それから二か月が過ぎた。
町が変わり始めた日を聞かれても、たぶん誰も答えられない。昨日まで怒鳴っていた職人が、次の日から急にポケモンへ笑いかけるようになったわけでもなく、境界を決め直した途端、すべての問題が消えたわけでもなかった。最初のうちは人間もポケモンも互いの動きを気にし、資材を運ぶゴーリキーの横を職人が通れば、どちらからともなく距離を空けていた。それでも毎日顔を合わせ、同じ場所で働き、困った時には手を借りるうち、気づけば坑道には以前と違う声が響くようになっていた。
「おい、そっちの木材を頼む。一本ずつでいいからな、まとめて持ってまた足場を壊すなよ」
「ゴーリ!」
「分かってる顔じゃねぇな、それ。昨日も同じことやっただろ!」
職人が呆れた声を上げると、太い木材を三本まとめて抱えたゴーリキーが得意そうに胸を張り、周りで作業していた人たちから笑い声が起こる。その横ではワンリキーが足場を支え、別の職人が金具を打ち込んでおり、少し離れた場所ではイシツブテたちが岩壁の近くへ集まり、崩れそうな箇所がないか確かめていた。
「そこ、昨日より石が落ちてるな。今日は近づかない方がよさそうだ」
「イシッ」
「分かった、印を付けておく。教えてくれて助かった」
誰かに命令されたわけじゃない。最初から役割を決めていたわけでもない。それでも、人間では気づきにくい岩の変化をポケモンたちが知らせ、人間は道具を使って危険な場所を補強するようになり、互いのできることを持ち寄るうち、それが坑道での新しい働き方になっていた。
俺はラルトスと並び、作業の邪魔にならない場所からその様子を眺めていた。
「変わったよな。前は何か起きるたびに、誰のせいだって怒鳴ってたのに」
『……いまは、先に聞いてる』
「誰が何を見たのか、って?」
『……うん。それから、どうするか』
ラルトスの言う通り、問題が起きなくなったわけではない。荷車の車輪が岩へ挟まることもあれば、足場の組み方を巡って言い合いになることもある。ただ、声を荒らげる前に立ち止まり、何が起きたのか確かめる人が増えた。それだけでも、坑道に響く声は二か月前とは随分違っていた。
「休憩にするぞ! 人間用はこっち、ポケモンたちの分はそっちだ。間違えて食うなよ、そっちの木の実はかなり酸っぱいからな!」
大きな木箱を二つ抱えた職人が地面へ下ろすと、近くにいたワンリキーたちが一斉に集まり、その勢いに押された職人が慌てて両腕を広げる。
「待て待て、順番だ! 押したら全部ひっくり返るだろ!」
先頭にいたワンリキーが足を止め、後ろからぶつかった別の一匹と揃って尻もちをつくと、今度はさらに大きな笑い声が上がった。二か月前には、同じ場所でポケモンが近づいただけでも工具を握り直していた人たちが、今は木の実を手渡しながら食べ過ぎるなと笑っている。
俺もつられて笑ったが、坑道の奥へ続く道へ目を向けると、境界の手前に立てられた新しい杭が見えた。太い縄が張られ、その先へ立ち入る時は必ず許可を取り、ポケモンたちへ先に知らせることになっている。杭のそばには境界を示す札も置かれており、これから町へ来る人にも分かるよう、人間の文字と簡単な絵が刻まれていた。
そのさらに向こう、少し高くなった岩の上に、小さな影が立っている。
クチートだった。
こちらへ近づいてくることはないが、以前のように暗がりへ姿を隠すこともなくなり、作業が始まる頃には境界の近くへ現れ、日が傾くまで人間とポケモンたちの動きを眺めている。監督しているのか、約束が守られているか確かめているのか、それとも単に暇なのかは分からない。
『……また見てる』
「見てないふりしてるけどな」
俺がそちらへ顔を向けると、クチートと目が合った。赤い瞳がしばらくこちらを捉えたまま動かず、俺も何となく逸らすのが負けみたいに思えて見返していると、大顎が短く閉じる。
ガチン。
そしてクチートは、最初から坑道の壁を見ていたと言わんばかりに顔を横へ向けた。
「絶対、今こっち見てたよな」
『……見てた』
「だよな」
俺たちが笑っていると、クチートの大顎がもう一度鳴り、今度は明らかに抗議しているように聞こえた。
そんなやり取りも、この二か月で何度か繰り返していた。昼の休憩中、仕事が終わる頃、俺とラルトスが父さんを迎えに来た時。気づけばクチートは離れた場所にいて、こちらが声を掛ければ逃げはしないものの、近づこうとすると一定の距離を保つように下がる。
隣へ来るわけではない。
