それから二ヶ月。
町は少しずつ変わっていった。
最初は誰も気付かなかったと思う。
ある日突然何かが変わるわけじゃない。
昨日と今日の違いなんて、ほとんど分からない。
けれど、二ヶ月という時間は、景色を変えるには十分だった。
朝の坑道には今日も人の声が響いている。
「おい、そっち頼む!」
「ワンリキー、悪いな!」
「おお、助かった!」
ゴーリキーが資材を運び、ワンリキーが足場の設置を手伝う。危険な場所ではイシツブテたちが先に異変を知らせていた。
誰かに命令されたわけじゃない。
けれど気付けば、それが当たり前になっていた。
人とポケモンが一緒に働いている。
ちょっと前までなら考えられなかった光景だ。
俺は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
「変わったな」
思わず呟く。
『うん』
隣でラルトスが頷いた。
『みんな、笑ってる』
言われてみればそうだった。
以前の職人たちは余裕がなかった。
仕事に追われ、問題が起きれば怒鳴り声が飛んでいた。
でも今は違う。
もちろん大変な仕事には変わりない。
それでも、どこか空気が柔らかくなっていた。
「おーい!」
職人の一人が声を上げる。
そして木箱を二つ置いた。
「こっちが人間用!」
もう一つの箱を置く。
「こっちはポケモンたちの分な!」
木箱の中には大量の木の実が入っていた。
近くにいたゴーリキーが嬉しそうに鳴いた。
周囲から笑い声が上がる。
そんな光景を見ながら、俺も少し笑った。
二ヶ月前には想像もしなかった。
けれど、だからといって全てが変わったわけじゃない。
境界線の向こう。
坑道の奥には今もポケモン達が暮らしている。
俺は自然とそちらへ目を向けた。
少し離れた岩の上。
そこに小さな影が見える。
クチートだ。
相変わらず近付いてはこない。
警戒も完全には消えていない。
それでも、もう隠れたりはしなかった。
『見てる』
ラルトスが言う。
俺は苦笑した。
「分かる」
視線を感じるからだ。
振り返ると大抵クチートがいる。
そして目が合う。
数秒。
本当に数秒だけ。
じっとこちらを見る。
そして。
ガチッ。
顎を鳴らす。
まるで「見ていたわけじゃない」と言い張るみたいに。
そのまま視線を逸らす。
『まただ』
ラルトスが少し笑った。
「まただな」
俺も笑う。
最近はそんなことが増えていた。
昼休憩の時も、仕事終わりの時も。
気付けばどこかから見ている。
監督役。
見張り役。
あるいは、ただ気になっているだけなのかもしれない。
その日の帰り道だった。
夕日が町を赤く染めている。
俺とラルトスは並んで歩いていた。
ふと、ラルトスが立ち止まる。
『クチート』
その声につられて振り返る。
少し離れた岩陰。
クチートがいた。
気配を消していたつもりなのかもしれない。
『どうしたの?』
ラルトスが問いかける。
クチートは答えない。
ガチッ。
顎が小さく鳴る。
考えている時の癖だった。
長い沈黙。
風だけが吹き抜ける。
やがて。
『まだ』
短い言葉。
『まだ?』
『見ている』
それだけだった。
信じるとも言わない。
信用しないとも言わない。
その答えが、今のクチートらしかった。
ラルトスは小さく笑う。
『そっか』
クチートはそれ以上話さない。
けれど逃げもしなかった。
いまは、それだけで十分だった。
夜、家へ帰る途中。
空には星が浮かび始めていた。
俺とラルトスは静かな道を歩いている。
不意に、ラルトスが口を開いた。
『ユア』
「ん?」
『私も昔は怖かった』
足が止まる。
ラルトスは前を向いたまま続けた。
『一人だったから』
静かな声だった。
『見つかったら終わりだと思ってた』
テンガン山で出会った頃のことを思い出す。
傷だらけで。
怯えていて。
誰も信じられなかった頃のラルトス。
『でも』
少しだけ声が柔らかくなる。
『ユアは違った』
俺は何も言わない。
ラルトスも多くを語らなかった。
けれど分かった。
クチートのことを考えているのだと。
ラルトスは助けられた側だ。
だからこそ、クチートの気持ちが少しだけ分かるのかもしれない。
俺は笑った。
「じゃあ次はクチートの番だな」
ラルトスも少しだけ笑う。
『うん』
その返事はどこか嬉しそうだった。
それ日の夕食の席。
母さんが作った料理の匂いが部屋に広がっている。
いつもの食卓。
いつもの時間。
けれど俺は少しだけ緊張していた。
箸を置く。
そして。
「旅に出たい」
そう言った。
母さんの手が止まる。
父さんは驚かなかった。
いつか言うと思っていたような顔だった。
「理由は?」
父さんが聞く。
俺は少し考える。
「もっと知りたい」
「この町の外を」
「ポケモンたちを」
「世界を」
父さんは黙って聞いていた。
ラルトスも静かに座っている。
母さんは少し寂しそうに笑った。
「危ないこともあるわよ」
「うん」
「大変なこともある」
「うん」
即答すると、母さんは困ったように笑った。
父さんは腕を組む。
しばらく何も言わなかった。
ラルトスと俺を交互に見る。
そして窓の外を見る。
長い沈黙。
「行ってこい」
父さんは静かな声でそう言った。
その一言に胸が熱くなる。
ラルトスの件、そして、クチートの件から培った信頼の答えだ。
俺は大きく頷く。
「ありがとう」
父さんは小さく笑う。
「世界は広い」
ぽつりと言った。
「見てこい」
俺はもう一度頷いた。
その日の夜。
家の外へ出る。
空気は少し冷たい。
見上げれば満天の星空だった。
ラルトスが隣へ並ぶ。
『始まるね』
小さな声だった。
俺は笑う。
「まだ準備もしてないだろ」
ラルトスがくすりと笑う。
その時だった。
ガチッ。
聞き覚えのある音がする。
振り返ると少し離れた岩の上。
月明かりの中にクチートがいた。
相変わらず近付いてはこない。
ただ、こちらを見ている。
俺は手を振った。
「よう」
クチートは何も答えない。
けれど、以前のように背を向けて去ることもしなかった。
しばらく俺たちを見つめたあと、静かに空を見上げる。
月明かりが横顔を照らしていた。
俺はその姿を見ながら思う。
もしかしたらこいつも少しだけ気になっているのかもしれない。
俺たちのことを。
そして、その先に広がる世界のことを。
夜風が吹く。
クロガネの町は静かだった。
月も。
星も。
だけど、胸の奥だけが少し騒がしい。
世界は思っていたより広い。
クロガネの外にも、まだ知らない景色がある。
知らないポケモンがいる。
知らない出会いがある。
俺は空を見上げた。
「……楽しみだな」
誰に言ったのかは分からない。
けれど、隣ではラルトスが小さく笑っていた。
そして少し離れた岩の上では、クチートが黙ったまま夜空を見上げていた。