むつかちい……
ポケモンスクールの裏には、授業や実技訓練で使う小さなバトルコートがあった。周囲を低い柵で囲まれ、踏み固められた地面には白い線が引かれている。今はほかに使っている人もおらず、校舎の向こうから届く街の喧騒だけが、風に混じってかすかに聞こえていた。
アイは慣れた足取りでコートの反対側まで歩き、白線の手前で振り返った。その隣にはドオーがいるが、これから勝負が始まるというのに、相変わらず眠そうな目をしている。
正直、強そうには見えなかったが、見た目だけで決めつけてはいけないことは、クチートと出会って嫌というほど知った。のんびりしているように見えても、アイが自信を持って相棒と呼ぶポケモンだ。何かあると思った方がいい。
「お互い一匹ずつ、どちらかが戦えなくなったら終わり。」
「ああ。俺はラルトスでいく」
「ボクはドー。これで決まりだね」
「ドオーな」
「うん、ドーだよ」
「……もういいや」
「どおぉー」
ドオーが間延びした声で鳴くと、アイは満足そうにその頭を撫でた。クチートも勝負には興味があるらしく、柵の向こうからコートへ目を向けている。
ラルトスが俺の前へ進み、小さな手を握った。
『……やる』
「ああ。旅に出てから何度か戦ってきたし、俺たちならいける」
『……うん』
野生のポケモンとの勝負では、一度も負けていない。ラルトスは技の扱いにも慣れ、俺の声を聞けばすぐに動いてくれる。アイがどれだけ勉強していても、実際に戦えば俺たちだって負けない。
アイがドオーの隣で腰を落とし、俺もラルトスの背中へ目を向けた。
「準備はいい?」
「いつでも来い」
「じゃあ始めよう。ドー、“どろかけ”」
開始と同時にドオーが前脚で地面を掻き、巻き上げられた泥がラルトスへ飛んだ。
「ラルトス、右!」
ラルトスは素早く跳んだものの、避けきれなかった泥が肩と足へ当たり、着地した体が小さく揺れた。顔の近くにも飛んだらしく何度か目を瞬かせているが、すぐにドオーへ向き直り、俺の次の言葉を待っている。
「ラルトス、大丈夫か?」
『……だいじょうぶ』
「もう一度。“どろかけ”」
「“テレポート”!」
ドオーが再び地面を掻くより早く、ラルトスの体が淡い光に包まれた。飛んできた泥が空を切り、次の瞬間にはドオーの背後へ姿を現す。
「今だ、“ねんりき”! そのまま持ち上げろ!」
ラルトスの瞳が青く光り、見えない力に包まれたドオーの巨体がゆっくり浮き上がった。あれだけ大きな相手を持ち上げられるなら、そのまま地面へ叩きつけられる。俺がさらに力を込めるよう叫ぶと、ドオーの体はもう少し高く持ち上がったが、アイは少しも慌てず、浮かされた相棒を見上げていた。
「暴れなくていいよ。体を丸めて、力の向きをずらして」
ドオーは短い脚を畳み、力を抜くように体を縮めた。ラルトスが支えていた位置がずれたのか、小さな腕がわずかに揺れ、その隙に重い体が地面へ落ちる。大きな音とともに砂埃が上がったが、ドオーは横倒しにならず、腹を地面につけたまま顔を上げると、その場で体の向きを変えた。
「そのまま、“マッドショット”」
「避けろ!」
口元から放たれた泥の塊へラルトスは横へ跳んだが、俺の声が届いた時には攻撃が目の前まで迫っていた。泥の塊が足元へ当たり、その勢いで小さな体が地面を転がる。
「ラルトス!」
『……まだ』
ラルトスはすぐに立ち上がったものの、泥の付いた足をかばうようにしていた。それでもドオーから目を逸らさず、次の指示を待っている。
「“ねんりき”だ! 今度は横から押せ!」
青い光が再びドオーを包み、巨体が地面を滑った。浮かせるよりも手応えがあり、太い跡を残しながら少しずつ後ろへ押されていく。ラルトスの額には汗が浮かび、呼吸も荒くなっていたが、ドオーを動かせているのを見て、俺はそのまま押し切るよう声を張った。
「今だよ、ドー。“どろばくだん”」
アイは避けるよう指示せず、ドオーも念力を受けたまま口を開いた。大きな泥の塊が正面から飛び、ラルトスは念力を解いて横へ跳ぶ。泥爆弾が地面へ落ちて大きく弾けたため、飛び散る泥から逃れるようさらに右へ動いたが、アイの声は着地より先に響いていた。
「その先へ、“マッドショット”」
「ラルトス、後ろへ!」
叫んだ時には、もう泥の弾丸が放たれていた。着地したばかりのラルトスは足を止められず、まともに攻撃を受けて吹き飛ばされる。
『……っ!』
地面を転がったラルトスが膝をつき、片手を地面へついた。
「なんで……」
最初の攻撃を避けた先へ、次の攻撃が飛んできた。
ーー偶然じゃない。
