バトルが終わったあとも、俺はしばらくベンチから動けなかった。ラルトスに大きな怪我はなく、今は隣に座り、両手で持った木の実を少しずつかじっている。泥で汚れていた体も軽く拭いてもらい、呼吸はすっかり落ち着いていたが、俺の頭では、さっきの勝負が何度も繰り返されていた。
アイの指示は、いつも俺より早かった。ラルトスが避けるより先に、その着地点へ攻撃が飛び、俺が次の手を考えている間にも、ドオーは迷わず動いていた。ラルトスは何度倒されても立ち上がり、最後まで俺の声を待ってくれたのに、俺はその頑張りへ応えることができなかった。
『……ごめん』
ラルトスが食べかけの木の実を膝へ置き、俯いた。
『……まけた』
「違う。ラルトスが謝ることじゃない」
考えるより先に否定すると、ラルトスが小さく首を傾げた。
『……ユア?』
「途中から、何を言えばいいのか分からなくなってた。避けろとか攻撃しろとか、その時に思いついたことを叫んでただけで、次のことなんて何も考えてなかったんだ。ラルトスは俺の言った通りに動いてくれたのに、俺がちゃんと指示できなかった」
ラルトスは責めるでも慰めるでもなく、ただ俺の顔を見ていた。何か言ってくれた方が楽だったかもしれないが、口を閉じたまま続きを待たれると、勝負の途中で迷った瞬間まで、余計にはっきり思い出してしまう。
「……納得いかねぇ」
「負けたことが?」
向かい側のベンチから声が返ってきた。アイはドオーの隣に座り、その平たい頭を撫でながらこちらを見ている。
「負けたのも悔しい。でも、それより何もできなかったのが悔しい。ラルトスは最後まで戦ってたのに、俺は途中から焦って、攻撃を叫ぶことしかできなかった」
「うん。途中からキミ、次に何をするか決められてなかったからね」
「あっさり言うなよ」
「違うって言ってほしかった?」
「……いや」
「なら、ボクが見たままを言うよ。ただ、ラルトスは強かった。“ねんりき”の使い方も上手だったし、“テレポート”でドーの後ろへ回った時も速かった。泥で見えにくくなってからも周りを見て、最後までキミの指示を待ってたし、正直、思っていたよりずっと手強かったよ」
ラルトスが顔を上げ、照れたように目を細める。
『……えへへ』
「ラルトスがそんなに強かったなら、なんであんなに差がついたんだよ」
「経験かな。キミはラルトスとドーを見てたけど、ボクはドーとラルトス、それからキミを見てた」
「俺も?」
「ポケモンバトルでは、トレーナーも一緒に戦うからね。指示を出すだけじゃなくて、相手がどこを見てるか、次の手を迷ってるか、何を狙ってるかも考える。キミは“テレポート”を指示する前からドーの左側を見てたし、追い詰められてからは、ラルトスより先に慌ててたよ」
「……そんなに分かりやすかった?」
「かなり」
迷いのない返事に、思わず両手で顔を覆った。アイに全部見られていたことも恥ずかしいが、自分では最後まで気づいていなかったことの方が、もっと恥ずかしかった。
「別に、キミだけじゃないよ。ボクも最初は指示を出すだけで精いっぱいだったし、ドーが攻撃を受けるたびに慌ててた。だから学校で勉強して、何度も勝負して、少しずつ次を考えられるようになったんだ」
「アイも負けたことあるのか?」
「あるよ。何度も。次のことを考えずにドーを動かして、無理をさせたことだってある」
「ドオーに怒られた?」
「怒られたというより、しばらく返事をしてもらえなかった」
「今も返事してるか怪しいけどな」
「どおぉー」
ドオーがのんびり鳴くと、アイは得意そうにこちらを見る。
「ほら、ちゃんと返事してる」
「何て言ったんだよ」
「ユアよりボクの方が正しいって」
「ホントかよ」
ラルトスが木の実を食べ終え、ベンチから降りると、ドオーの前まで歩いていった。
『……つよかった』
「どおぉー」
『……やさしい』
「それはそうだよ。ボクの相棒なんだから、ドーは強くて優しいに決まってる」
アイが当然のように言うと、ドオーは大きな尻尾をゆっくり揺らした。さっきまで本気でぶつかり合っていた二匹が、今は静かに顔を合わせている。その様子を眺めているうちに、握ったままだった手から少し力が抜けた。
「なあ、アイって、どれくらい旅してるんだ?」
「本格的に始めてからは一年くらいかな」
「一年?」
「うん。十歳でパルデアの学校に入って、最初の一年はずっと勉強してた。それから旅へ出て、今は十二歳」
「じゃあ、二つ上か」
「そうなるね」
一年と聞けば短いようにも思えるが、さっきの勝負を見たあとでは、とてもそうは思えなかった。俺がその場で次の指示を探している間に、アイはドオーが動いたあとまで考えていた。学校で覚えたことも、旅をしながら戦った経験も、全部あの勝負へ繋がっていた。
「……俺、知らないことだらけだな」
「旅に出たばかりなら当たり前でしょ。最初から何でも知ってる方がおかしいよ」
「アイはなんでも知ってそうだけど」
「知らないことはたくさんあるよ。だから旅してるんだし。それに、キミだってボクの知らないことを知ってそうだよ」
「俺が?」
「普通、旅に出たばかりの子がクチートを連れて歩いてないからね。クチートは本来、町の中で見かけるポケモンじゃない。どうやって一緒に旅をすることになったのか、少し気になる」
俺がクチートへ顔を向けると、赤い瞳がこちらを見返した。坑道で何があったのか、どんな場所を守っていたのか、今ここで全部話すことではないと思い、俺はクチートからアイへ視線を戻した。
「いろいろあったんだよ」
「その言い方、余計に気になるけど、今は聞かないでおく。それに、ラルトスもキミをかなり信頼してるみたいだしね」
「それも見れば分かる?」
「ラルトスは勝負が終わったあと、最初にキミへ謝ったでしょ。負けたことより、キミを困らせたと思ったんじゃないかな」
ドオーのそばにいたラルトスが、ゆっくり俺へ顔を向ける。
『……ごめん』
「だから、謝るのはラルトスじゃないって。次は俺がちゃんとする。指示を出して終わりじゃなくて、そのあと相手がどう動くかまで考える。すぐにアイみたいにできるかは分からないけど、ラルトスだけに頑張らせるのはもう嫌だ」
ラルトスはしばらく俺を見つめ、小さく頷いた。
『……うん。いっしょ』
「ああ、一緒に考えよう」
言葉にしたところで、急に強くなれるわけではない。タイプ相性も、技のことも、バトルの組み立て方も、知らないことは山ほど残っている。それでも、何を覚えなければならないのかは、勝負の前より少しだけ見えた。
「まあ、次は同じ負け方をしないように頑張ればいいよ」
「次?」
アイは立ち上がり、制服についた土を軽く払うと、当然のようにこちらを見た。
「次も戦うつもりだけど。今日一回勝っただけで終わりじゃないでしょ?」
「今度は俺が勝つ」
「次は負けないから」
「それ、俺の台詞だろ」
「早い者勝ち」
アイが楽しそうに笑い、俺もつられて笑った。今日会ったばかりなのに、言い返されることにも、次の勝負を約束することにも、不思議なくらい違和感がない。
負けた悔しさは、まだ残っている。
けれど、さっきまでみたいに下を向いている気はなかった。