アイと別れたあと、俺たちはコトブキの街を歩いていた。
ラルトスは俺の隣を歩いて、クチートは少し後ろの方で人混みを避けるように、壁際や建物の影を選びながら付いてきていた。
コトブキシティの夕方は不思議だ、昼間より人は少なくなっているはずなのに、賑やかさは消えない、仕事帰りの人、買い物をする人、旅人らしき人たち。
いろんな人が同じ道を行き交い、それぞれ違う場所へ向かっている。
「負けたなぁ……」
ぽつりと呟く。
『うん』
ラルトスが正直に頷いた。
「そこは否定しろよ」
『でも、まけた』
「それはそうだけど」
思わず苦笑する。
ラルトスらしいと思った。
変に慰めたりはせず、ただ事実をそのまま言う。
『くやしい?』
「かなりな」
即答だった。
ラルトスは少しだけ考えてから、小さく呟く。
『わたしも』
その言葉に少し救われた気がした。
負けたのは俺だけじゃない。ラルトスも悔しかったのだ。
あれだけ泥だらけになって、それでも最後まで立とうとしていた。
悔しくないはずがない。
それでも、不思議と嫌な気分だけではなかった。
負けた理由が分からないわけじゃない。
足りないものも見えた。
悔しさは胸の中に残っている。
でも、その悔しさはただ沈むためのものじゃない気がした。
次がある。
そう思える悔しさだった。
しばらく歩いていると、ふと大きな建物が目に入った。
石造りの落ち着いた建物だった。
通りの店や大きなモニターとは違って、派手さはない。
けれど入口には古い地図や石碑の絵が飾られていて、不思議と足を止めたくなる雰囲気があった。
「なんだここ」
看板を見る。
歴史資料館と書かれていた。
『しりょうかん?』
「たぶん、昔のことを調べる場所だ」
少し気になった。
旅に出てから、知らないことばかりだ。
コトブキシティの街並みも、ポケモンスクールの資料も、アイとのバトルも。
知らないことが次々と現れて、そのたびに自分がどれだけ小さな場所にいたのか思い知らされる。
だったら、もっと見てみたい。
そんな気持ちになった。
「少しだけ入ってみるか」
『うん』
ラルトスは頷いた。
クチートは何も言わなかったけれど、俺たちが入口へ向かうと少し遅れて付いてきた。
中へ入ると、館内は静かだった。
外の喧騒が扉の向こうで急に遠ざかる。代わりにそこにあったのは、少し冷えた空気と、古い紙や石の匂いだった。壁には昔の地図が飾られ、展示台には石板の写真や古い道具の複製が並んでいる。
シンオウ地方の歴史。
昔の人々の暮らし。
町の名前が今とは違う地図。
神話の断片。
読めば読むほど分からないことが増えていく。
「へぇ……」
思わず見入る。
クロガネには、こんな場所はなかった。少なくとも、俺がこんなふうに立ち止まって何かを読むような場所は。
昔のシンオウの地図には、今の町とは違う名前がいくつも書かれていた。
知っている地名もある。
でも知らない地名の方が多い。
山や湖の形は同じはずなのに、そこに書かれている言葉が違うだけで、まるで別の地方を見ているみたいだった。
『むずかしい』
ラルトスが小さく呟く。
「分かる」
俺も苦笑した。
その時だった。
「面白い?」
不意に後ろから声がした。
振り返るとそこにいたのは、一人の女の人だった。
長い金色の髪。黒いコート。落ち着いた雰囲気。年は俺よりずっと上に見えるけれど、大人たちの中にいる時に感じるような威圧感のようなものはなかった。
綺麗な人。
でも、それ以上に不思議な人だった。
初対面なのに、なぜか目を引かれる。
静かなのに、そこにいるだけで空気の流れが少し変わったような気がした。
「えっと……」
返事に困っていると、女の人は少し笑った。
「その地図。ずっと見ていたから」
「ああ」
俺はもう一度、古い地図を見る。
「面白いかって言われると、正直よく分からないです」
「でも気になる?」
女の人は少し目を細めた。
「どうして?」
どうして。
改めて聞かれると難しい。
俺は少し考えた。
「知らない場所だから、ですかね」
正直に答える。
「俺、クロガネしか知らなかったんです。でも旅に出たら、知らないものばっかりで。今日もそうでした。街も、人も、バトルも。分からないことばっかりで」
