アイと別れたあと、俺たちは夕方のコトブキシティを歩いていた。通りには昼間にはなかった明かりが灯り始め、仕事を終えた人や買い物袋を抱えた人、宿を探しているらしい旅人たちが、同じ道をそれぞれ違う方角へ進んでいる。昼より人は減っているはずなのに、話し声も足音も途切れず、街はまだ休むつもりがないように見えた。
「負けたなぁ……」
『……うん』
「そこは少しくらい否定してくれてもいいだろ」
『……でも、まけた』
「それはそうだけどさ」
ラルトスは変に慰めようとせず、見たままのことをそのまま口にする。いつものラルトスらしくて、思わず苦笑した。
『……くやしい?』
「かなりな」
すぐに答えると、ラルトスは歩きながら小さな手を握った。
『……わたしも』
「あれだけ泥だらけにされたもんな」
『……つぎは、かつ』
「うん。次は俺も、ちゃんと次のことまで考えるよ」
ラルトスが小さく頷く。アイの指示やドオーの攻撃を思い出せば、今でも悔しくて歯を食いしばりたくなるが、ただ嫌なものとして残っているわけではなかった。足りなかったものは少し見えたし、次に戦う時は、今日とは違うことをしたいと思える。
通りを曲がったところで、周りとは雰囲気の違う建物が目に入った。灰色の石を積み上げた壁には細かな模様が刻まれ、入口の脇には古びた地図や、大きな石へ何かを彫り込んだ絵が飾られている。目立つ色の看板も、大きな画面もないのに、にぎやかな店の間で、そこだけ時間の流れが遅いように見えた。
「なんだ、ここ」
入口の上に掲げられた看板を読む。
歴史資料館。
『……しりょうかん?』
「昔のことを調べる場所、だと思う」
飾られている古い地図には、今いるコトブキシティらしい場所も描かれていたが、町の形も、書かれている名前も、俺が知っているものとは違っていた。少し見ただけなのに、その先に何が並んでいるのか気になった。
「入ってみようぜ」
『……うん』
資料館の扉を開けると、外の音が一気に遠ざかり、少し冷たい空気と、古い紙や乾いた石の匂いが流れてきた。壁には今の地図と昔の地図が並べられ、展示台には欠けた石板や、使い方の分からない道具が置かれている。触れないよう透明な板で囲われ、その横には細かな説明が書かれていたが、読み始めてすぐ、知らない言葉につまずいた。
「……また分からない言葉だ」
『……いっぱい』
「スクールより多くないか?」
『……むずかしい』
ラルトスが早くも疲れた声を出し、俺は笑いながら次の展示へ進んだ。古いシンオウ地方の地図には、テンガン山や湖らしいものが描かれているが、今ある町の名前が見つからない場所も多い。山や湖は同じところにあるはずなのに、知らない名前が書かれているだけで、別の地方を見ているようだった。
「同じ場所なのに、全然違って見えるな」
「名前が変わると、景色まで変わって見えるものね」
すぐ後ろから声が聞こえ、振り返ると、一人の女の人が立っていた。長い金色の髪に黒い服をまとい、片腕には何冊かの本を抱えている。年は俺よりずっと上に見えるが、父さんや作業場の大人たちとは違う、静かで柔らかな雰囲気があった。
「あ、すみません。声に出てました?」
「ええ。でも、面白い見方だと思ったわ」
女の人は地図の前まで来ると、俺が見ていた場所へ視線を向けた。
「山や湖は、今とほとんど変わらないの。人が町を作り、名前をつけ、その名前も少しずつ変わっていった。地図には土地だけではなく、その時代を生きた人の見方も残るのよ」
「人の見方?」
「同じ山でも、目印として見る人もいれば、越えられない壁として見る人もいるでしょう。大切な場所だと思う人もいれば、恐ろしい場所だと思う人もいる。描いた人が違えば、同じ地図にはならないの」
難しい言い方ではなかったが、すぐに全部分かったわけでもない。俺は古い地図と今の地図を見比べた。形は似ているのに、町の大きさや道の書き方は違っている。昔の人が何を大事だと思ったのかで、目立たせる場所も変わったのかもしれない。
