洞窟の奥で何かが動いた。最初に聞こえたのは足音というより、硬いものが岩を噛むような鈍い音で、暗がりの中からそれが一つ近づくたびに、小石が砕けて転がる音まで遅れてついてくる。やがて青い目が二つ浮かび、その下から鋼みたいな体がぬっと現れた。太い四本の足、岩を擦る重そうな体、鼻先から漏れる荒い息。
「……コドラ」
本で読んだことがある。岩場や洞窟で暮らし、鉱石を食べて成長するポケモン。進化するとボスゴドラになることも、縄張りに入った相手には容赦しないことも、図鑑には書いてあった。だけど、図鑑で見た絵とは違って、目の前のコドラはじっとしていない。前脚で地面を削りながら、岩陰のラルトスと、その近くにいる俺を交互に見ていた。
『……いや』
頭の中に、ラルトスの声が細く響いた。
『……みつかった』
ラルトスは岩陰に背中をつけたまま、後ずさろうとして傷ついた脚を引いたが、力が入らないのか体がぐらりと傾き、白い指だけが岩を掴んだ。石の粉で汚れたその指先を見ている間にも、コドラの青い目はラルトスから俺へ移り、またラルトスへ戻る。その短い視線の動きだけで、俺が間にいる邪魔なものだと見られているのが分かった。
コドラの前脚が地面を掻き、嫌な音が洞窟の壁を伝って広がる。俺は壁に手をついたまま息を止めた。ラルトスへ向いていた青い目が、ふいに俺で止まり、体が低く沈む。
ーーまずい。
「うわっ!?」
コドラが地面を蹴った瞬間、俺の体は考えるより先に横へ転がっていた。肩から地面にぶつかり、口の中に砂の味が広がる。すぐ横を鋼の塊みたいな体が通り抜け、さっきまで俺が立っていた場所の岩壁へ突っ込むと、洞窟全体が腹の底まで響く音を返し、砕けた石がばらばらと降ってきた。俺は咳き込みながら顔を上げる。コドラは砕けた岩の中で首を一度振り、崩れた石を踏みつけながら体勢を立て直すと、今度はラルトスの方へ向きを変えた。
『っ……』
ラルトスが動こうとする。でも一歩も進めない。逃げようと足を引くたびに傷ついた脚が崩れ、細い体が岩へ押しつけられる。コドラは急がなかった。ラルトスが逃げられないことを確かめるみたいに、前脚で地面を削りながら距離を詰めていく。その一歩ごとに、ラルトスの指が岩を掴む力が強くなり、白い腕が胸の前で固まった。
ーーやめろ。
「やめろ!!」
叫ぶより先に走っていた。気づけば俺はラルトスの前へ飛び出していて、コドラの青い目がそこで止まる。自分でも何をしているのか分からない。相手はコドラで、俺は七歳の子供だ。勝てるわけがない。止められるわけもない。それでも、後ろにいるラルトスの浅い息を聞くと、逃げる訳にはいかなかった。
「……来んな」
声が震える。膝も震える。本当なら今すぐにでも逃げ出したい。
『……なんで』
頭の中に声が響く。
『なんで、まえに』
「知らねぇよ」
そんなの俺だって知らない。目の前で傷ついているやつがいて、それでもまだ逃げようとして、でも動けなくて、そのまま潰されそうになっている。それを見ていたら、勝手に足が動いていた。
コドラが低く唸る。腹の底まで響く音に、肩が勝手に跳ねた。前脚がもう一度岩を削る。次に来たら終わる。正面から受け止められるわけがない。俺はちらっと後ろを見て、ラルトスの小さな体が視界に入った瞬間、それ以外に考えられることがなくなった。この大きさなら抱えられる。抱えられれば、走れるかもしれない。
ーー逃げるしかない。
「ごめん!」
『え……』
返事を待たずに抱き上げる。軽い。びっくりするくらい軽かった。腕に力を入れすぎたら壊れそうで、俺は一瞬だけ力を緩める。けれどそのすぐ後ろで、コドラの前脚が地面を蹴った。
「行くぞ!」
俺は走った。出口なんて分からない。ただ、コドラから離れる方へ、岩を飛び越え、曲がり角を曲がり、滑りそうになって壁へ手をつく。後ろから重い足音が追ってくる。岩の体だから遅いはずだなんて、そんな勝手な思い込みは最初の数秒で吹き飛んだ。速い。信じられないくらい速い。足音が迫るたび、背中をそのまま押し潰されるような気がした。
「なんでそんな速いんだよ!」
叫んでも返事なんかない。返ってくるのは、コドラの体が岩に擦れる音と、洞窟の壁で跳ね返った唸り声だけだった。俺はラルトスを抱え直し、足元の石につまずきそうになりながら走る。曲がる。飛び越える。滑る。肩をぶつける。痛いと思うより先に次の足を出す。止まったら、次は避けられない。
『……なんで』
腕の中でラルトスが小さく呟いた。
『なんで、たすけるの』
「だから!」
息が続かない。喉が痛い。足ももう限界で、言葉なんか考えている余裕はなかった。
「放っとけないだろ!」
ラルトスは何も返さない。ただ、俺の服を掴む指先だけがさっきより少し強くなり、その感触が腕の中で小さく残る。けれど確かめている暇はない。前を見る。岩と岩の間に、子供一人ならぎりぎり通れそうな隙間があった。
ーーあそこだ。
「くっ……!」
肩を擦りながら体を押し込む。服が岩に引っかかり、肘をぶつけ、それでもラルトスを潰さないように抱え直しながら、無理やり体を横にして進んだ。背後から迫っていた足音がすぐそこまで来る。通路の向こうへ転がり出た直後、コドラの鋼の体が入口に突っ込み、岩が大きく揺れた。振り返ると、暗い隙間の向こうで太い前脚だけがこちらへ伸び、青い目が俺たちを真っすぐ睨んでいる。
「……っ」
まだ終わってない。
俺はラルトスを抱え直し、もう一度走り出した。曲がり角を一つ、二つ、三つ。どこをどう走ったのかなんて覚えていない。足音が遠くなっても、すぐには止まれなかった。コドラの姿は見えないのに、振り返ったらそこにいる気がして、俺はただ前だけを見て走り続けた。
ようやく壁へ背中を預けた時には、息が喉に引っかかって、まともに吸うことも吐くこともできなかった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
腕の中を見る。ラルトスがじっと俺を見上げていた。逃げようとはしない。目も逸らさない。俺のパーカーを掴んだ指は、そのままだった。
『……どうして』
小さな声だった。
「どうしてって……」
息が整わない。うまく笑えない。格好いいことなんて、何も言えなかった。
「目の前にいたから」
肩で息をしながら口の端だけを動かす。
「格好いい理由なんかねぇよ」
ラルトスは何も言わない。ただ、俺のパーカーを掴んだまま、小さく俯いた。
『……ありがと』
聞こえたのは、その一言だけだった。
「……おう」
返事をした、その時、暗い通路の奥で小石が転がる音がした。俺とラルトスは同時に顔を上げる。コドラの足音じゃない。じゃあ、誰だ。暗闇の向こうから返事はなく、洞窟の静けさだけが、ゆっくりと戻ってきた。