1話
パルデアに来てから、早くも二年が経った。
シロナとは今も定期的に連絡を取っている。俺が学園やポケモンたちの話をすると、シロナもシンオウであったことを教えてくれた。ギンガ団の名前を聞く機会は、各地で増えているらしい。元々、慈善団体を名乗って活動している連中だ。今のところシロナが確かめられたのも、人を助けるための活動ばかりで、大きな事件や、明らかにおかしいといえる動きは見つかっていないという。
だからといって、俺まで安心はできなかった。ズイ遺跡で会ったアカギの顔も、手も足も出なかった勝負も忘れていない。ただ、今あいつらが何をしているのか、俺がパルデアから決めつけたところで答えは出ない。シロナは引き続き調べると言っていたし、俺が急いでシンオウへ戻るような話もなかった。
そんなまま、パルデアで三度目の春を迎えた。
新しく入ってきた生徒が、教室の場所を確かめながら廊下を歩いている。曲がり角で案内板を見上げていた二人を避け、俺は階段へ向かった。隣を歩くアイも歩幅を緩め、二人が通り過ぎてから俺の顔を覗く。
「校長先生に呼ばれるようなこと、何かした? ボクは何もしてないんだけど」
「俺もだよ。お前と一緒に呼ばれたって聞いたから、何の話か知ってると思ってた」
「じゃあ、行ってからのお楽しみだね」
アイは階段の手すりから手を離し、先を歩いた。二人とも校長室へ来るようにと伝えられただけで、用件は聞いていない。授業中に寝ていたわけでもないし、呼び出されたあとも考えてみたが、思い当たることはなかった。
扉を叩くと、クラベル先生の声が返ってきた。中へ入った俺は、挨拶をしかけて足を緩めた。先生のほかに、知らない女の人が立っている。短い金色の髪が頬の横で跳ね、耳には緑色の大きな飾りが下がっていた。紫の上着に赤いズボンという格好で、俺たちを見ると手にしていた資料を閉じる。
「来てくれましたね。どうぞ、お二人ともこちらへ」
クラベル先生に勧められ、俺とアイは並んでソファへ座った。テーブルには、山と田んぼの写真が印刷された冊子が置いてある。表紙の『林間学校』という文字を読んでいると、向かいの女性が身を乗り出した。
「君がユアくん、隣がアイくんだね。私はブライア。ブルーベリー学園で教師をしているんだ。今日は二人に、林間学校のお誘いに来たのさ」
「林間学校……って、この山に行くんですか?」
アイが表紙へ目を向けた。ブライア先生は頷き、冊子を俺たちの方へ滑らせる。
「キタカミの里という場所だよ。山の麓に村があって、田畑や果樹園が広がっている。二人は行ったことがあるかな?」
「俺はない。名前も、今初めて聞いた」
「ボクも行ったことはないです。パルデアの外なんですね」
俺が冊子を開くと、アイも肩を寄せた。見開きの地図には、山を囲むように道が描かれている。小さな家が集まっている場所からも何本か道が伸び、途中には川や池があった。地図の隣の写真には、テーブルシティで見るものとは形の違う屋根が並んでいた。
「今回は、ブルーベリー学園と本校の交流企画です。あちらの生徒さん二名と、こちらから数名が参加して、現地で一緒に学ぶことになっています」
クラベル先生が写真のページを指した。
「土地の文化や自然、そこで暮らすポケモンについて、実際に訪ねて学んでもらいます。ぜひ、お二人にも参加していただきたいと思いまして」
「教室でずっと座っている授業とは、少し違うよ。歩いて、見つけて、自分で確かめるんだ。私も引率するから、現地で気になるものがあったら遠慮なく聞いてほしい」
ブライア先生は、俺がページの端へかけていた指を見て続きを促した。めくると、田んぼのそばや林の中で撮った写真が出てくる。草に隠れたポケモンを探して顔を近づけるうちに、アイが冊子の下側を持って、二人から見える向きへ直してくれた。
「パルデアで見ないポケモンもいるんだよな。捕まえたり、一緒に歩いたりしてもいいの?」
「もちろん、現地での決まりは守ってもらうけれどね。畑や人の家へ勝手に入るのは困るし、ポケモンを追って山で迷われても困る。活動できる範囲は、到着したら説明するよ」
