シロナの手が、腰のモンスターボールへ触れた。
「大丈夫よ。すぐに終わるわ」
シロナは静かに俺たちを制すと、人の流れが割れた先へ目を向けた。倒れた屋台の周りを人々が慌ただしく駆け回り、泣き出した子どもを抱えた親が、広場の外へ急いでいる。その中心では、大きなポケモンが地面を何度も踏み鳴らしていた。
「……ドダイトス?」
大きな体に、背中から伸びた一本の木。まるで小さな丘が歩いているような姿は、図鑑を開かなくても分かる。シンオウではよく知られたポケモンだが、目の前のドダイトスは荒い息を繰り返し、落ち着かない様子で周囲を見回していた。誰かが近づくたびに低く吠え、その太い脚が地面へ落ちるたび、広場の石畳が小さく震える。
「まずいね」
アイがドオーと一緒に前へ出る。ラルトスも俺の前で身構え、クチートの大顎がわずかに持ち上がった。
『……ちがう』
「え?」
ラルトスはドダイトスを見つめたまま、小さく首を振る。
『……おこってない』
もう一度ドダイトスを見る。人を追い払い、屋台まで倒し、誰も近づけないよう大きな声を上げている。怒っているようにしか見えなかったが、ラルトスの言葉を聞いてから見ると、その動きには相手を追いかけるような勢いがなかった。同じ場所から離れず、人が近づいた時だけ、必死に威嚇している。
「怒ってない??」
『……くるしい』
ラルトスの声に、シロナがほんの少しだけこちらへ視線を向けた。何も言わず、すぐにドダイトスへ目を戻すと、モンスターボールを静かに投げる。
「お願い」
広がった白い光の中から、大きな青い体が姿を現した。鋭い爪に、背中から伸びた翼のような突起。ガブリアスは着地すると、一度だけ広場を見回し、逃げる人々とドダイトスの位置を確かめるように顔を動かした。
シロナは何も指示しない。
それでもガブリアスは何を求められているのか分かっているように、ドダイトスの正面へゆっくり進み、少し離れた場所で足を止めた。
ドダイトスが大きく吠える。重い前脚が地面を叩き、石畳の隙間から土が跳ねたが、ガブリアスは構えを取らず、ただ相手をまっすぐ見ていた。威嚇するでもなく、押さえつけるでもない。それでもドダイトスは、近づいてくる人ではなく、ガブリアスへ意識を向け始める。
「戦わないのか……?」
俺が呟いても、シロナは答えなかった。ドダイトスの呼吸と、地面を踏む脚の動きを順番に見ながら、ガブリアスの横を通って少しずつ近づいていく。
「シロナさん、危ない!」
思わず声を上げたが、シロナは立ち止まらない。ドダイトスが足を踏み鳴らすたびに石畳は揺れ、その大きな体が少し動くだけでも、近くにいるシロナが簡単に吹き飛ばされそうだった。
けれど、シロナの歩幅は変わらなかった。
ガブリアスはドダイトスの正面に立ち続け、シロナが近づく間も相手の視線を引きつけている。何度も同じことをしてきたような、言葉のいらない動きだった。
ドダイトスがまた前脚を地面へ下ろした時、シロナの視線がその足元で止まった。
「そういうことだったのね」
シロナは少し屈み、ドダイトスの前脚を確かめるように見た。俺も目を凝らすと、足の裏に折れた金属片が深く刺さり、その周りの皮膚が赤く腫れているのが見えた。
「……あ」
ドダイトスは人を傷つけるために暴れていたわけではない。足を動かすたびに痛みが走り、近づく者を追い払うことしかできなかったのだ。
『……くるしい』
ラルトスがもう一度呟く。
「ああ。あれが刺さってたんだ」
シロナはドダイトスへ手のひらを見せ、急に触れることなく、足元へ近づいていく。
「もう少しだけ我慢してね」
ガブリアスが低く鳴き、ドダイトスの注意をこちらへ向けた。ドダイトスは荒い息を吐きながらも、もう地面を踏み鳴らさず、正面にいるガブリアスをじっと見ている。
シロナは金属片の根元へ指を掛け、一度だけドダイトスの様子を確かめた。
「今よ」
その言葉に合わせるように、ガブリアスがもう一度低く鳴いた。シロナが迷いなく腕を引き、金属片を一気に抜き取る。
ドダイトスの大きな鳴き声が広場へ響いた。
反射的に身構えたが、ドダイトスは襲いかからず、力が抜けたようにその場へゆっくり体を下ろした。荒かった呼吸が少しずつ長くなり、最後には疲れ切ったように目を閉じる。
ガブリアスもすぐそばへ腰を下ろし、ドダイトスが落ち着くまで動かなかった。
騒がしかった広場が、静まり返っていた。
誰もがシロナとガブリアスを見ている。あれだけ大きなドダイトスを前にして、技を一度も使わず、力で押さえつけることもなく、何が起きているのかを見つけて終わらせてしまった。
「すげぇ……」
俺はそれしか言えなかった。
シロナは持っていた布を取り出し、ドダイトスの足へ軽く巻きながら、落ち着いた声で近くにいた大人へポケモンセンターへ連絡するよう頼んでいる。その隣でガブリアスは静かに座り、役目を終えたあともドダイトスから目を離していなかった。
ふと隣を見ると、アイだけはシロナではなく、ガブリアスを見つめたまま動いていなかった。
「アイ?」
返事はない。
アイの唇が、何かを確かめるように小さく動く。
「ガブリアス……」
その視線が、ガブリアスの青い体から、シロナの長い金髪へ移る。
「金髪……神話が好きで、名前はシロナ……」
そこでアイの目が大きく見開かれた。
「……まさか」
「何が?」
俺が聞いても、アイは答えなかった。
ただ、何か信じられないものを見るように、シロナを見つめていた。