夕暮れの風が広場を吹き抜ける。
ドダイトスはすっかり落ち着いていた。
保護団体の人たちが周囲を囲み、怪我の確認や応急処置を進めている。さっきまで悲鳴と怒号で満ちていた広場も、少しずつ元の賑わいを取り戻し始めていた。
けれど、俺たちの周りだけはまだ別の意味で静かだった。
「……そのガブリアス」
アイがぽつりと呟く。
視線はずっとガブリアスへ向いていた。
ガブリアスは女性の隣で静かに立っている。
何か特別なことをしているわけじゃない。
ただそこにいるだけだ。
それなのに目を奪われる。
長い時間を共に戦い、積み重ねてきたものがその立ち姿だけで伝わってくるようだった。
アイはしばらく黙っていたが、やがて何かを確信したように口を開いた。
「あなた……シロナさんですよね」
女性は一瞬だけ目を丸くした。
それから小さく笑う。
「ばれちゃった」
その一言で、俺の思考は止まった。
「……え?」
間の抜けた声が漏れる。
アイはそんな俺を見て小さくため息を吐いた。
「シンオウリーグチャンピオン」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で色々なものが繋がった。
雑誌で見た写真。
ニュースで流れていた映像。
父さんが時々見ていたリーグ中継。
金色の髪。
ガブリアス。
そしてシロナという名前。
全部が一気に結び付く。
「いや待て」
思わず声が出た。
「チャンピオンって、あのチャンピオンか!?」
シロナは少し考えるような顔をしたあと、納得したように頷く。
「シンオウのチャンピオンのことなら、そのチャンピオンね」
「なんでそんな確認みたいな言い方なんだよ!」
隣でアイが吹き出した。
シロナも少し肩を震わせている。
どうやら笑いを堪えているらしい。
そして改めてこちらへ向き直った。
「改めまして。シロナよ。シンオウリーグチャンピオンをしているわ」
さらりと言われる。
あまりにも自然だった。
だからこそ現実味がない。
『……すごい』
ラルトスの小さな声が頭の奥に響く。
本当にその通りだった。
チャンピオン。
シンオウ地方で最も強いトレーナー。
そんな人が、ついさっきまで歴史の話をしていて、宿の心配までしていた。
それどころか暴れるドダイトスを力でねじ伏せるのではなく、怪我の原因を見つけて助けてしまったのだ。
頭が追い付かない。
「なんで言わなかったんだよ!」
気付けばそう言っていた。
シロナはきょとんとした顔をする。
「だって聞かれなかったもの」
「いや聞いたけど!?!」
「そうだったかしら?」
資料館でのやり取りが頭をよぎる。
ーーなんでそんなに詳しいんですか。
ーー好きだから。
ーー仕事みたいなものかしら。
ーー秘密。
確かにそんな話をした。
でもまさかチャンピオンだとは思わないだろ。
「いや絶対隠してただろ!」
「少しはね」
「少しじゃないだろ!」
思わずツッコミを入れると、シロナは困ったように笑った。
その様子を見ていたアイが呆れたように口を開く。
「隠し通す気ありました?」
「もちろん」
即答だった。
だがアイはまったく信じていない顔をしている。
「本当に?」
シロナは少しだけ考えた。
そして。
「……んー、半分くらいは?」
「絶対なかった」
俺とアイの声が綺麗に重なった。
一瞬の沈黙のあと、シロナが吹き出す。
本当に楽しそうだった。
その笑顔につられて、俺も少し笑ってしまう。
チャンピオンと聞いて想像していた人物像とは全然違う。
もっと近寄りがたくて、もっと完璧で、もっと遠い存在だと思っていた。
もちろん実際にはすごい人だ。
さっきの一件だけでもそれは分かる。
俺なんかじゃ到底届かない場所にいる。
それでも、こうして話していると不思議と普通の人にも見えた。
「でも納得しました」
アイがそう言ってシロナを見る。
「納得?」
「知識量も、ガブリアスも、さっきのドダイトスの対応も全部です。最初から何かおかしいと思ってたんですよ」
「おかしいって失礼ね」
シロナが苦笑する。
でも少しだけ嬉しそうでもあった。
俺はそんな二人のやり取りを聞きながら空を見上げた。
夕日はもう沈みかけている。
コトブキシティへ来て、まだ一日も経っていない。
それなのに、アイと出会い、初めての敗北を味わい、そしてシロナと出会った。
そのシロナがまさかシンオウリーグチャンピオンだったなんて、朝の俺なら想像もしなかっただろう。
クロガネにいた頃には知らなかったことばかりだ。
知らない人。
知らない強さ。
知らない考え方。
知らない世界。
今日一日だけでも、それを何度も思い知らされた。
だからだろうか、胸の奥には悔しさや驚きと一緒に、別の感情も残っていた。
もっと知りたい。
もっと見てみたい。
もっと色々な人と出会いたい。
そんな気持ちが静かに大きくなっている。
ふと視線を戻すと、シロナがこちらを見ていた。
目が合うが、シロナは何も言わない。
ただ少しだけ微笑んだ。
まるで俺の考えていることを見透かしているみたいに。
その笑顔を見ながら、俺は改めて思った。
旅に出てよかった。
きっと、まだまだ知らない世界が待っているのだから。