人の流れに押されないよう道の端を歩いていると、少し先に、周りより低く横へ広い建物が見えてきた。コトブキシティへ入ってからは、首が痛くなるほど高い建物ばかり見上げていたせいか、かえってその形が目に留まる。入口には俺と同じくらいの子どもたちが何人も出入りしており、壁には大きな看板が掲げられていた。
ポケモンスクール。
「スクール……?」
名前だけなら聞いたことがある。旅へ出る前の子どもや、トレーナーを目指す人が、ポケモンのことや道具の使い方を学ぶ場所らしい。父さんや母さんから話を聞いた時は、クロガネにはない建物として覚えていただけだったが、実際に目の前へ立つと、入口の向こうが気になった。
『……がっこう?』
「たぶん。ポケモンのことを勉強するんだって」
『……いっぱい、おぼえる?』
「学校なら、まあ……いっぱいだろうな」
ラルトスの声が露骨に沈み、看板を見上げていた顔まで少し下がったので、思わず笑ってしまう。
「まだ中にも入ってないのに、嫌そうな顔するなよ」
『……いっぱいは、つかれる』
「俺だって得意じゃないけど、見るくらいなら大丈夫だろ。ちょっと入ってみようぜ」
『……うん』
ラルトスが頷き、クチートも校舎を見上げてから俺たちについてきた。
扉を抜けると、それだけで外の音が遠くなった。大通りでは宣伝の声や車の音、人とポケモンの声が絶えず混ざっていたのに、校舎で聞こえるのは廊下を歩く足音と、教室から漏れてくる先生の声くらいだった。決められた時間に同じ年頃の子どもたちが集まり、机へ並んで座っている光景は想像したことがあったが、その空気の中へ立つと、何となく背筋が伸びる。
「……静かだな」
『……うん』
ラルトスも小さな声で返し、開いた教室の扉へ目を向けた。中では先生が黒板へ何かを書き、生徒たちは手元のノートと見比べながら話を聞いている。廊下を歩く子どもたちも大声を出さず、通り過ぎる時には俺たちの方をちらりと見た。
「見学かしら?」
近くを歩いていた女性に声を掛けられ、俺は姿勢を正した。
「あ、はい。中を見てもいいですか?」
「もちろん。授業中の教室へ入らなければ、廊下の資料は自由に見ていいわよ。分からないことがあれば、近くの先生へ聞いてね」
「ありがとうございます」
女性が奥へ歩いていくのを見送り、俺たちは廊下へ貼られた資料を順番に見ていった。ポケモンの生態や地方ごとの分布、進化、特性、状態異常、リーグの仕組みまで、聞いたことのある言葉と、初めて見る言葉が同じくらい並んでいる。
ひとつ読めば、その説明の中に別の分からない言葉が出てきて、横の資料へ目を移せば、今度は見たことのない図が出てくる。父さんや母さんから旅のことを教わり、ラルトスと暮らし、クチートの件にも関わったので、少しくらいはポケモンのことを知っているつもりだったが、ここへ来てから数分で、その考えはずいぶん怪しくなった。
「……知らないことばっかりだな」
『……しらない』
「ラルトスも?」
『……いっぱい』
「それ、便利な言葉になってきたな」
ラルトスが少し不満そうに見上げてきたところで、壁一面を使った表の前へ辿り着いた。
タイプ相性表。
炎、水、草なら何となく分かる。火は草を燃やし、水は火を消し、草は水を吸う。けれど、その隣から電気、地面、岩、鋼、フェアリーと増えていき、表の中を伸びる線まで追い始めると、どこを見ていたのか分からなくなった。
「これ、全部覚えるのか?」
『……むり』
「諦めるの早くないか?」
『……いっぱい』
「それは見れば分かるって」
「それくらい覚えておかないと、旅に出てから困るよ」
後ろから声が聞こえ、俺とラルトスが同時に振り返ると、黒を基調にした学生服を着た子が立っていた。短い黒髪に、こちらをまっすぐ見る目。俺と同じくらいの年に見えるが、声は低く、話し方にも迷いがない。
その隣には、丸く大きな体をした、見慣れないポケモンがいた。眠そうな目で俺たちを見ており、立っているだけなのに、地面へ根を張っているような落ち着きがある。