「ユア、聞いた? 見つけても走っていっちゃ駄目だって」
「聞いてるよ。お前だって見たいだろ」
「うん。だから、一人で行かないで」
アイが冊子から顔を上げた。俺も頷き、ブライア先生へ向き直る。
「俺、行きたい。キタカミに」
「ボクも参加したいです。よろしくお願いします」
ブライア先生は口元を広げ、膝に置いていた資料をテーブルへ載せた。クラベル先生も頷いて、俺たちへ一枚ずつ紙を渡す。出発日と集合場所、その下に持ち物が書かれていた。
「よいお返事をいただけて何よりです。出発までは数日ありますから、忘れ物のないよう準備してください」
予定表の日付を指で追う。来週も座っていると思っていた教室の席に、俺はいないらしい。窓の外へ目を向けると、見慣れた中庭が見えた。俺は手元の冊子へ戻り、山の麓にある小さな村をもう一度見た。
「ブルーベリー学園の人たちとは、向こうで会うんですか?」
アイの言葉に、ブライア先生が頷く。
「参加する二人はキタカミの出身でね。現地で合流する予定だよ。里での暮らしについては、私より詳しいことも多いはずさ」
冊子に載っている道のことも聞けそうだった。俺は地図のページに予定表を挟み、閉じた冊子を膝へ置いた。
校長室を出ると、アイはさっそく持ち物の紙を広げた。俺も隣から覗き込み、着替えや歩きやすい靴に混じって書かれているノートの文字で指を止める。
「帰ってきたら、何を見たか書くんだって」
「林間学校だもん。……あ、ユア、写真も撮っておこうよ。帰ってから名前を調べたくなるかもしれないし」
頷いて冊子を鞄にしまう。階段を下りながら、俺は寮に置いてある荷物を頭に並べた。いつもの鞄に着替えまで入れるには、中身を一度全部出す必要がありそうだった。
ーー
数日後、バスの扉から地面へ降りると、目の前に田んぼが広がっていた。
水を張った四角い田んぼが細い畦で区切られ、並んだ苗の間に空が映っている。道の脇の水路を覗くと、水が草の根元を揺らしながら流れていた。背中でバスのエンジンが鳴っている間は聞こえなかった水音が、エンジンが止まるとはっきり聞こえた。
俺は鞄を持ち直し、道の続く方を見た。低い家の屋根がいくつも並び、その向こうには大きな山がそびえている。木の生えている斜面を目でたどっても、まだ上があった。首を上げると、岩肌の近くを薄い雲が流れていた。
「……でかいな」
「ずっと窓から見えてたもんね。村も、ほんとに麓だ」
アイが隣へ降りてきた。長く座っていたせいか、両腕を上げて背を伸ばしている。俺も肩を回すと、後ろから降りてきた生徒が同じように伸びをして、腰へ手を当てた。
風が吹き、湿った土と草の匂いがした。アカデミーの正門を出れば広い階段と石畳が続いていたが、バス停から先は、畑の間を一本の道が通っている。道沿いの電柱から家へ線が伸び、木々の向こうで低い屋根が途切れた。
「皆、忘れ物はないかな? 座席の下も確かめてから降りてきてくれたまえ」
ブライア先生がバスの入り口で声をかけた。先に降りた生徒が鞄を開け、眼鏡をかけた生徒が慌てて車内へ戻っていく。俺は自分の鞄の口を閉め、腰のボールを手で確かめた。
「さて、この先がスイリョクタウン。今回、私たちがお世話になる村だよ」
ブライア先生が、道の先にある家並みを指した。配られた地図にも同じ名前があった。俺が冊子を取り出して開いていると、先生が隣へ来て、村の中の建物へ指を置く。
「ユアくん、アイくん。私は皆の荷物を確認してから向かうので、公民館へ到着を知らせに行ってくれるかな。管理人さんが待ってくださっているはずだ」
「この道をまっすぐでいいんだよな?」
「ああ。二人とも、寄り道はあとにしてくれよ」
先生の指が離れた地図を確かめ、俺は冊子を閉じた。アイと並んで歩き出すと、靴の下で細かな砂が擦れた。日を遮る建物がなく、鞄を背負った肩が暖かい。水路のそばを通るたび、草の間から水の光が見えた。
