クチートの後を追いながら、俺たちは坑道のさらに奥へ進んでいた。道は進むほど狭くなり、足場も悪くなっていく。人が通るために整えられた場所ではなく、大きな岩を跨いだり、湿った壁へ手を添えたりしなければ進めない場所も多かった。照明はとっくになくなり、岩肌を伝う水滴の音と、靴底が石を踏む音だけが暗い道へ残っている。クチートは振り返らず、一定の速さで前を歩き続け、その小さな背中を見失わないよう、俺たちも黙って後を追った。
職人の男は、昨日までとは別人みたいに静かだった。何か言いかけては口を閉じ、足元の岩や頭上の亀裂、少し先を歩くクチートへ目を向けている。ラルトスも俺の隣で周囲を見回していたが、やがて一度だけ目を閉じ、小さく息を吸ってから、
『……奥』
と呟いた。
「うん」
短く返すと、ラルトスはそれ以上何も言わず、俺も前へ目を戻した。クチートが何を見せようとしているのかは分からないが、ここまで連れて来た以上、昨日までのように追い返すつもりはないのだと思う。足元の岩を踏むたび靴の裏へ硬い感触が返り、坑道は細く曲がるたびに、外の気配を少しずつ遠ざけていった。
どれくらい歩いただろう。時間の感覚が曖昧になり始めた頃、岩の間を縫うように続いていた道がふっと途切れ、目の前の空間が大きく開けた。
広い空洞だった。天井は思っていたより高く、壁のあちこちから細い水が垂れている。最初に目へ入ったのは、岩陰へ寄せられた草や布切れ、柔らかそうな葉のかたまりだった。ひとつだけではなく、奥にも壁際にも大小いくつもあり、その近くには食べ終えた木の実の殻がまとめて置かれている。乾いた泥の上には小さな足跡が幾重にも重なり、岩肌には、何度も体を擦り寄せたような跡が残っていた。
何度も眠り、何度も起き、同じ道を何度も行き来した痕跡が、空洞のあちこちへ染みついていた。
染み付いていた、というのは揶揄ではなく、目の前の現実がそれを過去として認識してしまったからだ。目の前のその景色は壊れていた。葉を集めた場所は押し潰され、木の実の殻は崩れた岩に混じって散らばり、壁には長い亀裂が走っている。天井近くから落ちてきたらしい大きな石が、空洞の中央を塞ぐように転がり、その周りでは草も泥も一緒に抉れていた。
足元へ落ちていた葉を踏むと、乾いた音が鳴った。その音へ反応したのか、空洞の奥にいた数匹のポケモンが、小さな体を寄せ合いながら岩陰からこちらを覗く。近づいてはこないが、こちらへ歩み寄ることもなく、俺が一歩進むと、そのうちの一匹が岩の影へ体を隠した。
クチートは空洞の中央まで歩いていくと、潰れた寝床の前で足を止めた。座るわけでも、こちらを振り返るわけでもなく、ただそこに立っている。その背中を見ているうち、さっきまで何を言おうか考えていたはずなのに、言葉がどこかへ消えていた。
職人の男が、ゆっくり壁へ近づいた。亀裂へ指先を当て、その形を確かめるように岩肌をなぞりながら、視線を天井へ移し、崩れた岩へ落とし、もう一度壁へ戻す。削られた跡を探しているのか、角度を変えながら何度も見ていたが、やがて、その手が止まった。
「……これ、掘った跡じゃねぇ」
「え?」
「直接削った傷じゃない。割れてるんだ。外から何度も響いてきて、耐えられなくなった場所から崩れてる」
男は立ち上がると別の亀裂へ目を移し、天井近くの欠けた場所から崩れた岩、そこへ続く細い割れ目まで視線を走らせた。ひとつ見つけるたび顔から色が引いていき、その様子を見た俺も、もう一度壁へ目を向ける。
最初はただの壊れた岩にしか見えなかったが、男の言葉を聞いてから見れば、壁を走る亀裂は天井へ伸び、そこから大きく崩れた場所まで続いているように見えた。
「重機の振動だ。採掘範囲を広げた時の揺れが、ここまで届いてたんだ。たぶん、一度や二度じゃない。俺たちは向こうで掘ってるだけのつもりだったが、そのたび音も揺れも、こっちへ流れてきてた」
