障子の向こうが白く明るんでいた。布団から片腕を出すと、袖口に朝の冷たい空気が入ってくる。廊下を歩く足音に続いて、戸を引く音がした。
身体を起こすと、隣で寝ていた生徒が布団を畳んでいた。俺も枕を脇へ置いて立ち上がる。寮ならベッドから足を下ろすだけなのに、今朝は掛け布団の端を踏みかけた。足を抜き、敷布団と合わせて畳むと、広くなった畳の上へ朝日が伸びた。
顔を洗って食事の部屋へ行くと、いくつかの席にはもう生徒が座っていた。低い机に並んだ茶碗から湯気が上がっている。アイが箸を持った手を止め、空いている隣を示した。
「おはよう。よく寝てたね。廊下を通った時、まだ静かだったから」
「おはよ。布団、思ったより寝やすかった」
座布団へ座り、味噌汁の椀を持ち上げる。窓の外では、籠を抱えた人が集会所の前を通っていった。挨拶をする声に、入口の方から返事が重なる。学園の寮で聞く朝の足音とは違って、一人が通り過ぎるとまた外の鳥ポケモンの声が聞こえた。
アイは最後の一口を食べてから、箸を置いた。
「今日は歩くんだって。飲み物、持っていった方がよさそうだよ」
「分かった。昨日みたいに、入口で足止めされなきゃいいけどな」
「ゼイユも一緒に参加するんだから、今日は入れてくれるでしょ」
アイが笑いながら自分の食器をまとめる。俺は残っていたご飯へ箸を伸ばした。
朝食を終えて集会所の前へ出ると、ブライア先生が紙の地図を広げていた。ゼイユとスグリも来ている。家から歩いてきたらしい二人は、昨日と同じ服に小さな荷物を持っていた。スグリへ手を上げると、顔を上げて頷いた。
「みんな、揃ったかな。今日は二人一組で、キタカミの歴史や伝説を調べてもらうよ」
ブライア先生が地図をこちらへ向けた。山や川の描かれた紙に、丸い印が三つついている。近くにいた生徒が背伸びをしたので、俺は半歩横へずれて地図を見た。
「この三か所に、昔話の書かれた看板がある。ペアで訪ねて、どんな話が伝わっているのか読んできてほしいんだ」
先生が地図の端を押さえながら、もう片方の手でスマホロトムを示す。
「到着したら、看板と二人が写る写真を撮ること。三か所とも回ったら集会所へ戻って、私に見せてくれるかな」
何人かがポケットからスマホロトムを取り出した。俺も充電の残りを確認してしまう。看板を探して、読んで、写真を撮る。山道はあるようだけど、昨日よりは平和に歩けそうだ。
配られた地図を受け取ると、ブライア先生は手元の名簿へ目を落とした。
「それではペアを発表しよう。ユアくんはスグリくんと。アイくんはゼイユくんと組んでくれたまえ」
スグリが俺を見た。鞄の紐を握り直しているので、俺から隣へ寄った。
「よろしく。道、頼ってもいいか?」
「うん。看板の場所なら分かる。……よろしく」
地図を持つ俺の手へスグリの視線が落ちた。折り目を開いて二人の間へ広げると、スグリが神社についた印を指した。
「最初はキタカミ神社がいいと思う。この道を通っていけば着くから」
隣ではゼイユが腕を組み、アイを頭から足元まで見ていた。
「あたしと組むの? 別にいいけど、勝手にどっか行かないでよ」
「うん、よろしく。ボクもまだ道は分からないし、案内してもらえると助かるよ」
アイが自分の地図を畳んでも、ゼイユはしばらく腕を組んだままだった。ブライア先生が残りのペアを読み上げ、全員に道から外れないよう声をかけると、ようやく荷物を肩へ掛け直した。
俺たちは集会所の前を離れ、四人で村の道へ出た。昨日はバトルをしていてゆっくり見なかった家並みが、道の両側へ続いている。軒下には鉢や農具が寄せてあり、開いた戸の中から誰かがゼイユたちへ声をかけた。スグリが会釈する横で、ゼイユは歩きながら片手を上げた。