言葉にしてみると、思ったより胸の奥に残っていたらしい。
アイに負けた悔しさも、ポケモンスクールで見た資料も、まだ頭の中にある。
「だから、もっと知りたいなって」
女の人は黙って聞いていた。
そして、少しだけ嬉しそうに笑う。
「いい理由ね」
「そうですか?」
「ええ。知りたいと思う気持ちは、旅を長く続けるために大事なものだから」
女の人は地図の前へ歩いてくる。
俺の隣に立ち、展示されている古い地図を静かに見つめた。
「旅をする人には、いろんな目的があるわ。強くなりたい人。誰かに勝ちたい人。遠くへ行ってみたい人。珍しいポケモンに会いたい人」
指先が、地図の上に描かれた山の線をなぞる。
「でも、知りたいから旅をする人もいる」
その言葉に、少しだけ目を見開いた。
なんとなく胸に残る言葉だった。
「あなたは、そちらに近いのかもしれないわね」
「そうなのかな」
自分では分からない。
女の人は展示の一つを見る。
古い石板の写真だ。
文字なのか、模様なのか分からないものが刻まれている。
「この地方には昔から神話が多いの」
「神話?」
「ええ。シンオウの始まり。伝説のポケモン。人とポケモンがどう関わってきたのか。そういう話が、いろんな場所に残っている」
女の人はゆっくり話した。
難しい話のはずなのに、不思議と退屈じゃない。
言葉が押し付けられる感じがしない。
知らないことを無理に詰め込まれているんじゃなくて、古い扉を一つずつ開けてもらっているみたいだった。
気付けば俺は聞き入っていた。
ラルトスも同じようで、いつの間にか俺の隣で、じっと石板の写真を見上げている。
クチートだけは少し離れた場所にいた。
展示台の影に近いところから、こちらを見ている。
まだ警戒しているらしい。
女の人はそんなクチートをち1度ちらりと見たけれど、何も言わなかった。
驚きもしない。
怖がりもしない。
ただ、そこにいるものとして自然に受け止めて、すぐに視線を展示へ戻した。
それが少し意外だった。
大抵の人は驚き、距離を取る。
あるいは警戒する。
でもこの人は違った。
まるで、クチートがそこにいることも含めて当たり前みたいだった。
「詳しいんですね」
思わずそう言う。
女の人は少しだけ笑った。
「好きだから」
「歴史が?」
「それもあるわね」
曖昧な返事だった。
でも、たぶんそれだけじゃない。
「仕事みたいなものかしら」
「仕事?」
「秘密」
そう言って、女の人は少しだけ楽しそうに笑った。
なんだそれ、気になる。
その時、館内の時計が静かに時刻を知らせた。
低い音が資料館の中に響く。
俺は思わず顔を上げた。
「もうこんな時間か……」
気付けばかなり長いこと話し込んでいたらしい。
窓の外を見ると、夕焼けが街を赤く染め始めていた。
ラルトスも同じ方向を見る。
『ゆうがた』
「ああ」
宿も探さなければならない。
そんなことを考えていると、女の人も時計へ視線を向けた。
「私もそろそろ行こうかしら」
「あ、はい」
少しだけ残念だった。
神話の話は面白かったし、歴史の話ももっと聞いてみたかった。
でも引き留める理由はない。
女の人は展示されている石板へ最後に目を向ける。
その横顔はどこか名残惜しそうにも見えた。
それから静かに歩き出す。
俺たちも自然と後に続いた。
資料館の出口を抜けると、夕方の空気が肌を撫でた。
昼間ほどではないが、街にはまだ人が多い。
仕事帰りの人、買い物袋を抱えた人、旅人らしい姿のトレーナーたち。
コトブキシティは夕方になっても眠らないらしい。
女の人は空を見上げた。
「綺麗ね」
つられて俺も空を見る。
赤く染まった雲がゆっくり流れていた。
クロガネでも夕焼けは見てきたけれど、知らない街で見る夕焼けは少し違って見える。
「そうですね」
俺がそう答えると、女の人は小さく笑った。
それから何気なく歩き始める。
俺たちも同じ方向へ足を向けた。
偶然なのかわそれとも目的地が近いだけなのか。
女の人は特に何も言わない。
俺も何も聞かない。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
ラルトスは俺の隣を歩き、クチートは少し後ろから付いてくる。
夕暮れのコトブキシティを、四つの影がゆっくりと伸びていた。