りんごの枝を抜けて街道へ出ると、スグリは山の裾に沿って続く道を指した。俺も鞄の肩紐を掛け直し、並んで歩き始める。坂を上るにつれて風が通るようになり、汗の残っていた首筋が冷えた。
「最後の看板、楽土の荒地にあんだ。ちょっと歩くけど」
「まだ歩けるよ。スグリは?」
「おれも平気。……さっきのバトル、カミッチュともっと合わせられたら、違ったかなって考えてた」
スグリは腰のボールへ手を添えたまま、道の小石を避けて歩いた。俺は靴に入っていた砂を踵へ落とし、足を止めずに返す。
「途中からは合ってたろ。次に戦う時は、最初から狙えるんじゃねぇの」
「でも、ユアも動き変えるべ?」
「そりゃ変える。ずっと同じように避けてたら当たるからな」
スグリが顔を上げ、少し口を開いてから笑った。
「んだよな。……わや難しい」
俺も、アイやシロナに次こそ攻撃を通そうと考えていたことがある。二人も、俺が狙いを変えてくるのを見ていたんだろうか。スグリがボールから手を離したので、俺は道の曲がる先へ目を戻した。
りんごの木が続いていた斜面にも、背の低い草と岩が増えてきた。道の脇で枝を揺らしていた木々が途切れると、日差しが腕へ直接当たる。靴底に付いた土は乾いて落ち、踏むたびに細かな砂が浮いた。
スグリは分かれ道でも立ち止まらず、山沿いの街道を進んでいく。俺が水筒を取り出すと、スグリも飲み物を出し、二人で道の端へ寄った。見上げた山肌には岩の筋が長く伸びていた。
「村の周りは田んぼばっかりだったのに、ずいぶん変わるな」
「山のこっち側、木が少ねぇんだ。もう少しで着くよ」
水筒の蓋を閉めて歩き出すと、道の先が広く開けた。黄色っぽい地面に岩がいくつも露出し、草は岩の根元に細く残っている。風が吹いても葉の擦れる音はほとんどなく、ズボンの裾だけが揺れた。スグリが歩幅を緩めたので、俺も隣で止まる。
「楽土の荒地。看板は……あ、見えた」
スグリが指した場所には、地面へ二本の脚を差し込んだ看板が立っていた。近くまで歩き、スマホロトムに表示した課題の写真と見比べる。看板の形も、後ろにある岩も同じだった。
「これで最後だな。写真撮ろうぜ」
看板の文字を隠さないように二人で脇へ立ち、スマホロトムを前へ浮かせる。画面の端にスグリの肩が切れていたので、俺は半歩寄ってもらった。撮影が終わってから画面を確かめると、二人の顔と看板がきちんと収まっている。神社、ともっこプラザ、楽土の荒地。三枚を順番に見てから、スマホロトムを手元へ戻した。
看板にはこう書いてあった。
《黄昏時、村の外で人影に出会ったら、面をかぶって顔を隠しましょう。相手が人でも鬼でも、面を着けていれば会釈をしてすれ違えると伝えられています。面を持たず、鬼に素顔を見られた者は、魂を奪われて村へ帰れなくなる――里には、このような言い伝えが残されています。》
読み終えてから、俺は看板の脇に立つスグリを見た。スグリは文字を追うのをやめ、乾いた地面へ視線を下ろしている。
「お面って、鬼から顔を隠すためにも使うんだな」
「んだ。小さいころ、暗くなる前に帰れって、この話されてた」
「こんな話聞かされたら、山へ探しに行きにくくねぇ?」
スグリが顔をこちらへ向けた。目が合うと一度唇を結び、山肌を見上げる。
「……おれ、行ってたよ。鬼さまがいるって言われてる場所に」
神社で聞いた、鬼さまは悪いやつだと思っていないという言葉が浮かんだ。俺は鞄を肩から下ろし、看板の脚を避けて足元へ置く。
「前に、理由はあとでって言ってたろ。今なら聞いていい?」
「うん。うまく話せるか、分かんねけど」
スグリも鞄を下ろし、飲み物の蓋を指で回した。開けるのかと思ったが、指は蓋から離れ、両手で容器を持ち直した。
「鬼さま、一匹で三匹と戦ったんだべ。最初は、ひとりで戦えるのがかっこいいって思ってた。もっと話を聞きたくて、じーちゃんに何回も聞いたし……会ってみたくもなった」
「探しに行ったの、最近?」
「小さいころから。山さ入って、鬼さまが住んでるって場所まで。夜に行ったこともあんだ」
俺が看板へ目を向けると、スグリは口元を少し曲げた。
「でも、一回も会えなかった。魂も抜かれてねぇ。帰ったら、大人らに怒られたけど」
