寮の外にある広場のベンチで、俺はパーカーのポケットへ両手を突っ込んでいた。背もたれに頭を預けると、窓の明かりが逆さに見える。まだ起きている人はいるらしいが、外まで声は届かなかった。
あくびは出るのに、ベッドへ入ると眠れない。目を閉じている間も、明日のコートに立つアイが浮かぶ。三匹を選んで、最初の指示を考え、その次を考えているうちに寝返りを打ちたくなった。部屋を出た今も、ポケットの中でボールを握る形に指が曲がってしまう。
「キミも眠れないの?」
顔を上げると、アイがベンチの横に立っていた。制服ではなく、ジャージの上着を羽織っている。昼間は汗で頬へ張りついていた髪も乾いて、街灯の下で毛先が跳ねていた。
「早く寝ようとはしたんだけどな。横になってても、ちっとも眠くならない」
「ボクも。頑張って寝ようとしたら、余計に目が覚めちゃった」
アイは俺の隣へ座り、両手を膝の間へ差し込んだ。少しだけ前に出した靴の先を見てから、背もたれへ身体を預ける。俺も同じ方を向くと、広場を横切った風で植え込みの葉が擦れた。
「晩ご飯、ちゃんと食べた?」
「食べたよ。おかわりもした」
「そっか。あんまり喋らなかったから、疲れてるのかなって思ってた。ボクが食べ終わる前に帰っちゃったし」
「眠くなってたんだよ、あの時は。部屋に戻って風呂入ったら、どっか行った」
アイが口元を緩め、膝の間から手を抜いた。
「順番、逆にすればよかったね」
「風呂入ったあと飯食って、そこで寝るのか?」
「部屋までは起きててよ。ボク、キミを運ぶの嫌だよ」
言われて、椅子に座ったまま食器の前で寝ている自分を考えた。起こされるだけならまだいいが、誰かに写真を撮られたら嫌だ。背もたれから身体を起こして目を擦ると、アイも隣であくびを噛み殺していた。
「キミのところは、みんな寝た?」
「うん。キルリアにも、早く寝ようって言われた。俺だけ外に出てきちゃったけど」
「戻ったら怒られそう」
「寝てりゃ気づかないだろ。……起きて待ってたりしたら、先に謝る」
アイが笑い、その拍子に上着の襟で口元を隠した。俺も声を落としたが、話が途切れると寮の扉が閉まる音まで聞こえた。振り返るほどのことでもなく、二人でしばらく窓を眺めた。
アイがベンチの縁に手をつき、立ち上がる。
「少し散歩しよっか。座ってても、また明日のこと考えちゃうし」
「そうだな。あんまり遠くまでは行かないぞ」
ポケットから手を出して立つと、アイは俺の隣へ来た。どちらが先に行くとも決めないまま、広場を抜ける道へ足を向けた。
ーー
テーブルシティの通りには、まだ明かりのついた店があった。片づけをしている店先から食器の触れ合う音が聞こえ、外に出してあった椅子が一つずつ中へ運ばれていく。俺たちは作業の邪魔にならないように道の反対側へ寄り、並んで歩いた。
「あそこ、まだ開いてる」
アイが顎で示した先では、店員が入口の看板を裏返したところだった。俺がそちらへ目を向けると、アイは肩を落として歩き続ける。
「食ったって言ってなかったか?」
「食べたよ。見ただけ」
「じゃあ、なんで残念そうなんだよ」
「おいしそうだったから。キミだって、屋台の前を通るたび見てたでしょ」
俺も閉まった店の窓へ目をやった。料理の写真が並んでいる。さっきまで何も食べるつもりはなかったのに、焼き色のついたパンを見たら、腹が空いたような具合になった。
「明日、終わってからにしようぜ。今食ったら、また風呂の順番を間違えたみたいになる」
「夜中におかわりするほどは食べないよ。……明日なら、ハイダイさんの屋台にも行きたいな。結局、食べてないものがまだあるんだ」
アイが指を折っていくので、その手を覗いた。二つで止まるかと思ったら三つ目まで曲がった。
「そんなに?」
「キミと半分ずつなら食べられるよ」
「俺の腹まで使うなよ。俺にも食べたいものあるし」
「じゃあ、それも半分」
アイはそう決めて手を下ろし、段差を一つ降りた。文句を言おうとしたが、二種類頼んで分けるなら、どちらか選ばずに済む。隣へ追いついて頷くと、アイは店の並びへ目を向けたまま笑った。
通りの向こうから人が来て、俺たちは少し間を詰めた。すれ違った人の話し声にナンジャモさんの名前が混じっていたので、思わず顔を向ける。二人連れはスマホの画面を見せ合いながら角を曲がっていった。
