女性の手が腰のモンスターボールに触れる。
「大丈夫。すぐ終わるから」
静かな声だった。
けれど、その場にいた誰もが不思議と足を止めた。
まるでその言葉に確かな根拠があると知っているみたいに。
広場の向こうでは人々が慌ただしく逃げている。
悲鳴が響き、怒鳴り声が飛び交い、倒れた屋台の周りを人々が駆け回っていた。
その中心にいたのは…。
「……ドダイトス?」
思わず呟く。
見間違いじゃない。
大きな身体に背負った一本の木。
まるで小さな丘が歩いているような巨体は、シンオウ地方では誰もが知るポケモンだった。
だが、その様子は明らかに普通ではない。
呼吸は荒く、視線は落ち着かず、苛立つように地面を踏み鳴らしている。
人が近付くたびに威嚇の声を上げ、その度に周囲の混乱は大きくなっていた。
「まずいね……」
アイが呟く。
ドオーが前へ出る。
ラルトスも身構え、クチートも静かに視線を向けた。
俺も自然と一歩踏み出そうとした。
その瞬間だった。
「待って」
女性の声が飛ぶ。
俺は足を止める。アイも同じだった。
女性はドダイトスを見つめている。
暴れている姿ではなく、その奥にある何かを見ようとしているみたいだった。
『……ちがう』
小さく呟いたのはラルトスだった。
「え?」
『おこってない』
俺はもう一度ドダイトスを見る。
暴れ、威嚇し、周囲を寄せ付けない。誰が見ても危険な状態だ。
でも、ラルトスの言葉を聞いた瞬間、俺も違和感に気付いた。
その目。
その空気。
その必死さ。
頭の中にクロガネの坑道で出会ったクチートの姿が浮かぶ。
あの時も同じだった。
怒っているように見えた。
人間を憎んでいるように見えた。
でも本当は違った。
「……怖がってる?」
『ちょっとちがう』
ラルトスが頷く。
『くるしい』
その言葉が落ちた瞬間、女性がほんの少しだけこちらを見た。
驚いたような、感心したような目だった。
けれど何も言わない。
再びドダイトスへ視線を戻すと、静かにモンスターボールを投げた。
「お願い」
白い光が夕暮れの広場に広がる。
光が収まると、そこにはガブリアスが立っていた。
鋭い爪を持つ青い巨体と大きな翼。
その姿が現れただけで、周囲の人々は思わず息を呑む。
「……っ」
アイが息を呑んだ。
俺も思わず見上げていた。
強い。
ただそれだけじゃない。
長い時間を共に過ごし、積み重ねてきた経験や信頼そのものが形になったような存在感だった。
ガブリアスはドダイトスへ向かう。
だが攻撃はせず、距離を取り、正面に立ち、静かに鳴いた。
ドダイトスが反応する。
大きく吠える。
地面が揺れる。
それでもガブリアスは動かない。
威圧するわけでもなく、睨みつけるわけでもなく、ただ真っ直ぐ相手を見つめていた。
「……なんだ?」
アイが呟く。
俺も分からなかった。
でも女性だけは分かっているらしい。
その視線はずっとドダイトスへ向けられていた。
そして不意に歩き出す。
「お、おい!」
思わず声が出た。
危険だ。
近付きすぎている。
少しでも暴れたら終わりだ。
だが女性は止まらず、ガブリアスを伴いながらドダイトスのすぐ近くまで歩いていく。
ドダイトスが威嚇する毎に大地が震える。
それでも女性は足を止めない。
やがてドダイトスの前足へ視線を向け、小さく呟いた。
「やっぱり」
俺たちも目を凝らす。
ドダイトスの足の裏に深く刺さった金属片をみつけた。
滲む血。
「……あ」
思わず声が漏れた。
ドダイトスはただ暴れていたんじゃない。
痛かったんだ。
苦しかったんだ。
近付く人間を傷付けたかったわけじゃない。
ただ、自分を守ろうとしていただけだった。
ラルトスが言っていたのは、これだったのか。
女性は静かに息を吐く。
「大丈夫。すぐ終わるわ」
その声は不思議なくらい優しかった。
ガブリアスが一歩前へ出てドダイトスの注意を引く。
その隙に女性が足元へ近付く。
俺は思わず息を止めた。
ドダイトスが少しでも暴れたら終わりだ。
だが女性の動きには一切の迷いがなかった。
金属片を掴み、そして。
「少しだけ我慢してね」
一気に引き抜いた。
ドダイトスが大きく鳴く。
広場中に響く声だった。
次の瞬間、その身体から力が抜けたようにゆっくり座り込む。
荒かった呼吸も少しずつ落ち着いていき、隣に座ったガブリアスへ視線を向けた。
もう威嚇はしない。
ただ疲れたように目を閉じていた。
広場が静まり返る。
そして誰かが拍手した。
一人。
また一人。
やがて大きな拍手になる。
俺はその音を聞きながら女性を見ていた。
戦わず、力で押さえつけず、それなのに全部終わらせてしまった。
その姿に目を奪われる。
隣ではアイが固まっていた。
視線は女性ではなく、ガブリアス。
その一点を見ている。
「……そのガブリアス」
ぽつりと呟く。
声が震えていた。
女性が振り返る。
アイはゆっくり顔を上げた。
何かを確信したように。
そして、
「あなた……まさか」
夕暮れの風が広場を吹き抜ける。
周囲の人々も、俺もまだ気付いていない。
けれど、アイだけは、女性の正体に気づいたようだった。