閑話休題〜前日談〜
夜は静かだった。
明日になれば、俺はクロガネを出る。そう思うと、もう一度寝ようとしても目が冴えてしまい、寝返りを打っては布団を直し、目を閉じてはまた反対を向くことを繰り返していた。
『……ねむれない?』
頭の中へ届いた声に隣を見ると、ラルトスも布団から顔を出し、赤い目でこちらを見ている。
「お前も起きてたのか」
『……ユアが、ずっと動くから』
「悪かったよ。でも、寝ようとはしてるんだぞ」
『……できてない』
「いやまぁ、そうなんだけどさ…」
ラルトスは小さく目を細めた。俺も少し笑ったが、笑ったからといって眠くなるわけではなく、もう一度天井を見上げる。
窓の外では、町の明かりがほとんど消えていた。昼間は職人たちの声や金属を打つ音が絶えないのに、夜になると、同じ町とは思えないほど静かになる。遠くに見える煙突も黒い影になり、その向こうにはテンガン山が大きくそびえ立っていた。
明日の朝には、あの山を背にして歩き出す。
何度も考えていたことなのに、まだ変な感じがした。旅に出ると言ったのは俺で、行っていいと言ってもらったのも俺なのに、本当に明日になるだけで町の外へ出られるのか、どこかで信じ切れていない。
『……ユア』
「ん?」
『……なに、考えてる?』
感情を読むラルトスが聞いてくるくらいだから、自分でもまとまっていないのだと思う。旅のことを考えていたはずなのに、気づけばテンガン山でラルトスと出会った日のことや、坑道の奥でクチートと向き合った時のことが、順番もなく浮かんでいた。
「明日のことも考えてるけど、今までのことも思い出してた」
『……いままで?』
「ラルトスと会った時とか、クチートのこととか。俺、前はポケモンのことを結構知ってるつもりだったんだよ。町にはゴーリキーやワンリキーがいるし、父さんのガブもずっと近くにいたから、人間とポケモンが一緒にいるのは普通だと思ってた」
ラルトスは何も言わず、続きを待っている。
「でも、ラルトスは最初、俺を全然信用してなかっただろ」
『……うん』
「そこは否定してくれてもいいんだけど」
『……ほんとうだから』
「まあ、そうだけどさ」
あの頃のラルトスは、俺が手を伸ばすだけでも警戒していた。家へ連れて帰ってからも、物音がすれば周りを見回し、父さんや母さんが近づけば、すぐに俺の後ろへ隠れていた。それでも今では、同じ部屋で眠り、俺が寝返りを打ちすぎたと文句まで言う。
「最初から今みたいだったわけじゃないんだよな」
『……ユアが、しつこかった』
「それ言うのかよ。助けようとしてただけだろ」
『……しつこかったけど、よかった』
ラルトスは前を向いたまま言った。暗い部屋の中では表情まではよく見えなかったが、その声が穏やかなことだけは分かった。
「そっか」
『……うん』
短い返事のあと、部屋へ静けさが戻る。窓の隙間から入った風がカーテンを揺らし、遠くでポケモンの鳴き声が聞こえた。
クチートも、最初から俺たちを近づけたわけじゃなかった。大顎を鳴らして岩を砕き、それ以上来るなと何度も追い返した。俺が職人とゴーリキーの間へ入ったあとも、すぐに信用したわけではなく、二か月たった今でも近づけば距離を取る。
けれど、もう暗がりへ隠れてはいない。
離れた岩の上から仕事を眺め、俺たちが帰る時には、気づけば後ろにいることもある。声を掛ければそっぽを向くくせに、次の日になればまた同じ場所へ来ている。
「クチートも、いつか変わるのかな」
『……わからない』
「ラルトスでも分からない?」
『……クチートが、決めるから』
昼間にも聞いた言葉だった。俺がどれだけ仲良くなりたいと思っても、クチートが同じように思うとは限らない。手を伸ばせば必ず掴んでもらえるわけじゃないし、助けたからといって、すぐ隣へ来てくれるわけでもない。
