旅立ちの日の朝は、驚くほど静かだった。窓の外はまだ薄暗く、煙突の向こうから昇り始めた朝日が、見慣れたクロガネの町をゆっくり照らしている。家々の屋根も、遠くに見える鉱山も、昨日までと何ひとつ変わらない。けれど今日でしばらく見られなくなると思うと、いつもなら気にも留めない煙まで、妙に長く眺めてしまった。
今日、俺はこの町を出る。
そう思うと、もう一度寝ようとしても目が冴えてしまい、何度寝返りを打っても落ち着かなかった。結局、眠るのを諦めて天井を見ていると、隣から小さな声が届く。
『……起きてる』
「そっちも眠れなかったのか?」
『……すこし。ユアが、何度も動くから』
「俺のせいかよ」
『……半分』
「残りの半分は?」
ラルトスは窓の外へ目を向け、しばらく考えてから、
『……たのしみ』
と答えた。
「そっか。俺も」
楽しみなのは本当だった。知らない町へ行き、見たことのないポケモンと出会い、どこまで続いているのかも分からない道を歩く。考えるだけでドキドキするが、その中には、この町を離れる寂しさも混じっていた。
着替えを済ませ、前の日にまとめておいた荷物を背負うと、思っていた以上の重さに体が後ろへ引かれた。
「……重い」
『……もてる?』
「持てる。たぶん」
『……たぶん』
「そこだけ繰り返すなよ」
部屋を出て階段を下りると、台所からスープの匂いが漂ってきた。母さんは焼いたパンを皿へ並べ、父さんはいつもの席で湯気の立つ椀を持っている。旅立ちの日だからといって特別な料理が用意されているわけではなく、食卓に並んでいたのは何度も食べてきた朝食だった。
「おはよう」
「おはよう。まず顔を洗ってきなさい、その寝癖のまま町を出るつもり?」
「旅立つ日の最初の一言がそれ?」
『……ユア、だらしない』
「そこまで言う?」
母さんが笑い、父さんも椀の向こうで口元を緩めた。いつもと同じような朝が続いていることに安心しながら顔を洗い、戻ってくると、母さんは旅の途中で必要になる物や、町へ着いたら買い足す物を話しながら、俺の皿へ何度もパンを追加した。
「困った時は手紙を書きなさい。泊まる場所が決まった時も、できるだけ知らせること。ご飯を抜かないで、雨に濡れた服のまま寝ないで、知らない人についていかない。それから、危ない場所へ勝手に入らないこと。あなたは放っておくと、自分から面倒な場所へ入っていくんだから」
「分かってるよ。ちゃんと気をつける」
「その返事が信用できるようになるまで、何年かかるのかしらね」
母さんは呆れたように言いながらも、荷物の留め具や服装を何度も確かめていた。荷物は十分すぎるほど重いが、これ以上増やされる様子はなく、俺は少し安心してパンを口へ運ぶ。
朝食を終えると、父さんが椀を置いて立ち上がった。
「町を出る前に、鉱山へ寄るぞ」
「何かあるの?」
その問いには答えず、父さんは玄関へ向かった。俺とラルトスが後を追うと、朝の冷たい空気が頬に触れ、作業場へ近づくにつれて、職人たちの声と金属を打つ音がはっきり聞こえてくる。
二か月前、重機が壊され、怒鳴り声ばかりが響いていた場所では、今日も人とポケモンが並んで働いていた。ゴーリキーが木材を運び、ワンリキーが職人と一緒に足場を支え、岩壁の近くではイシツブテたちが小さな変化を知らせている。人間だけで進めるのではなく、ポケモンだけへ任せるのでもなく、互いの得意なことを持ち寄りながら作業を進めていた。
「おい、ユア! 本当に今日出るのか!」
一人の職人がこちらに気づき、持っていた工具を掲げると、周りの人たちも次々に振り返った。
「途中で泣いて帰ってくるんじゃねぇぞ!」
「三日くらいは頑張るよ」
「三日しか持たねぇのかよ!」
笑い声が広がる。ゴーリキーを連れてクチートへ押しかけたあの職人も、作業の手を止めてこちらへ歩いてきた。
「外へ出たら、考える前に飛び込む癖は直せよ。毎回、拳を止めてくれるとは限らねぇんだからな」
「あんたには言われたくないけど、気をつける」
「そこは素直に聞け。まあ、無事に帰ってこい」
職人は照れくさそうに俺の頭へ手を置き、乱暴に髪をかき回した。せっかく直した寝癖が元へ戻り、母さんに見つかったら怒られると思いながら睨むと、男は声を上げて笑い、作業へ戻っていった。
父さんはその様子を眺めたあと、境界の方へ顔を向け、俺の肩へ手を置いた。
「見ておけ」
境界を示す杭のそばでは、職人とワンリキーが新しい札を取り付け、少し離れた岩場ではイシツブテたちが崩れやすい場所を確かめている。誰かが一方的に命令するのではなく、互いの動きを確かめながら、それぞれのできることを進めていた。
「これは、お前一人が作ったものじゃない。境界を決めたのは町で、約束を形にしたのも、ここで働く人間とポケモンたちだ。ただ、お前が最初に動かなければ、ここへは繋がらなかった。全部を解決したわけじゃないし、これから先も問題は起きる。それでも、見なかったことにせず、必要な相手を連れて、最後まで人へ繋いだ。それは覚えておけ」
「俺、ちゃんとできたのかな」