集落へ近づくと、軒先に道具を立てかけた家や、低い塀で庭を囲んだ家が見えてきた。屋根の端が道へ張り出し、その下に植木鉢が並んでいる。庭で作業していた人が手を止めたので会釈すると、こちらの服と鞄を見てから、ゆっくり頭を下げてくれた。
「あの屋根、写真で見たやつだ」
俺が顔を向けると、アイも家並みを見た。屋根の上では灰色の瓦が重なり、軒の裏に木の筋が並んでいた。
「近くで見ると細かいね。……ユア、歩きながらだと水路に落ちるよ」
足元を見ると、靴のすぐ横を水が流れていた。道の中央へ戻ると、アイが肩を揺らす。笑うなよと言いかけた時、前方から声が飛んできた。
「ちょっと、あんたたち」
道の向こうに背の高い女の子が立っていた。黒い長髪の内側に赤い色が見え、青い服の袖から出た腕を腰へ当てている。俺たちが足を止めると、女の子は目を細め、アイの制服から俺の腰のボールへ視線を移した。
「パルデアのアカデミーから来たっていうの、あんたたち?」
「そうだけど。林間学校で来たんだ。公民館に行きたいんだけど、この先で合ってる?」
女の子は道を譲らず、俺たちの前へ歩いてきた。近づかれると見上げる高さになり、俺は鞄の肩紐へかけていた手を下ろした。
「残念。よそ者は村に入れてあげない」
「……は? 俺たち、学校から来たんだぞ。クラベル先生とブライア先生から、話は通ってるはずだけど」
「林間学校のことくらい知ってるわよ。だからって、好き勝手に歩き回っていいわけじゃないでしょ」
「歩き回ってないだろ。到着したって伝えに行くだけだって」
俺は村の方へ目を向けたが、女の子が半歩ずれて視界に入ってきた。アイも俺の横で足を止めたまま、バス停へ続く道を一度振り返る。
「あたしはゼイユ。ここの生まれで、ブルーベリー学園の生徒。あんたたちのことはブライア先生から聞いてる」
だったら一緒に林間学校へ参加する相手じゃないか。俺は開きかけた冊子を鞄へ戻し、ゼイユへ顔を上げた。
「俺はユア。こっちはアイ。先生は荷物を確認してるから、あとで来る。用事を済ませたいんだけど、通してくれないか」
「嫌よ。来て早々、人の家をじろじろ見て。珍しければ何でも見ていいと思ってない?」
ゼイユの視線が、さっき見ていた家の屋根へ動いた。俺も屋根を見上げてから、ゼイユへ戻す。
「屋根を見てただけだろ。敷地に入ったわけでも、何か触ったわけでもない」
「ここは人が暮らしてる村なの。よそから来た人に、遊び場みたいに扱われたくないわけ」
「そんなつもりで来てねえよ。何もしてないうちから追い返すなって」
声が大きくなって、俺は一度息を吐いた。ゼイユは腕を組み、片足へ重心を移した。謝って引き返す様子も、道を空ける様子もない。アイが俺の袖へ軽く触れたので顔を向けると、少し声を落として言った。
「公民館へ行くんでしょ。先生もあとから来るし」
「分かってる。でも通してくれないんだよ」
「聞こえてるんだけど」
ゼイユが腕を解いた。腰へ伸びた手に、モンスターボールが握られる。
「そこまで入りたいなら、あたしとポケモン勝負しなさいよ。勝てたら通してあげる」
俺はボールを見て、ゼイユの顔へ目を戻した。
「勝負したら、ちゃんと案内してくれるんだな?」
「勝てたら、って言ったでしょ! もう勝つつもりで話さないでくれる?」
「やるからには勝つつもりだけど。……いいよ、受ける」
アイが短く息を漏らし、俺の鞄へ手を伸ばした。
「はい、預かる。道の真ん中は空けてね」
「あたしが決めるから! こっちなら邪魔にならないでしょ」
ゼイユが家の塀から離れ、道脇の開けた場所へ歩いていった。踏み固められた土が広がり、田んぼとの間には低い柵がある。俺は鞄をアイへ渡し、ゼイユの向かいへ回った。
アイが道の端へ下がる。その向こう、ゼイユが立っていた辺りに、小柄な人影が見えた。俺が顔を向けると、長い前髪の下からこちらを見ていた顔が半分隠れた。
「よそ見してる場合? あたしはいつでもいいけど」
ゼイユへ向き直ると、持ち上げたボールを指で挟むように握り直していた。俺は両足の下の土を踏み、腰からボールを一つ外した。