「夜に山へ行ったら怒られるだろ。道、見えねぇし」
「……んだね。帰るの遅くなって、わや怒られた」
俺も小さく笑ったが、スグリは飲み物へ目を戻してから話を続けた。
「みんな鬼さまのこと、こえーって言う。でも、鬼さまが人を襲ったとこを見たって話、おれは聞いたことねぇんだ。おれが探しに行っても出てこねぇし、村にもほとんど来ねぇ」
風が看板の角へ当たり、固定された板が軽く鳴った。スグリは音のした方を一度見てから、山へ顔を向ける。
「人を襲いたいなら、村の近くにいた方が会えるべ。なのに、ずっと離れて暮らしてる。……悪いやつだって、みんなが言うほどなんかなって」
「会ってないなら、襲われなかったのも会えなかったからかもしれねぇぞ」
「うん。だから、絶対って言えるわけじゃねぇよ。鬼さまが何してんのか、おれも知らねぇし」
スグリは俺を見て頷いた。声は小さいままだったが、言葉は止まらなかった。
「でも、悪いやつって決めて山の中にひとりでいさせるのも、違うと思う。怖がられて、誰も近づいてこねぇって……どんななんだろって」
俺は看板の文字へ目を戻した。書かれているのは鬼に会ったらどうするかで、鬼が今どんな暮らしをしているかまでは分からない。スグリは会いたくて何度も探し、そのたびに会えなかったことも覚えている。かっこいいから庇っているだけだと思っていたら、聞けなかった話だ。
「一匹で戦えるのは、俺もすげぇと思う。でも、強いのと悪いことしないのは別だろ」
「んだ。……強ければ、何してもいいってことじゃねぇ」
「なら、会えたら聞いてみたいな。何して暮らしてるのか」
スグリの目が俺へ戻り、飲み物を持つ手が少し上がった。
「ユアも、会ってみてぇ?」
「まだどんなポケモンなのかも知らねぇからな。看板の話だけじゃ分かんねぇし」
「……うん。おれも、ちゃんと会ってみたい」
スグリは飲み物を一口飲み、鞄へしまった。俺も鞄を拾い上げ、スマホロトムの写真をもう一度確認する。三枚目の看板には日差しが当たっていたが、文字も二人の顔も見える。集会所で見せる写真を選んでから、スマホロトムをしまった。
「よし、課題終わり。戻ろうぜ」
「んだば、来た道で帰ろっか。村まで戻ったら、ポケモンも診てもらお」
スグリが鞄を背負い、街道へ足を向けた。俺も隣に並ぶ。岩の多い地面を抜ける間、スグリは村で面を売っている店の話をした。好きな形を訊かれたが、まだ売られている面を見ていないので、店へ行ってから決めると答えた。
ーー
スイリョクタウンへ戻るころには、道沿いの建物が長い影を落としていた。山道で乾いた靴が、田んぼの脇の土を踏んで色を変える。集会所の前まで来ると、軒下にいたアイが顔を上げた。
「おかえり。全部撮れた?」
「撮れた。結構歩いたけどな」
アイは普段と変わらない調子で笑い、俺の隣にいるスグリにも手を振った。少し離れて立つゼイユは腕を組んだまま、弟の靴へ視線を落とす。
「スグ、遅い! どこで油売って――」
「ゼイユ」
アイが名前を呼ぶと、ゼイユの声が止まった。アイは大きな声を出していない。ゼイユは一度アイへ顔を向け、組んだ腕へ指を食い込ませてから俺たちへ戻した。
「……ちゃんと三つ回ったんでしょうね」
「う、うん。写真も撮った」
「ならいいけど」
いつもなら続きそうな小言が終わった。俺はアイとゼイユを見比べる。朝まで、アイが何か言った程度で止まる相手じゃなかった。
「お前、ゼイユに何した?」
「何もしてないよ。話して、バトルしただけ」
「だけじゃないでしょ!」
ゼイユがアイへ向き直る。勢いよく踏み出した足は一歩で止まり、二歩目は出なかった。
「アンタ、朝からずっとあたしに逆らって! あたしが道を教えてあげてるのに、いちいち口を挟むし!」
「道は教えてもらったよ。でも、関係ない人に怒鳴ったり、スグリに黙れって言ったりするのは違うでしょ」
「家のことに余所者が口出ししないで!」
「弟なら、何を言っても黙らせていいの?」
ゼイユの口が開いたまま止まった。アイは腕も組まず、正面から返事を待っている。ゼイユは集会所の柱へ視線を逸らし、髪を片手で後ろへ払った。
「……スグがはっきり言わないから、あたしが決めてあげてるのよ」