家の間を抜けると道が分かれていた。ゼイユが左の道を指し、アイが地図と見比べる。スグリは俺の少し前で足を止めた。
「おれたちは神社から行く」
「じゃ、あとでね。スグ、変なところに寄り道しないでよ」
「看板見に行くだけだって」
ゼイユが左へ歩き出すと、アイも手を振って後に続いた。
「ユア、またあとで」
「おう」
俺は地図を鞄へしまい、スグリともう一本の道を進んだ。
家が途切れ、田畑の間へ出た。道の脇には細い水路があり、水草の先が流れに沿って揺れている。スグリは水路に渡された板を避け、踏み固められた道を歩いていた。俺も並ぼうとしたが、道幅が狭いので少し後ろをついていく。
しばらくは靴底が土を踏む音と、水の音だけが続いた。畑の端で作業をしている人へスグリが挨拶したので、俺も頭を下げる。道が広くなったところで、スグリが歩く速さを緩めた。
「……ニャオハ、脚は大丈夫だった?」
俺の腰につけたボールを見てから、スグリが顔を上げる。
「昨日、ちょっと噛まれてたべ。最後は普通に走ってたけど」
「ああ、診てもらった。今朝も飯の前から出たがってたし、もう平気」
ボールへ軽く指を添えて答えると、スグリは頷いた。水路の曲がり角を通り過ぎ、俺も横へ並ぶ。
「姉ちゃん、あんなふうに二匹とも負けるの、あんまり見たことねぇ。ポチエナが追いつけなくなった時、びっくりした」
「でも、追うのをやめて待たれた時は一発もらったぞ。速く走らせてりゃいいってわけじゃなかった」
スグリは口を開きかけてから、足元の小石を避けた。
「ユア、学校でもよくバトルしてるんだな」
「学校でもするし、ジムリーダーに相手してもらうこともある。パルデアに来てから、強いやつとは結構戦ったな。アイにもなかなか勝てねぇし」
「アイも?」
スグリが来た道へ顔を向けた。もう二人の姿は見えない。
「ああ。俺が旅を始めた時から強いよ」
「……姉ちゃん、知ってんのかな」
「昨日は俺しか戦ってないからな」
俺が答えると、スグリは顔を戻し、口元を僅かに緩めた。ゼイユたちの向かった道をもう一度見ることはなく、山の裾へ続く坂へ足を向ける。
「神社、あの木の奥。ここからちょっと上る」
坂の先に、木々の間を上がる石段が見えた。田畑を渡ってきた風が背中へ当たり、木陰へ入ると首筋が冷える。段の端には苔がついていたので、乾いた中央を選んで上った。
スグリは二段ほど上で立ち止まり、石段を下りてくる人へ道を譲った。俺も脇へ寄る。挨拶を交わしてから上り直すと、頭上に鳥居の横木が見えてきた。
「ここ、お祭りの時は人が増えるんだ。石段も、今みたいには歩けねぇよ」
「こんなに段があるのに?」
「途中で止まって話す人もいるし。おれ、子どもの頃は前が見えなくて、姉ちゃんについていってた」
スグリが石段の上を指す。木々の向こうに建物の屋根が見え、上り切るにつれて、軒下や開けた境内が見えてきた。最後の段を越えて振り返ると、さっき歩いていた田畑が木の間から覗いた。
俺は鞄の紐を掛け直し、スグリの隣へ戻った。境内の端に、小さな屋根のついた看板が立っている。スグリが近づいたので、俺も地図を開きながら後を追った。
「この看板で合ってる?」
「うん。神社の昔話の看板は、これ」
地図の印を確かめてから、スマホロトムを出した。カメラを起動して看板へ向けかけ、二人も写すように言われたことを思い出す。
「ロトム、俺たちと看板を一緒に撮ってくれ」
手から離れたスマホロトムが、少し離れた高さで止まった。俺は看板の横へ立ち、スグリへ手を振る。スグリは反対の端へ立とうとしたが、画面を見て足を止めた。
