『……たのしかった』
不意にラルトスが呟いた。
「ああ。難しかったけどな」
『……むずかしかった。でも、たのしかった』
「分からないこと、増えたもんな」
資料館へ入る前より、神話や昔のシンオウについて詳しくなったとは言えない。テンガン山に世界を作った神がいると言われても、本当にいるのかは分からないままだし、古い地図を見ても、知らない名前が増えただけだった。
それでも、もう少し見ていたかった。昔の人が何を考え、どうしてあんな話を残したのか、答えがないと言われたことまで気になっている。
「そろそろ宿を探さないとな」
「宿なら、この先にいくつかあるわ。旅人が多い街だから、泊まる場所には困らないと思うけれど、看板を見上げたまま歩いていると通り過ぎるかもしれないわね」
「……俺が人にぶつかったの、見てたんですか?」
「何のことかしら」
隣を見ると、女の人は前を向いたまま、口元だけを少し緩めていた。
「絶対見てたでしょ」
「さあ。でも、街では足元も見た方がいいと思うわ」
「それ、見てた人の言い方ですよ」
「よく気づいたわね」
さらりと返され、これ以上聞いても認めるつもりはなさそうだった。資料館にいた時からそうだが、この人は嘘をつかない代わりに、全部を素直には話してくれない。
少し歩くと、焼いた木の実や甘い菓子を売る屋台が並ぶ通りへ出た。香ばしい匂いが流れてきた途端、ラルトスの顔がそちらへ向く。
『……おなかすいた』
「さっき木の実を食べただろ」
『……べつばら』
「そんな言葉、どこで覚えたんだよ」
ラルトスは少し得意そうに胸を張った。誰に教わったのか聞こうとしたが、心当たりは母さんくらいしかなく、今度手紙を書く時に確かめてみようと思う。
「本当に仲が良いのね」
「七歳の時から一緒ですから。家でも、出かける時も、ほとんどずっと一緒でした」
『……ずっと』
ラルトスが俺の隣で頷く。
「長い付き合いなのね。それなら、言葉が少なくても分かることが多そう」
「分かることもありますけど、急に変な言葉を覚えてくることもあります」
『……へんじゃない』
「別腹は変だろ」
『……おなか、ふたつ』
「それは意味が違う……」
女の人が声を立てずに笑う。最初に見た時は、静かで近づきにくそうな人にも思えたが、話してみると意外とよく笑う。しかも、たぶん俺やラルトスが困っている時の方が少し楽しそうだった。
「旅に出てから、楽しい?」
女の人は屋台へ向けていた視線を戻さず、何気ない調子で言った。
「楽しいです。でも、楽しいだけじゃないです。知らないことばっかりだし、今日もバトルで負けました」
「それで、もう帰りたくなった?」
「全然。悔しいけど、次は勝ちたいです。知らなかったことも、分からないままにしたくないし」
答えてから、資料館で話したことと似ていると思った。外へ出れば、分からないものが増えていく。コトブキシティの建物も、スクールに並んでいた資料も、アイの戦い方も、クロガネにいた頃の俺は何ひとつ知らなかった。
「俺、旅に出る前は、もっと何でもできると思ってたんです。でも実際は、知らないことばっかりでした。だから、もっと知りたいです。ポケモンのことも、バトルのことも、世界のことも」
女の人はすぐには返事をせず、少し先を歩く人々を眺めていた。何か変なことを言ったのかと隣を見ると、ようやくこちらへ顔を向ける。
「知らないものに出会って、知りたいものが増えたのなら、きっと良い旅になるわ」
「そうですか?」
「ええ。ただ、全部を一度に知ろうとすると、荷物より重くなるかもしれないけれど」
「知識って重いんですか?」
「頭が疲れるでしょう?」
「……それなら、もう今日だけでかなり重いです」
「では、食事をして軽くしないといけないわね」
「食べたら軽くなるんですか?」
「少なくとも、空腹よりは考えやすくなるでしょう」