それでも、いなくなるわけでもなかった。
ーー
その日の作業が終わり、俺とラルトスが夕焼けの町を歩いていると、後ろから小石の転がる音が聞こえた。振り返れば道の脇にある岩陰から黒い大顎が覗き、その下からクチートが姿を現す。
『……クチート』
「今日も帰り道の見張りか?」
クチートは答えず、少し離れたところで足を止めた。俺たちが歩き出せば同じだけ進み、立ち止まれば向こうも止まる。ついて来るなら隠れる必要なんてないと思うが、本人は見つかっていないつもりなのかもしれない。
「家まで来るか?」
声を掛けると、クチートの大顎が小さく鳴った。
ガチン。
「それは嫌って意味か?」
もう一度、ガチン。
「どっちだよ」
ラルトスが口元へ手を当てて笑い、クチートは不満そうに顔を背けた。俺が歩き出すと、やっぱり少し離れたまま後ろをついてくる。
しばらくして、ラルトスが隣で足を緩めた。
『……似てる』
「何が?」
『……むかしの、わたし』
俺は後ろを振り返りかけたが、ラルトスが前を向いたまま歩いていたので、その横顔を見る。ラルトスは少し考え、言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
『……近づきたい。でも、近づいたら、こわい。離れたいけど、ひとりも、いやだった』
テンガン山で出会った頃のラルトスが浮かぶ。傷だらけで、声を掛けるだけでも身を縮め、それでも最後には俺の手を握った、小さな白い手。
「ラルトスも、あんな感じだったっけ?」
『……もっと、たいへんだった』
「自分で言うんだ」
『……ユア、しつこかったから』
「助けようとしてただけだろ」
『……しつこかった』
「二回言うなよ」
ラルトスは楽しそうに目を細めたあと、後ろを歩くクチートへ一度だけ振り返る。
『……でも、よかった』
その言葉が何を指しているのか、聞かなくても分かった。
「じゃあ、今度はクチートの番かな」
ラルトスはすぐには頷かず、クチートの歩く音へ耳を澄ませてから、
『……クチートが、決める』
と静かに返した。
「そっか。そうだよな」
無理に手を引けば、余計に離れていくかもしれない。俺にできるのは、近づいてきた時に追い返さず、離れている時にはその距離を勝手に縮めないことくらいだった。
町へ入る手前で足音が止まり、振り返ると、クチートは岩のそばに立っていた。ここから先へ来るつもりはないらしい。
「また明日な」
手を上げると、クチートはこちらを見たまま、大顎を一度鳴らした。
ガチン。
俺とラルトスが歩き出しても、背中へ向けられた視線はしばらく消えなかった。
ーー
夕食の席には、母さんが作った料理の匂いと、食器の触れ合う音が広がっていた。父さんは今日の作業で起きたことを母さんへ話し、ガブは窓の外からこちらを覗きながら、自分の分がまだかと鼻を鳴らしている。いつもと変わらない食卓だったが、俺はさっきから同じ皿を箸でつつき、言おうとしては飲み込むことを繰り返していた。
母さんが俺の手元を見て、首を傾げる。
「食べたくないなら無理しなくていいけど、さっきから一口も減ってないわよ。何か話したいことがあるんじゃないの?」
隠していたつもりはなかったが、見抜かれていたらしい。俺は箸を置き、隣に座るラルトスを見ると、ラルトスは黙って頷いた。
「父さん、母さん。俺、旅に出たい」
母さんの手が止まり、父さんは味噌汁の椀を置いた。驚いた様子はないが、すぐに答えることもなく、俺の顔を見ている。
「いつから考えていた」
「前から少しは考えてた。でも、ちゃんと行きたいと思ったのは最近だと思う。この町でラルトスと出会って、クチートのことがあって、俺が知らないことって、まだたくさんあるんだって分かった。町の外にも行ってみたいし、知らない場所で暮らしてるポケモンも見たい。何が正しいのか分からない時に、もっといろんなものを見て、自分で考えられるようになりたい」
一度話し始めると、頭の中にあった言葉が次々と出てきた。うまくまとまっているかは分からないが、父さんは途中で口を挟まず、母さんも静かに聞いている。
「危険なことがあっても、自分で全部どうにかできるなんて思ってない。ラルトスと相談するし、困ったら人にも頼る。父さんに言われた約束も忘れない。それでも行きたい。この町にいたら駄目だからじゃなくて、この町でいろんなことを知ったから、外も見たくなったんだ」
言い終えると、急に喉が乾いた。母さんはしばらく俺を見たあと、困ったように息を吐く。