「これ、覚えてるのか?」
「うん」
「全部?」
「全部」
「嘘だろ」
「なんで最初から嘘だと思うのさ。分かりやすいところから順番に覚えればいいんだよ。炎は草に強くて、水は炎に強い。そこまで分かるなら、あとは似たものを繋げていけばいい」
「そこまでは分かる。地面が電気に強いのは?」
「電気が地面へ逃げるから。細かく言えば少し違うけど、最初はそれくらいで覚えても困らないよ」
「逃げるのか……?」
『……どこへ?』
「俺に聞くなよ」
ラルトスと揃って首を傾げていると、その子の口元が少しだけ緩んだ。
「キミ、旅に出たばかりでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「街へ入ってから、時計台を見て止まって、人の多さに驚いて止まって、建物を見上げながら歩いて人にぶつかってたから」
「そこまで見てたのか?」
「たまたま同じ方へ歩いてただけ。キミが目立ってたのもあるけど」
「そんなに?」
「かなり」
迷いなく言い切られ、反論したかったが、どれも実際にやったことなので何も返せない。馬鹿にしている感じはなく、面白いものを見つけたような目でこちらを見ているので、腹は立つが嫌な感じはしなかった。
「お前、このスクールの生徒?」
「違うよ。ボクも旅の途中」
「じゃあ同じか。俺はユア、クロガネから来た」
「ボクはアイ。パルデアから来たんだ」
アイが差し出した手を握る。小さな手だったが、握り方には迷いがない。
「よろしくな、アイ」
「よろしく、ユア」
手を離すと、ラルトスがアイの隣にいるポケモンを見上げ、小さく声を漏らした。
『……おおきい』
丸いポケモンは、のんびりと瞬きをする。
『……やわらかそう』
「この子はドー。ボクの相棒で、パルデアのポケモンだよ」
「ドオーじゃね?」
パルデアという単語とドーというニュアンスで以前図鑑で見たドオーというポケモンを思い出しながらそう突っ込むとアイは不思議そうに瞬きをした。
「うん、ドーだよ」
「いや、だからドオーだろ?」
「だから、ドーって言ってるけど」
「……言ってないと思う」
「言ってるよ」
アイは本気で正しく発音しているつもりらしく、隣のドオーへ確認するよう顔を向けた。ドオーは慣れているのか、ゆっくり目を閉じる。
「ほら、ドーもそう言ってる」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔を見れば分かるよ」
「ほとんど変わってないぞ、その顔」
俺が言うと、ドオーは少しだけ顔を持ち上げ、
「どおぉー」
と間延びした声で鳴いた。
「ほら」
「何に同意したのか全然分からないって」
ラルトスが口元へ手を当てて笑い、クチートの大顎も短く鳴った。初めて会ったばかりなのに、アイとは妙に話しやすかった。クロガネでは大人や職人と話すことが多く、同じくらいの年の子と、こんなふうに言い合ったことはほとんどない。
「なんか、ちょっと嬉しいな」
俺がそう言うと、アイが首を傾げた。
「何が?」
「旅に出てから、同じくらいの年の男の子とちゃんと話すの、初めてだからさ。男友達とかいなかったし」
アイの動きが止まった。
ラルトスが首を傾げ、ドオーはのんびり瞬きをする。数秒の沈黙のあと、アイが低い声で聞き返した。
「……男友達?」
「うん」
「誰が?」
「誰って、アイが」
アイは黙ったまま俺を見た。さっきまで普通に話していたはずなのに、目だけが急に鋭くなる。
「ボクが男に見える?」
「え?」
「見える?」
「いや、その……」
「見える?」
「圧かけるのやめろって」
「質問してるだけだけど。ボクが男に見える?」
逃げ道がない。最初に見た時から、ずっと男の子だと思っていた。
「……ちょっと?」
「ちょっとかぁ……」
アイは片手で顔を覆い、深いため息を吐いた。隣のドオーが慣れた様子で、
「どおぉー……」