アイはラルトスがどちらへ避けるのか分かっていた。いや、泥爆弾を大きく弾けさせ、避けられる場所を最初から絞っていたのかもしれない。
「立てるか、ラルトス!」
『……うん』
ラルトスは震える足へ力を入れ、ゆっくり立ち上がった。全身を泥で汚し、息を乱しながらも、まだドオーを見ている。
ーーラルトスは頑張っている。
ーー俺が何とかしなきゃいけない。
「もう一度、“テレポート”で後ろへ回って、“ねんりき”だ!」
ラルトスの姿が消れた。今度こそ先に攻撃するつもりだった。
「ドー、後ろへ尻尾を振って」
だけどラルトスが現れた瞬間、ドオーの太い尻尾が横へ薙ぎ払われた。技ではなく、近づかせないための動きだったが、現れたばかりのラルトスは足を止め、念力を放つ機会を失う。そのままドオーが振り向き、アイの指示で“マッドショット”を放つと、俺はもう一度“テレポート”を叫んだ。
ラルトスの姿が消え、泥の弾丸が何もない場所を通り抜ける。
ーー次はどこへ出す。正面では近すぎるし後ろはまた読まれるかもしれない。それなら横だ。ドオーの左側なら、アイからも少し遠い。
「左だ!」
ドオーの左側にラルトスが現れた時、アイの目はすでにそちらを向いていた。
「“どろかけ”」
泥がラルトスの顔へ降りかかり、小さな両腕が反射的に目元を庇う。その場で足が止まり、攻撃へ移ることができない。
「なんで分かるんだよ!」
「キミが見てたから」
「俺が?」
「“テレポート”を使わせる前から、ずっとドーの左側を見てた。次にどこへ出したいのか、自分で教えてくれてたんだよ」
言われて初めて、自分がさっきまで見ていた場所に気づいた。俺はラルトスへ指示を出すより前に、逃げ道を目で追っていた。
アイは、ラルトスだけではなく俺を見ていた。
「ラルトスはキミの言った通りに動いてる。だから、キミが迷えば、その分だけ次の動きも遅くなるよ」
「……まだ終わってない」
「うん。だから続けよう」
アイは勝ち誇るでもなく、ただドオーへ目を向けた。その落ち着いた声が、余計に悔しかった。
「ラルトス、“ねんりき”!」
とにかく攻撃しなければと思い、声を張り上げる。ラルトスの瞳が光り、念力がドオーへぶつかったが、呼吸が乱れているせいか、さっきまでより力が弱い。
「ドー、そのまま前へ」
ドオーは念力を受けながら、一歩ずつ進んできた。押し返そうとするラルトスの腕が震え、その距離が少しずつ縮まっていく。
「もっと力を入れろ!」
『……っ』
ラルトスは応えようとしてくれるけれど、俺はこの攻撃の次を考えていなかった。ドオーがこのまま近づいてきたら、どうする。
“テレポート”で離れるのか、“ねんりき”を続けるのか、それとも横へ避けるのか。
ーー右か。
ーー左か。
ーーそれとも、“テレポート”か。
決められないまま、ドオーはさらに距離を詰めてくる。
「ドー、“マッドショット”」
ドオーが念力を押し切り、至近距離から泥の弾丸を放った。
「ラルトス、避け……!」
言葉が続かない、ほんの一瞬だった。泥の弾丸がラルトスを捉え、小さな体が地面へ叩きつけられる。
『……っ』
「ラルトス!」
倒れたラルトスへ駆け寄り、泥だらけの体を抱き起こした。息はしているが、もう立ち上がれる状態ではなく、それでも薄く目を開くと、小さな手で俺の服を掴んだ。
『……ごめん』
「違う。謝るのは俺だ」
ラルトスは最後まで、俺の指示に応えようとしてくれた。迷ったのは俺だった。苦しくなるたびに、その場を抜けるための指示だけを出し、そのあとを考えていなかった。ラルトスなら何とかしてくれると思い、頑張らせるばかりで、自分は何も準備できていなかった。
ーー負けたんじゃない。
ーー俺が、負けさせた。
アイはドオーの頭を撫でてから、こちらへ歩いてきた。勝ったことを喜ぶ様子はなく、俺の腕の中にいるラルトスを見て、静かに口を開く。
「そのラルトス、本当に強いよ。“どろかけ”で見えにくくなっても、何度攻撃を受けても、最後までキミの指示を待ってた。問題はラルトスじゃない。キミは指示を出してから次を考えてたけど、ボクはドーへ指示を出す前に、そのあとキミたちがどう動くかまで考えてた。その差が、少しずつ重なったんだよ」
何も言い返せなかった。どの言葉も、さっきの勝負の中で見せられたことだった。アイは俺たちの前でしゃがみ、ラルトスの様子を確かめてから、俺と目を合わせる。
「……話そうか。何が駄目だったのか、最初から一緒に考えよう」
その声は、勝った相手を見下すものではなかった。
俺はラルトスを抱いたまま、小さく頷いた。