「止めても行く顔をしてるわね。でも、危ないことがあるのは分かっているの? 町の外では、父さんも母さんもすぐには助けに行けないし、帰りたいと思っても、その日のうちに帰れるとは限らないのよ」
「分かってる……つもり。たぶん、今考えてるより大変なんだと思う。でも、分からないから行きたい」
「そう言うと思った」
母さんは寂しそうに笑い、父さんへ視線を向けた。父さんは腕を組み、俺とラルトスを順番に見てから、低い声で尋ねる。
「旅へ出て、何をする。外を見るだけか」
「最初はそれでもいいと思ってる。でも、ポケモンのことをもっと知りたいし、いろんな町へ行って、できるならジムにも挑戦してみたい。どこまで行けるかは分からないけど、最初から決めた道だけを歩くんじゃなくて、見つけたものをちゃんと見ながら進みたい」
父さんはすぐには答えなかった。窓の外からガブの鼻息が聞こえ、母さんが小さく笑いながら窓を開けて皿を差し出す。ガブが嬉しそうに受け取る様子を眺めても、父さんの顔から考えている色は消えなかった。
「三年前、お前はラルトスを連れて帰ってきた。今回の件では、クチートと職人たちの間へ入った。どちらも無茶だったが、最後まで投げ出さなかった。それを見てきたから、お前がただ外へ遊びに行きたいと言っているわけじゃないことは分かる」
父さんはそこで一度言葉を切り、俺からラルトスへ目を移す。
「だが、外では正しいと思って動いても、どうにもならないことがある。助けたい相手に拒まれることもあれば、お前が間違っていることもある。その時、自分だけで決めず、ラルトスの声を聞け。知らないなら聞け。無理なら戻れ。逃げることと、引くことを同じにするな」
「うん」
「それを守れるなら、行ってこい。世界は広い。お前が知っているクロガネの外にも、人間やポケモンが暮らしていて、それぞれ違う考え方がある。何が正しいかを急いで決めず、自分の目で見てこい」
胸の奥へ熱いものが込み上げたが、何と返せばいいのか分からず、俺は大きく頷いた。
「ありがとう。父さん、母さん」
「私はまだ全部賛成したわけじゃないからね。出発までに必要な物を揃えて、泊まる場所や連絡の方法も決めること。それから、帰ってきた時に知らない子みたいになっていたら、家へ入れないから」
「そこは大丈夫だろ」
「どうかしら。三日で服を泥だらけにしそうだけど」
「三日は早すぎるって」
母さんが笑い、父さんも口元をわずかに緩めた。隣ではラルトスが嬉しそうに俺の服の裾を握っている。
ーー
その夜、眠る前に外へ出ると、昼間より冷えた空気が頬へ触れ、見上げた空には数え切れないほどの星が浮かんでいた。町の灯りが届かない山の方まで星は続き、その向こうにも、まだ見たことのない場所がある。
ラルトスが隣へ並び、同じように空を見上げる。
『……はじまるね』
「まだ何も準備してないけどな。母さんに言われた通り、三日で泥だらけになるかもしれないし」
『……なると、おもう』
「そこは否定してくれよ」
ラルトスが笑った時、少し離れた場所から聞き慣れた音が届いた。
ガチン。
振り返ると、月明かりの当たる岩の上にクチートが立っていた。いつからいたのか分からないが、こちらへ近づくことも、姿を隠すこともなく、赤い瞳で俺たちを見ている。
「よう。聞いてたのか?」
クチートは答えず、大顎をもう一度鳴らす。
ガチン。
「何の返事か全然分からないな」
『……クチートも、わからない』
「クチート自身が?」
『……うん』
ラルトスがそう言うなら、たぶんそうなのだろう。俺は岩の上のクチートを見たが、その赤い目から何を考えているのか読み取ることはできない。
「俺たち、旅に出ることになった。すぐじゃないけど、準備ができたらこの町を出る」
クチートは動かない。俺は少し迷い、手を上げる。
「帰ってくるよ。いつになるかは分からないけど、ちゃんと戻ってくる。その時まで、ここを頼むな」
頼まなくても見張っていると思うが、ほかに言葉が浮かばなかった。クチートはしばらく俺を見たあと、ゆっくり空へ顔を向ける。月明かりが白い体と大顎の輪郭を照らし、俺とラルトスもつられるように星空を見上げた。
世界はきっと、今見えている空よりもずっと広い。
その広さがどれくらいなのか、まだ想像もできないが、怖いより先に見てみたいと思った。
「……楽しみだな」
『……うん』
ラルトスの返事が隣から届き、少し離れた岩の上では、クチートが黙ったまま同じ空を見上げていた。