もっともらしく言われたが、最初から屋台へ寄る理由を作っているだけにも聞こえる。女の人は並んだ店を見ながら、甘い匂いのする方へ少しだけ歩く速さを緩めていた。
「もしかして、お腹すいてます?」
「旅人には食事が必要でしょう?」
「それ、俺たちの話じゃなくて自分の話ですよね」
「両方よ」
女の人は平然と答え、ラルトスも屋台を見上げながら頷いた。
『……りょうほう』
「ラルトスまでそっちにつくのかよ」
屋台へ寄る前に宿を決めた方がいいと言われ、俺たちはそのまま通りを進んだ。女の人が教えてくれた道へ入ると、建物の入口へ宿泊料金を書いた札が出され、荷物を背負った旅人たちが出入りしている。
「この辺りなら、ポケモンと一緒でも泊まれる宿が多いわ。値段もそれほど高くないはずよ」
「詳しいんですね。ここに泊まったことあるんですか?」
「何度かね」
「よくコトブキに来るんです?」
「通り道になることが多いの。東へ行く時も、北へ向かう時も便利だから」
「今度はどこへ行くんですか?」
「それは、明日決めるかもしれないわ」
「決めてないんですか?」
「決めすぎると、寄り道ができなくなるでしょう?」
迷っているようには見えなかった。この人なら目的地が決まっていても、決まっていなくても、同じ顔で歩いていそうだと思う。
「……ユア?」
聞き覚えのある声に振り返ると、宿の入口近くにアイが立っていた。隣ではドオーが眠そうな顔でこちらを見ている。
「アイ。そっちもこの辺に泊まってるのか?」
「うん。ボクは宿へ戻るところ。キミはまだ決めてなかったんだ」
「今から決めるところだよ」
「やっぱり行き当たりばったりなんだね」
「ちゃんと探そうとはしてた」
「探し始めたのが夕方なら、十分行き当たりばったりだと思うけど」
「旅に出たばっかりなんだから仕方ないだろ」
アイは小さく肩をすくめると、俺の隣にいるラルトスへ目を向けた。
「ラルトス、もう大丈夫そうだね」
『……うん』
「痛いところはない?」
『……ない』
「そっか。よかった」
アイが少し安心したように笑い、ドオーも、
「どおぉー」
と間延びした声で鳴いた。ラルトスはドオーへ小さく手を振り返す。
その様子を見届けたあと、アイの視線が女の人へ移った。
「その人、ユアの知り合い?」
「ああ。資料館で会って、それから宿を教えてもらって……」
そこまで答えたところで、言葉が止まった。
資料館では地図や神話の話を聞いた。一緒に屋台の並ぶ通りを歩き、宿まで案内してもらった。仕事のことも、旅をしていることも少しだけ知った。
けれど、一番簡単なことを聞いていない。
「あ」
「どうしたの?」
アイが首を傾げる。
俺は隣を見る。女の人もこちらを見返し、何を言い出すのか待っているようだったが、その口元には、もう少しだけ笑みが浮かんでいた。
「……そういえば、名前を聞いてなかった」
「あら」
「気づいてたんですか?」
「いつ気づくのかしら、とは思っていたわ」
「それなら言ってくださいよ」
「聞かれていないもの」
「資料館からずっと一緒にいたのに?」
「一緒に歩くのに、名前が必要だった?」
そう言われると、必要ではなかった。名前を知らなくても話はできたし、宿まで来ることもできた。
でも、それとこれとは別だ。
「今は必要です。アイに紹介できないし」
「それなら、聞いてみたら?」
女の人は少し楽しそうに言った。
やっぱり、分かっていて黙っていたらしい。
「名前、教えてください」
女の人はすぐには答えず、ほんの少しだけ間を置いた。その短い沈黙まで、俺がここで聞くのを待っていたように思える。
「シロナよ」
長い金色の髪が、夕方の風に小さく揺れた。
「旅をしながら、古いものを調べているの。今のところは、それで十分かしら」
「今のところ?」
「続きを知る楽しみは、残しておいた方がいいでしょう?」
シロナはそう言って、いたずらが成功した時のように微笑んだ。