「おれ、端が切れてる」
「もうちょい俺の方へ。看板の前に立たなきゃ入るだろ」
スグリが二歩寄った。俺も肩をずらして文字に重ならない位置を空ける。レンズへ顔を向けると、短い電子音が鳴った。
戻ってきたスマホロトムの画面には、看板を挟んだ俺たちが写っていた。スグリは少し肩を上げたままだが、顔も看板も欠けていない。画面を見せるとスグリも頷いたので、写真を保存してポケットへしまった。
看板の前へ戻り、上から文字を追う。
《キタカミに伝わる鬼の昔話
昔、この里の裏山には恐ろしい鬼が住み、山へ入る人々を驚かせていたといわれています。
ある日、怒った鬼が里へ下りてきました。村人たちが恐れる中、イイネイヌ、マシマシラ、キチキギスの三匹が立ち向かい、命を落としながらも鬼を山へ退けたと伝えられています。
人々は里を守った三匹を「ともっこ」と呼び、大切に葬りました。三匹を祀る像は、今もともっこプラザに残されています。》
知らない名前が三つ並んでいた。文字の脇に描かれた三匹を順番に見てから、最後の行まで読み直す。
「ともっこプラザって、地図にあったな。次に行く場所か」
「うん。村の人は、ともっこさまって呼んでる。小さい頃からみんな、この話を聞くんだ」
スグリは看板の前へ寄ったが、文字を目で追う様子はなかった。俺が読み終わるまで黙って待ち、やがて鬼の描かれた方へ顔を向ける。
「でも、おれは鬼さまの方が好きだな」
「鬼さま?」
「うん。おれは、そう呼んでる」
スグリは看板を見たまま答えた。俺も絵へ目を戻す。三匹と向き合う鬼は、棒のようなものを持っていた。
「……おれ、鬼さまが悪いやつだったとは思ってねぇんだ」
さっきより少し低い声だった。スグリがこちらを向いたので、俺は看板から顔を離した。
「なんでそう思うんだ?」
スグリは鞄の紐へ手を添えた。指を滑らせながら一度看板を見て、また俺へ目を戻す。
「理由はあるんだけど……今、うまく言えねぇ。ほかの看板も読んでからでいい? この話だけだと、ちょっと説明しにくい」
「ああ。じゃあ、また聞かせてくれ」
俺が答えると、スグリは紐から手を離した。
「……うん。あと二つあるし、歩きながらでも話せるから」
看板へもう一度目を向けた。村を守った三匹の話と、スグリが口にした鬼さまという呼び方。聞いたばかりの俺には、まだどんな鬼なのかも分からない。スマホロトムを出し、看板の文章だけも写真に残しておいた。
撮った写真を開くと、細かな文字まで読めた。最初の二人で写った写真も確認し、地図の神社についた印を指で押さえる。
「これで一つ。次は、ともっこプラザだな」
「石段を下りて、村の方へ戻る。途中から道を曲がるんだ」
スグリが鞄から飲み物を出したので、俺も境内の端へ寄って水を飲んだ。石段を上った分、喉が渇いていた。蓋を閉めていると、スグリが俺の靴へ目を落とす。
「足、疲れてねぇ? 帰りも全部歩くことになるけど」
「このくらいなら平気。腹は減るかもな」
「朝ご飯、食べたばっかりだべ」
「食べたけど、歩いてりゃ減るだろ」
スグリが小さく笑い、飲み物を鞄へ戻した。
「ともっこプラザまでは、そんなにかからねぇよ。昼ご飯の前には着く」
「じゃ、案内頼む」
鳥居をくぐると、石段には木漏れ日が細かく落ちていた。スグリが最初の段を下り、俺も隣へ続く。下から上ってくる人に気づいて一列になると、スグリは半歩前を歩きながら、木の間に見える道を指した。
「下りたら、あの水路に沿って行くんだ」
俺は指の先を追って頷き、石段へ目を戻した。スグリの靴が乾いた段を踏む音に、俺の足音が重なった。