「地図って、場所を書くだけじゃないんですね」
「そうね。描いた人のことまで少し分かる。だから面白いの」
女の人が楽しそうに笑ったので、つられてもう一度地図へ目を向けた。答えを教えられたというより、今まで見えていなかったところを指で示されたような気がする。
隣の展示台には、文字なのか模様なのか分からない線が刻まれた石板の写真が置かれていた。
「これ、読めるんですか?」
「少しだけ。でも、読めるところより、読めないところの方が多いわ」
「詳しそうなのに?」
「詳しくなればなるほど、分からないものも増えるのよ」
「それ、困りません?」
「困るわね。でも、退屈はしないでしょう?」
女の人は少しだけ口元を上げた。真面目なことを言っているはずなのに、俺が困った顔をするところまで楽しんでいるようにも見える。
『……いじわる』
ラルトスが小さく呟いた。
女の人はラルトスへ目を向け、くすりと笑った。
「あら、気を悪くした?」
『……ほんきでいってない』
「知ってるわ。顔を見れば少し分かるもの」
ラルトスは慌てて両手で頬を隠したが、もう遅い。俺が笑うと、ラルトスは今度はこちらを睨んだ。
女の人の視線がクチートへ移った。ほんの一度、赤い瞳と大顎へ目を向けたものの、驚いたり、何かを尋ねたりせず、自然に石板へ視線を戻す。
「クチート、怖くないんですか?」
「今のところ、怖がる理由はなさそうね」
「どうして分かるんです?」
「私より、あなたの様子を気にしているから。少なくとも、今は私を追い払うより、あなたの近くにいる方が大事みたい」
振り返ると、クチートは俺と女の人を交互に見ていた。大顎は鳴らず、こちらへ来ることもない。ただ、何を話しているのか確かめているようだった。
「よく見てますね」
「見られていたから、見返しただけよ。これ以上のことを知るには、もう少し長く見ないといけないけれど」
分かったように決めつけず、分かるところだけを口にする。その話し方が、少し不思議だった。
「昔のことも、ポケモンのことも詳しいんですね」
「好きだから、長く見ているの」
「歴史が好きなんですか?」
「歴史も、神話も、それから、まだ答えの見つかっていないものも好きね」
「答えがないのに?」
「ないと決まったわけではないわ。まだ見つかっていないだけかもしれないでしょう」
女の人は地図の中央に描かれたテンガン山へ顔を向けた。
「たとえば、テンガン山には、世界を作った神が住んでいると言われているの」
「テンガン山に?」
思わず地図へ顔を近づける。クロガネにいた頃から何度も見てきた山だ。迷い込んだことも、ラルトスと出会ったこともある。そんな場所に世界を作った神がいると言われても、すぐには信じられなかった。
「見たことあるんですか?」
「ないわ」
「じゃあ、いないかもしれない?」
「そうかもしれないし、いるのかもしれない。神話は、分からないことを分からないまま残してくれるの」
「残してくれる?」
「昔の人が考えたことを、今の人も考えられるでしょう。答えが決まっていたら、一度読んで終わってしまうもの」
女の人は石板の写真へ指先を向けた。
「これは何を描いたのか。どうして残したのか。昔の人は何を見て、何を信じたのか。考える人がいる限り、古い話は昔だけのものにはならないわ」
少し難しかったが、何となく言いたいことは分かった。世界を作った神が本当にいるかどうかだけではなく、どうしてそんな話が生まれ、長く残ってきたのかも大事なのだろう。
「それで、ずっと調べてるんですか?」
「ええ。好きなことは、つい長く続けてしまうでしょう?」
「仕事なんですか?」
「仕事でもあるわね」
「どんな仕事?」
女の人は少し考えるように目を上へ向け、それから楽しそうに笑った。