と少し低く鳴く。
「女だよ」
「マジで?」
「マジだよ」
「ごめん」
「今ので何回目だろうな……」
アイは天井を見上げた。本当に疲れた顔をしているので、たぶん今までも何度も間違われてきたのだろう。
「……どうして男だと思ったの?」
「え?」
「ボクを男だと思った理由」
「いや……」
本気で考える。
低い声に、短い髪、黒を基調にした学生服。どれを見ても男にしか見えなかったが、改めて顔を見れば、どこか中性的で、女だと言われればそう見えなくもない。
じゃあ俺が、最初から男だと思い込んだ決め手は何だったんだろう。
「あ」
ふと、視線が一か所で止まる。
「胸か」
「……は?」
一瞬、廊下の音が消えたように感じた。
『……むね?』
ラルトスが首を傾げ、ドオーがゆっくり目を閉じる。
ガチン。
クチートの大顎が鳴った。
「ユア」
アイが静かな声で俺の名前を呼ぶ。
「なんだ?」
「それ以上喋るな」
「なんでだよ。本気で考えた結果だぞ」
「だから口に出すなって言ってるんだ」
「でも、聞いたのはアイだろ」
「ここまで酷い答えが返ってくるとは思わなかったんだよ!」
アイの声が廊下へ響き、通りかかった子どもたちが一斉にこちらを振り返った。俺は少し肩を縮める。
「ごめん?」
「疑問形じゃなくて、ちゃんと謝って」
「ごめん」
「……うん」
「許してくれた?」
「違う」
「じゃあ今の『うん』は何だったんだよ」
「謝罪は聞いたって意味」
「難しいな」
「キミが悪い」
アイは深く息を吐いたが、怒りは収まっていないらしく、俺を睨んだままドオーの背中へ手を置いた。
「決めた」
「何が?」
「キミと勝負する」
「急だな」
「確かにボクは胸が小さいよ。でも腹は立つ」
「自分で言ってるじゃん」
「自分で言うのと、人に言われるのは違うの!」
「そんなもんか?」
「そんなもん!」
「どおぉー」
ドオーがのんびり鳴くと、アイは大きく頷いた。
「ほら、ドーもそう言ってる」
「絶対分かってないだろ」
「分かってるよ。キミよりずっと」
アイは言い切ると、俺とラルトスを順番に見た。
「ボクが勝ったら、さっきのことをちゃんと反省して、もう一回謝って。それから二度と口にしないこと」
「俺が勝ったら?」
「許してあげる」
「俺が勝たないと許されないの?」
「そうだよ」
「理不尽じゃね?」
「キミが悪い」
迷いのない返事だった。けれど、怒っているだけなら、わざわざドオーを前へ出す必要はない。アイの視線はラルトスにも向いており、さっきまでとは違う真剣さが混じっている。
「それに、そのラルトスも気になる。知らない場所でも周りを見てるし、キミの声もちゃんと聞いてる。どんなふうに動くのか、バトルで確かめてみたい」
「ラルトスはすごいぞ」
『……えへへ』
「でも、トレーナーのキミが相性表をほとんど知らないなら、どこまで力を出せるかは別の話だけどね」
「言ったな」
「事実でしょ」
アイの目が少し楽しそうに細くなる。胸のことでカチンときて勝負を仕掛けたのは間違いないが、今はそれだけでもなさそうだった。
アイの隣でドオーがゆっくり前へ出る。動きはのんびりしているが、大きな体がこちらへ向いただけで、さっきまでの空気が変わった。
「ドオーって、本当にバトルできるのか?」
「ボクのドーは強いよ」
「見た目はかなりのんびりしてるぞ」
「のんびりしてることと、弱いことは別だからね」
「どおぉー」
ドオーが低く鳴き、ラルトスが俺を見上げる。
『……やる?』
「ああ」
俺が頷くと、ラルトスは一歩前へ出た。クチートも二匹へ赤い瞳を向けている。
「受けて立つ。相性表を全部覚えてなくても勝てるって見せてやるよ」
「それ、勝ってから言った方がいいと思うけど」
「先に言った方が格好いいだろ」
「負けたらかなり格好悪いよ」
「負けなきゃいい」
初めて会ったばかりなのに、さっきまでは友達になれそうだと思っていた相手なのに、今は絶対に負けたくなかった。