ラルトスだってそうだった。
一緒に過ごして、同じものを食べ、何度も話しているうちに、いつの間にか今の距離になっていた。いつから信用してくれるようになったのか聞かれても、きっと俺にもラルトスにも答えられない。
「一回何かしただけじゃ、駄目なんだな」
『……なにが?』
「仲良くなるの。助けたとか、謝ったとか、それだけで全部終わるわけじゃないんだなって」
自分で言ってから、少し変な言い方だったと思ったが、ラルトスは笑わなかった。
『……うん。あとが、だいじ』
「あと?」
『……そのあとも、いっしょにいるか』
ラルトスは静かに言い、俺の布団の端を指先でつまんだ。
クチートの住処を見つけ、町とポケモンたちの境界を決め直したからといって、全部が終わったわけではない。約束を守り続ける人がいて、それをクチートが見ている。今日だけではなく、明日も、その次の日も。
「じゃあ、俺が旅に出たら、クチートには見てもらえないな」
『……帰ってくれば、見せられる』
「ちゃんと約束が守られてたか?」
『……それも』
「ほかにも?」
『……ユアが、なにを見たか』
ラルトスの言葉に、窓の外へ目を向ける。クロガネの向こうには山があり、その先には別の町がある。地図で名前だけ見た場所。行ったことのない森。見たことのない海。父さんは世界が広いと言ったが、どれくらい広いのか、俺にはまだ分からない。
クロガネだけでも、知らないことがたくさんあった。
いつも見ていた坑道の奥に、ポケモンたちが暮らす場所があったことも、人間とポケモンの間に昔から境界があったことも、俺は何ひとつ知らなかった。
「町の外にも、ああいう場所があるのかな」
『……あると、おもう』
「森にも?」
『……うん』
「山にも、海にも?」
『……たぶん』
森には森で暮らしているポケモンがいて、山には山から離れたくないポケモンがいる。人間が知らない道や、勝手に入ってはいけない場所もあるのかもしれない。
そう考えると、少し怖くなる。
知らずに何かを壊してしまうかもしれないし、クチートみたいに、俺たちを近づけたくないポケモンと出会うこともある。助けようとしても、余計なことをするなと追い返されるかもしれない。
けれど、それ以上に見てみたかった。
どんな場所があり、そこに誰が暮らし、何を大切にしているのか。最初から全部分かるわけはないが、分からないなら聞けばいいし、言葉が通じないなら、急がずに見ればいい。
「世界のこと、もっと知りたいな」
『……せかい?』
「うん。クロガネの外に何があるのか、どんなポケモンがいるのか。全部は無理だろうけど、見られるだけ見てみたい」
『……たのしみ?』
「かなり。怖いのも少しあるけど、楽しみの方が大きい」
正直に答えると、ラルトスが嬉しそうに頷いた。
『……わたしも』
「ラルトスも一緒だからな。迷った時は頼むぞ」
『……ユアが、地図をなくしたら?』
「いきなり迷う前提で話すなよ」
『……なくしそう』
「ちゃんと荷物に入れた。たぶん」
『……たぶん』
「だから繰り返すなって」
笑い声が夜の部屋へ小さく広がった。さっきまで何度目を閉じても眠れなかったのに、話しているうちに、少しだけ体から力が抜けていく。
窓の外では風が吹き、遠くからまたポケモンの鳴き声が届いた。どこにいるポケモンなのか、何のために鳴いたのかは分からない。けれど、クロガネの外でも、同じように誰かが眠り、誰かが起き、明日の朝を待っているのだと思う。
「明日になったら、始まるんだな」
『……うん』
「ちゃんと起きられるかな」
『……いま寝たら』
「それもそうだな」
俺は布団へ潜り直し、もう一度目を閉じた。明日の道も、その先に何が待っているのかも、まだ何も見えない。
それでも今度は、眠れそうだった。