「古いものを調べたり、旅をしたり、時々、人やポケモンと勝負をしたりする仕事かしら」
「そんなに色々する仕事あるんですか?」
「あるところにはあるのよ」
「どこに?」
「それは秘密」
「教えてくれてもいいじゃないですか」
「今教えたら、あとで気づく楽しみがなくなってしまうもの」
「俺が気づくんですか?」
「旅を続けていれば、いつかね」
からかわれている気もするが、女の人は嘘を言っているようには見えない。古いものを調べ、旅をし、人やポケモンと勝負する。全部を繋げても何の仕事なのかは分からず、考えるほど余計に気になった。
「あなたは、どうして旅を始めたの?」
今度の問いには、すぐに答えられなかった。クロガネの外を見たい。知らないポケモンに会いたい。ジムにも挑戦してみたい。アイに負けた今は、もっと強くなりたいとも思っている。
「もっと知りたいから、だと思います。クロガネにいた時は、ポケモンのことも、町のことも、結構知ってるつもりでした。でも、外に出たら知らないものばっかりで、今日だって街も、学校も、バトルも、分からないことだらけでした」
「知らないものを見つけるたび、嫌になった?」
「悔しくはなりました。でも、知った時は面白かったです。だから、もっと見てみたい」
女の人はすぐには答えず、俺と地図を静かに見比べた。長く見られると、変なことを言ったのか少し不安になる。
「何ですか?」
「あなたは、もうちゃんと旅を始めているのね」
「町を出てから何日も経ってますけど」
「そういう意味ではないわ。知らないものを見つけた時、目を逸らさず近づいている。旅を始めるのは足だけではないもの」
「……ちょっと難しいです」
「なら、旅を続けながら考えてみて。すぐに分かったら、面白くないでしょう?」
女の人はいたずらが成功したように目を細めた。難しいことを言われたはずなのに、置いていかれたとは思わなかった。今は分からなくても、そのうち分かるかもしれない。そんな言葉に聞こえた。
館内へ低い鐘の音が響き、俺は壁に掛けられた時計を見上げた。窓の外には赤い光が差し込み、展示台の石板へ細長い影を落としている。
「もうこんな時間か。宿、探さないと」
『……おなかも、すいた』
「それもあったな」
「食事と寝る場所は、旅人にとって一番大切な問題かもしれないわね」
「神話より?」
「空腹の時は、神話も食べられないでしょう?」
「それはそうですけど」
真面目な顔で言われたので、返事に困っていると、女の人は小さく笑った。本気で言ったわけではないらしい。
「あなたも旅をしてるんですよね。長いんですか?」
「終わりが見つからないくらいには」
「それ、長いってこと?」
「どうかしら」
「また秘密ですか」
「少しくらい謎があった方が、次に会った時も話すことがあるでしょう?」
女の人は抱えていた本を持ち直し、もう一度だけ古い地図へ目を向けてから、出口へ向かって歩き始めた。俺たちも資料館を出ると、夕焼けに染まったコトブキシティでは、店の明かりが昼間よりはっきり見え、通りにはまだ多くの人が行き交っていた。
「綺麗ね」
女の人が足を止め、赤く染まった雲を見上げた。つられて俺も空へ顔を向ける。クロガネでも何度も見た夕焼けのはずなのに、知らない街で見ると少し違って見えた。
「さっきの地図みたいですね」
「あら、もう気づいたの?」
「同じ空でも、見る場所が変われば違って見えるってことですよね」
「そうかもしれないわね」
「違うんですか?」
「あなたがそう見つけたのなら、それでいいのよ」
女の人は嬉しそうに笑い、ゆっくり歩き始めた。俺たちも自然に同じ道へ足を向ける。ラルトスは俺の隣で夕焼けを見上げ、クチートも何も言わず歩いていた。
資料館へ入る前より、知っていることが大きく増えたわけではない。
それなのに、見てみたいものは、さっきよりずっと増えていた。