「まだ途中だ。出来たかどうかを決めるには早いが、途中で投げ出さなかったことは認めている」
父さんらしい答えだった。真っ直ぐ褒めるわけでもなく、かといって何も認めていないわけでもない。その言葉が嬉しくて、俺は境界の向こうを見たまま頷いた。
「旅に出れば、ここみたいに最後まで上手くいくことばかりじゃない。だが、その話はもう何度もした。俺から新しく言うことはない。見ろ、聞け、考えろ。それでも分からないなら、一度引け。ラルトスの声を聞き、自分だけで決めるな。お前がここで覚えたことを忘れなければ、それでいい」
「うん」
「なら、行ってこい。世界は広い。クロガネで知ったことだけが全部だと思わず、自分の目で見てこい」
「……行ってきます」
父さんは短く頷き、頭へ大きな手を一度だけ置いた。何か言おうと思ったが、父さんが先に背を向けてしまったので、その言葉は飲み込んだ。
俺はラルトスと一緒に境界の近くまで歩いた。最後に、クチートへ挨拶をしておきたかった。
いつも立っていた岩の上や、通路の奥、少し離れた暗がりへ目を向けるが、クチートの姿は見つからない。
『……さがしてる』
「探してない。いるか確認してるだけ」
『……それを、さがすっていう』
「ラルトス、最近ちょっと生意気になったよな」
『……ユアが、育てた』
「俺のせいなの?」
ラルトスは答えず、楽しそうに目を細めた。俺はもう一度、境界の奥を見るが、赤い瞳も大きな顎も、どこにも見えない。
出てきたくないなら、無理に探すものでもない。二か月前まで人間を近づけなかったクチートが、旅立つ俺を見送るためだけに姿を見せるとも限らなかった。
「……行ってくる。住処のことは、もう大丈夫だと思うけど、ちゃんと見ててくれよ」
声は暗い通路の奥へ消え、返事はなかった。
「まあ、そうだよな」
俺は小さく息を吐き、境界へ背を向けた。
ーー
町の出口では、母さんや職人たちが待っていた。ガブも父さんの隣に立ち、俺の荷物を見ながら不思議そうに首を傾げている。
「ガブ、重いんだよ。母さんが詰めすぎたんだ」
「必要な物しか入れてません」
「保存食、何日分あるの?」
「なくなった時に困らない分よ」
「答えになってない」
母さんは聞こえないふりをしながら、俺の服や荷物を最後まで確かめ、襟元を整えてから両手を離した。
「行ってらっしゃい。無理に強くならなくてもいいから、ちゃんと元気で帰ってきなさい」
「うん。行ってきます」
父さんは隣で腕を組んだまま、俺とラルトスを順番に見る。
「困った時は手紙を書け。手を貸せるかは分からんが、一人で抱えるよりはましだ」
「もう少し優しい言い方ないの?」
「帰る場所はここだ。忘れるな」
その一言で、返そうとしていた言葉が消えた。俺は大きく頷き、母さんと父さん、ガブ、集まってくれた職人たちへ手を振る。
「行ってきます!」
いくつもの声が返ってくる。俺はラルトスと並んで歩き出し、少し進んでは振り返り、また手を振った。町の人たちの姿が小さくなり、煙突も、家も、鉱山も少しずつ遠ざかっていく。
寂しくないわけじゃないが、足を止めたいとは思わず、道の先に何があるのかを早く見たかった。
『……たのしみ』
「うん。まずは次の町まで迷わず行かないとな」
『……できる?』
「地図があるし大丈夫だろ」
『……ユアだから』
「どういう意味だよ」
ラルトスの笑う声を聞きながら、俺は街道を歩き続けた。
やがて町の姿が山の陰へ隠れかけた頃、街道脇の岩場から硬い音が響く。
ガチン。
俺とラルトスの足が同時に止まった。
振り返ると、少し高くなった岩の上にクチートが立っていた。
「……何してんだよ」
思わず声が漏れる。クチートは答えず、赤い瞳で俺たちを見ていた。境界の奥ではなく、町から離れた街道の途中に立っている。その意味を考えかけたが、クチートが俺たちから視線を外し、後ろを振り返ったので、俺も遠くなったクロガネの町へ目を向けた。
山の陰に半分隠れた鉱山と、煙突から立ち上る細い煙を、クチートは黙って見つめていた。ラルトスも俺も何も言わず、その横顔を見守る。
クチートは長い間、あの場所から離れず、奥に暮らすポケモンたちを守ってきた。そこから自分の意思で離れることが、どれほど大きな決断なのか、俺には全部分からない。
風が吹き、クチートの耳が揺れる。どれくらいそうしていたのか分からないが、やがて町から目を離すと、岩の上から飛び降り、迷わずこちらへ歩いてきた。
手を伸ばせば届きそうなところまで来たものの、俺の隣へ並ぶ寸前で足を止め、そっぽを向く。
ラルトスが目を細めた。
『……決めたんだ』
クチートの大顎が鳴る。
ガチン。
「……そっか」
それ以上、確かめる必要はなかった。
「なら、一緒に行こう。どこへ行くかも、何があるかも分からないけど、たぶん面白いぞ」
クチートはこっちを見ないまま、大顎をもう一度だけ鳴らした。その音は坑道で聞いた威嚇のように重くはなく、短く、はっきりと耳へ届いた。俺が前を向いて歩き出すと、ラルトスがすぐ隣へ並び、クチートも一歩遅れて足を踏み出した。
遠くには、まだ見たことのない道が続いていた。