「聞かずに決めたら、スグリがどうしたいか分からないじゃん。言うのを待つか、普通に聞けばいいよ」
「そんな悠長なことしてられない時もあるの!」
「今朝は急いでなかったよね」
ゼイユは息を吸い、何か言い返そうとした。アイが首を傾けると、その息を鼻から吐いて俺へ顔を向けた。
「……何なのよ、こいつ。何を言っても返してくるんだけど」
「アイだからな」
「説明になってない!」
声は戻ったが、アイが「ゼイユ」と呼ぶと肩が少し上がった。
「まだ何かある?」
「ない! 今はないから!」
ゼイユは俺たちから半歩離れ、また腕を組んだ。スグリが姉の横顔を見上げる。
「ねーちゃん、バトルもしたん?」
「したわよ。口で分からないなら、バトルで決めようってあたしから言ったの!」
「バトルで正しい方を決める話じゃなかったと思うけど、申し込まれたから受けたよ」
アイが付け足すと、ゼイユは奥歯を噛むように口元へ力を入れた。俺は二人の服やボールを見た。目立つ汚れは残っていないが、ゼイユのボールを握る指だけが動いている。
「で、どっちが勝った?」
「ボク」
「……一回くらい、こっちの攻撃を受けなさいよ」
「避けられるのに受ける必要ないでしょ」
「技を出すところから潰してきたじゃない! 離れようとしても回り込むし、立て直そうとしたら次が来るし! あんなの何もできないで終わるに決まってるでしょ!」
ゼイユは一息で言い切り、アイから顔を背けた。スグリが目を丸くする。
「ねーちゃん、一発も当てられなかったん?」
「スグは黙って――」
ゼイユは言いかけてアイを見た。アイは何も言わず、ゼイユを見返している。
「……今のは、別に怒鳴ってないから」
「声、大きかったよ」
「分かったわよ!」
上がった声を自分で聞いたらしく、ゼイユは咳払いして口を閉じた。スグリが俺へ顔を寄せる。
「わやじゃ……。ねーちゃんが、あんなに何もできねぇなんて」
「アイは最初から相手の動ける場所を減らすんだよ。一回押されたら、戻すのが大変なんだ」
俺は相手の動きを見てから戦い方を変えることが多い。ゼイユと戦った時も、ポチエナやチャデスが何を狙うのか、一度は動かして確かめた。アイは違う。最初の攻防から自分の形へ引き込み、相手が作ろうとした流れごと止める。ゼイユの攻撃が俺には届き、アイには一発も届かなかったとしても、手を抜いた覚えはなかった。
「……朝からアイに噛みついて、そのあとバトルまで申し込んだのか」
「何よ、その言い方」
「大変だったな」
「同情するなら、もう少し心を込めなさいよ!」
ゼイユが俺を睨む。今度はアイも止めなかったので、俺は両手を軽く上げた。スグリが姉の隣で肩を揺らし、ゼイユに睨まれると口元を手で隠す。
「ほら、写真を報告するんでしょ。さっさと行くわよ!」
ゼイユは集会所へ向かった。アイが同じ方向へ足を出すと、ゼイユは一度だけ歩幅を速める。俺とスグリは顔を見合わせ、二人の後を追った。
集会所では、ブライア先生に三枚の写真を見せた。スグリも画面の横から確認し、最後の看板まで回ったことを伝える。先生が報告を受け取ると、俺はスマホロトムを鞄へ戻した。
手持ちを診てもらうために村の治療所へ寄り、集会所の前へ戻る。ボールを腰へ付け直していると、待っていたスグリが一歩近づいてきた。
「明日、村で祭りあんだ。ユアたちも来る?」
「祭り?」
「神社でやるの。屋台も出るわよ」
ゼイユが横から答えた。アイが顔を向けると、ゼイユの背筋が少し伸びる。それでも今度は言葉を止めず、俺たちを順番に見た。
「今日のことは今日のこと。来るなら、ちゃんと案内してあげる。勝手に歩いて、村の人に迷惑かけないでよね」
「迷惑をかけるつもりはないよ」
アイが普通に返すと、ゼイユは一瞬身構えたが、続く言葉がないと分かって息を吐いた。
「行きたい。ユアも行くでしょ?」
「おう。屋台も見てぇし」
アイが頷くと、スグリも口元を緩めた。俺は鞄の肩紐を掛け直し、二人へ向き直る。
「何時に集まればいい?」
「時間はあとで知らせる。遅れたら置いてくから」
「分かった。集会所で待ってるよ」
アイの返事に、ゼイユは短く頷いた。スグリが姉の隣へ並んで手を上げる。俺も手を振り返し、アイと一緒に集会所の扉を開けた。