男の声は、最後の方で掠れていた。崩れた岩の下には古い木箱の欠片が挟まり、その近くでは木の実が二つ、押し潰されて黒くなっている。ラルトスが俺の袖を掴み、空洞の奥にいるポケモンたちへ目を向けながら、
『……ずっと』
とだけ言った。
その先は続かなかった。ラルトスは胸元へ片手を当てたまま口を閉じ、俺も何も返せずにクチートを見る。クチートは潰れた寝床の前から動かず、大顎も開かないまま、職人の男だけを見ていた。
男は壁や天井だけでなく、押し潰された葉の寝床や、崩れた岩の隙間から覗く木の実、岩陰へ身を寄せるポケモンたちまで、時間をかけて見回した。昨日、坑道で怒鳴っていた時の勢いはもう残っておらず、かわりに何かを思い出そうとするように、眉間へ深い皺が寄っている。
「……聞いたことがあった」
男が、ぽつりと口を開いた。
「昔の職人からだ。奥の方には入るな、あそこは俺たちだけの場所じゃないって。子どもの頃は、ただの古い決まりだと思ってたし、誰も本気で守ってるようには見えなかった。俺もそのまま忘れて、仕事を覚えて、重機を使うようになって、もっと奥まで掘れるようになって……それが当たり前になった」
そこで言葉を切ると、男はクチートを見る。クチートも男を見返していた。水滴が岩へ落ちる音だけが、空洞の中へ何度も響く。
「忘れてた、じゃ済まねぇな」
男はそう言うと、クチートへ向かって頭を下げた。
「悪かった」
短い言葉だったが、空洞の奥までよく響いた。
「俺は、お前らが壊したものしか見てなかった。俺たちが壊したものは、一度も見ようとしなかった」
男は拳を強く握り、続ける。
「知らなかった、で済ませちゃいけなかったし、忘れてたのも、確かめなかったのも、俺たちの責任だ。親方に話す。ここより奥は掘らないようにして、もう一度、境界を決め直す。俺だけじゃ決められねぇこともあるが、今日ここで見たものは誤魔化さずに話す」
男は一度息を吸い、頭を下げたまま言葉を続けた。
「もし俺たちが、その約束を守れないなら、この坑道は閉じる。約束を守れないやつに、ここへ入る資格なんてねぇ」
男が言い終えても、クチートはすぐには動かなかった。俺もラルトスも口を挟まず、クチートの赤い目だけが、頭を下げた男へ向けられている。
「だから、もう一度だけチャンスをくれねぇか」
長い沈黙のあと、大顎がわずかに動いた。
ガチッ。
一度だけ、音が鳴った。
許したのか、俺には分からない。ラルトスも何も言わず、クチートを見つめていた。やがて男が顔を上げ、クチートと目が合っても、今度は視線を逸らさなかった。
「……戻る。親方に話す。今すぐだ」
「うん」
俺が頷くと、男は空洞の入口へ体を向けた。ラルトスも俺の袖から手を離し、俺たちは来た道へ戻り始める。
空洞を出る前に一度だけ振り返ると、クチートは潰れた寝床の前に立ったまま、俺たちを見送っていた。奥に隠れていたポケモンたちも、まだ岩陰からこちらを見ている。近づいてはこないが、岩の奥へ逃げ込むこともなかった。
帰る道では、誰もあまり喋らなかった。来た時と同じ細い坑道を戻っているはずなのに、職人の男は途中で何度も後ろを振り返り、そのたびに口元を引き結ぶ。ラルトスは俺の隣を歩きながら、時々こちらの袖を掴み、俺も何か言おうとは思うが、さっき見たものが頭の中でまとまらず、結局何も言えないまま足だけを進めた。
外へ出る頃には、町は夕暮れに染まっていた。煙突からはいつも通り煙が上がり、どこかの作業場から金属を打つ音が聞こえてくる。その音を聞いた職人の男は坑道の入口で足を止め、町の方を見たまま口を開いた。
「親方のところへ行く。俺一人で話すより、見たやつがいた方がいいから、お前も来い」
「うん」
俺はラルトスを見ると、ラルトスも頷いた。俺たちは男の後を追い、夕暮れの町へ向かって歩き出す。
振り返っても、坑道の奥はもう見えない。
それでも、崩れた岩の下に残っていた木の実と、潰れた寝床の前に立つクチートの姿は、まだ目の奥に残っていた。