「ナンジャモさん、明日もあの調子かな」
「あの人が静かに実況してる方が変だろ」
「試合の時はいいんだけど、終わったあとに捕まると長いんだよ。何か言うまでカメラが離れないし」
アイが両手で四角を作って俺へ向けた。俺はその中へ手を突っ込み、片方の指を下ろさせる。
「キルリアなら喜んで出るぞ。俺に話を聞いてる途中でも入ってくるからな」
「じゃあ、明日はキルリアに任せてご飯食べに行こうか」
「置いていけるかよ。あとで俺が怒られるだろ」
アイは指の四角を崩して、声を立てずに笑った。俺もカメラの前から離れようとしないキルリアを連れていくところを考え、口を押さえる。ご飯だと言えば来るだろうが、その前にもう一回踊るくらいはしそうだった。
大きな通りへ出ると、建物の間に月が見えた。街灯から離れた道でも、白い壁と石畳の境目はよく見える。アイが上着のポケットへ片手を入れ、俺の歩幅に合わせて少しゆっくり歩いた。
「シャークには、あのあと会ったのか?」
「会ってない。もう、その話は終わり。せっかく静かなんだから」
「昼間は、明日の相手が俺で助かるって言ってたのにな」
「撤回しようかな。キミ、そうやってしつこい時あるし」
アイがこちらを睨んだので、俺は口を閉じて前を向いた。数歩進むと、隣から肘で小さく押される。
「そこまで黙らなくてもいいよ」
「喋るなって言ったの、そっちだろ」
「その話は、って言ったの」
もう一度肘が当たり、俺も押し返した。歩きにくくなって二人で離れると、靴の音が少しだけずれた。アイは上着の袖を引っ張り、今度は何も言わずに隣へ戻ってくる。
坂を下りながら、道沿いの店を眺めた。昼間は人に隠れて見えない飾りや、窓の奥に並んだ品物が見える。アイが立ち止まるので俺も足を止めると、ガラスに映った自分の髪を指で押さえていた。
「後ろ、跳ねてる?」
「ちょっとな。寝てた時についたんじゃないか」
「寝られてないのに、髪だけはこうなるんだね」
指で撫でても毛先が戻る。俺は手を伸ばして一度押さえたが、離すと同じだった。アイが窓越しに俺を見たので、首を振って手を下ろす。
「無理。水でもつけないと」
「もういいや。明日の朝に直す」
窓から離れたアイについて歩き出す。人通りが途切れ、俺たちの足音だけが続くようになった頃、アイが道の先を見たまま口を開いた。
「……明日、だね」
歩く速さは変わらなかった。それでも俺は店先から目を離し、アイの横顔へ向けた。
「ずっと待ってた。キミがボクのところまで来るのを」
アイの手がポケットから出て、歩くのに合わせて揺れる。俺は少し上がりかけた顎を引き、隣を歩いた。
「まだ一回も勝ててないもんな、俺」
「だから、明日は負けてもいいと思ってる?」
「思ってない。ここまで来て、また負けて帰るのは嫌だ」
そう答えると、アイがこちらを見た。唇の端が上がったが、からかうような声にはならなかった。
「うん。ボクもそう。キミの相手をしてあげる、なんてつもりじゃないよ」
アイが道の端へ寄ったので、その横へ並ぶ。家の窓から明かりが細く漏れ、俺たちの靴を横切った。
「知ってることを教えたり、一緒に練習したりしてきたけど、でも今は、キミのライバルで、親友。キミが勝って喜ぶところは見たいけど、明日だけは駄目」
「俺が喜ぶの、そんなに嫌かよ」
「ボクに勝って喜ぶのは嫌だよ。だから負けない。……ボクは、キミを超える」
俺は足を止めた。二歩進んだアイが振り返り、俺の顔を見る。何か言おうとしているのではなく、俺が話すのを待っていた。
「超えるって、今までずっと勝ってるのに?」
「キミには才能がある。ボクが考えてなかったことを、バトルの途中でやってくる。見てて、そんな使い方するんだって思うこともあるよ」
アイの視線が一度足元へ落ち、また俺へ戻った。
「でも、その才能を、ボクの努力が超える。明日は、それを見てて」
風が通りを抜け、アイの短い髪を揺らした。さっき直らなかった毛先まで動いている。俺は口を開きかけてから閉じ、ポケットに入れそうになった手を下ろした。
「俺だって、考えたり練習したりしてるぞ。急に思いついたら、何でもできるわけじゃない」
「うん。知ってる。だからボクも、今までどおりやれば勝てるなんて思ってないよ」
アイは言い終えると、片足を後ろへ引いて俺に道を空けた。俺も歩き出し、並ぶところで顔を向ける。
