旅立ちの日の朝は、驚くほど静かだった。
まだ外は薄暗いものの、窓の向こうには見慣れたクロガネの町が広がっていた。
何度も見てきた景色。
けれど今日は少し違う。
今日俺は、この町を出る。
そう思うだけで胸の奥が落ち着かなかった。
『起きてる』
頭の奥にラルトスの声が響く。
隣を見ると、ラルトスもすでに目を開けていた。
いつも通り落ち着いた顔。
だけど少しだけそわそわしているように見える。
「眠れなかったのか?」
『少し』
短い返事だった。
思わず笑う。
「俺もだ」
ラルトスも小さく笑った気配がした。
着替えを済ませてリビングへ向かう。
台所からは朝食の匂いが漂ってきていた。
母さんが料理を並べている。
父さんはすでに席についていた。
「おはよう」
声を掛けると、二人ともこちらを見る。
「おはよう」
母さんは笑った。
少しだけ寂しそうな笑顔だった。
父さんはいつも通り小さく頷く。
朝食は不思議なくらい普通だった。
旅立ちの日だからといって特別な料理があるわけじゃない。
いつものパン。
いつものスープ。
いつもの朝。
それが逆によかった。
今日が特別な日なのではなく、これまで積み重ねてきた日々の続きなんだと思えたから。
食事を終えると、母さんが大きな荷物を持ってきた。
「これ持っていきなさい」
「多くない?」
「多くないわ」
絶対多い。
でもそれ以上は言わなかった。
母さんなりの心配だと分かっていたからだ。
「困ったら手紙を書きなさい」
「うん」
「ご飯はちゃんと食べるのよ」
「うん」
「危ない場所には近付かない」
「それは無理かも」
「ユア」
即座に返ってきた声に思わず笑う。
母さんも呆れたように笑った。
その後ろで父さんが立ち上がる。
「出る前に少し付き合え」
そう言って外へ向かった。
俺も後を追う。
向かった先は鉱山だった。
二ヶ月前まで騒動の中心だった場所。
けれど今の景色は違う。
職人たちが働き、その隣ではゴーリキーやワンリキーたちも動いている。
資材を運び、足場を支え、危険な場所を知らせる。
人とポケモンが当たり前のように同じ場所にいた。
「おう、ユア!」
職人の一人が手を振る。
「聞いたぞ!」
「旅に出るんだってな!」
周囲から声が飛ぶ。
「変なポケモンばっか連れて帰ってくるなよ!」
「俺だよ?それは無理だろ」
思わず返事をすると笑いが起きた。
その空気が少し嬉しかった。
以前ならこんな風にはならなかったからだ。
父さんはしばらくその様子を眺めていた。
やがて俺の肩を軽く叩く。
「見てみろ」
視線の先。
境界の近くで職人とワンリキーが一緒に作業をしていた。
少し離れた場所ではイシツブテたちが岩場を支えている。
以前のような怒鳴り声はない。
争いもない。
ただ、それぞれが自分の役割を果たしていた。
父さんは静かに言う。
「お前が作った境界じゃない」
俺は黙って聞く。
「でも、お前が繋いだ絆だ」
胸の奥が少し熱くなった。
言葉が出てこない。
父さんは小さく笑う。
「だから安心して行ってこい」
「……うん」
俺は力強く答えた。
しばらくして、俺は境界の近くへ向かった。
最後に一度だけ見ておきたかった。
岩陰。
通路の奥。
見慣れた場所。
けれどクチートの姿はない。
少しだけ探してしまう。
そんな自分に気付いて苦笑した。
『さがしてる』
ラルトスが言う。
「ち、違うっ」
反射的に否定する。
『うそ』
全然信じていない声だった。
俺はため息を吐く。
そして境界の奥を見る。
姿はない。
気配もない。
でもきっと見ているんだろう。
どこかから。
出てくるつもりはないらしい。
「……行ってくる」
ぽつりと呟く。
返事はない。
「まあ、そうだよな」
そして背を向ける。
それでよかった。
無理に答えを求めるものじゃない。
クチートにはクチートの時間がある。
俺は鉱山を後にした。
町の出口では母さんが手を振っていた。
職人たちもいる。
父さんもいる。
見慣れた人たち。
見慣れた町。
それが少しずつ遠ざかっていく。
寂しくないわけじゃない。
それでも足は止まらなかった。
前へ進みたい気持ちの方が強かった。
『ユア』
「うん」
『楽しみ』
「そうだな」
『うん』
ラルトスが少し笑う。
俺も笑った。
そして歩き続ける。
クロガネシティが少しずつ小さくなっていく。
煙突も。
家も。
山も。
全部。
どれくらい歩いただろう。
十分か。
三十分か。
よく分からない。
その時だった。
ガチッ。
聞き覚えのある音が響いた。
俺の足が止まる。
ラルトスも振り返る。
その音を知らないはずがなかった。
街道脇の岩の上。
ーーそこにクチートがいた。
相変わらず無表情。
相変わらず警戒した目。
だけど確かにそこにいる。
「……何してんだ」
思わず呟く。
クチートは答えない。
代わりに後ろを振り返った。
その先にあるのはクロガネシティ。
鉱山。
住処。
自分がずっと守ってきた場所だった。
クチートはしばらく動かなかった。
ただ故郷を見つめている。
風が吹く。
沈黙が続く。
やがて。
ガチッ。
小さく顎が鳴った。
決心するみたいに。
そしてクチートは岩から飛び降りる。
一歩。
また一歩。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
手を伸ばせば届く距離で止まった。
それ以上近付かない。
だけど離れもしない。
ラルトスが小さく笑う。
『来るの?』
クチートは答えない。
ガチッ。
代わりに顎が鳴る。
それだけだった。
俺は思わず笑う。
「そうか」
クチートはそっぽを向く。
少しだけ気まずそうに。
そんな風に見えた。
ラルトスが俺を見る。
『増えたね』
「ああ」
俺は頷く。
そして前を向いた。
ラルトスがいる。
クチートがいる。
そして、まだ見ぬ世界がある。
胸の奥が高鳴った。
「行こう」
小さく呟く。
隣には確かな気配が二つあった。
こうして。
ラルトスと。
クチートと。
俺の旅は始まった。
クロガネで生まれた繋がりを胸に。
まだ知らない世界の先へ。