぱいに広げた。