「じゃあ、明日はその練習した分も全部出せよ。俺も、こいつらとやってきたこと全部使うから」
「うん。楽しみにしてる」
アイは前へ向き直った。俺も隣で歩きながら、足元の石畳を見た。部屋で何度も考えた最初の指示が浮かびかけたが、今は続きを追わずに顔を上げる。明日になれば、アイは俺の向かいに立っている。
今は、すぐ隣にいた。
通りを抜けるにつれ、水の音が近づいてきた。街の南側の噴水だ。月明かりの中で水の筋が白く見え、落ちた先には細かな波が広がっている。アイがそちらへ足を向けたので、俺もついていった。
「ここまでにしよっか。戻らないと、散歩してたせいで寝不足になっちゃう」
「言い出した時は、もっと近くで帰るつもりだったんだけどな」
噴水の縁に手を置くと、石が冷たかった。腰は下ろさず、そのまま水を眺める。アイも隣に立ち、水面に映る光へ顔を向けた。
「少しは眠くなった?」
「さっきよりは。部屋に戻って寝られるかは、まだ怪しいけど」
「ボクもかな」
水の跳ねた音に混じって、アイが息を吐いた。俺が振り向くと、アイは噴水の縁から手を離し、こちらへ身体を向ける。
「ユア」
呼ばれて顔を上げたところで、アイが身を寄せた。頬に唇が触れ、俺が顔を引く頃には、もう離れていた。
俺は頬へ手を当てた。アイは目を合わせたまま立っていたが、俺が口を開いても声を出せずにいると、視線を少し横へずらす。
「……今、何した」
「キス」
「それは、知ってる」
そこまで言って、続きが出なくなった。なんで、と聞けばいいはずなのに、アイの顔を見ると聞きにくい。アイも何も足さず、上着の袖口を指でつまんでいた。
噴水の音が大きく聞こえる。俺が頬から手を下ろすと、アイはその手を取った。
「帰ろっか」
引かれて一歩踏み出し、噴水から離れた。アイは前を向いている。俺はつながれた手を見下ろし、握られた指を少し動かした。振りほどくつもりはなかったが、そのままにしておくと歩きにくくて、握り直して隣へ並んだ。
ーー
帰りの坂は、下ってきた時より長く感じた。道を間違えてはいないのに、見覚えのある看板がまだ遠い。俺がそちらを見ていると、アイが空いた手で口を覆った。
「……今になって眠くなってきた」
「ちょうどいいじゃん。あとは戻って寝るだけだし」
「階段がなければね」
先に見える段へ、二人で目を向けた。俺は数えかけてやめ、つないだ手を少し引いた。アイが一段上がり、今度はそちらに合わせて俺も上がる。
「ほら。ここで止まってたら、いつまで経っても帰れないぞ」
「キミ、さっきは運ばれる心配してたのに」
「してたのはアイだろ。俺はちゃんと歩いてる」
アイが笑い、手をつないだまま俺の横へ戻った。さっきの噴水の話にはならない。俺も切り出せないまま、次の段へ足をかけた。
上まで登って息をつくと、冷えた風が頬へ当たった。俺が片手で前髪を押さえている間、アイは通りの店を見下ろしていた。
「さっきのお店も、もう真っ暗だ」
「今から入ろうって言っても無理だからな」
「言わないよ。今は食べるより寝たい。……朝、お腹空いて起きそうだけど」
アイが腹の辺りへ手をやるので、俺もつられて自分の腹を見た。夕飯はちゃんと食った。それでも明日の朝は、おかわりするだろうなと思った。
「朝飯、一緒に行くか」
「うん。寝坊しないでね。キミの分まで待ってたら、ボクも遅れるから」
「起こしてくれりゃいいだろ」
「ボクが寝坊したら?」
「俺が起こす。二人とも寝てたら、キルリアに怒られる」
アイが俯いて笑った。つないだ手まで揺れたので、俺はそちらを見てから顔を上げた。
「たぶん本当に怒るぞ。試合に行かないってなったら」
「明日は起きるよ。ちゃんと寝られたら、だけど」
寮へ続く道が見えてくる。行きにはついていた窓の明かりがいくつか消え、ベンチの周りにも人はいなかった。俺たちは声を落とし、広場を横切った。腰を下ろしていた場所を通り過ぎる時、アイが俺の手を軽く引く。
「もう座らないでよ。そのまま寝ちゃいそう」
「座らねえよ。ここまで来たんだから、ベッドで寝る」
入口まで来て、ようやく手が離れた。ポケットへ戻そうとして、指を一度曲げ伸ばしする。アイは扉へ手をかけ、俺の方を振り返った。
「おやすみ、ユア。……負けないから」
「俺のセリフな」
「早い者勝ちっ」
アイは笑って扉を押し、俺が入るまで手を添えて待っていた。