夕暮れの風が広場を吹き抜け、倒れた屋台の布を小さく揺らしていた。ドダイトスはすっかり落ち着き、駆けつけた保護団体の人たちが、傷の確認や応急処置を進めている。少し前まで悲鳴と怒鳴り声で満ちていた広場にも、店員が散らばった品物を拾い、離れていた人々が戻り始めていた。
シロナはドダイトスの足へ布を巻き終えると、立ち上がってガブリアスの首元へ手を添えた。ガブリアスは役目を終えてもその場を離れず、疲れたように目を閉じるドダイトスを静かに見守っている。
「すげぇ……」
戦わなかった。
技を使わせることも、力で押さえつけることもなく、ドダイトスが暴れていた理由を見つけ、あれだけ騒がしかった広場を終わらせてしまった。俺とアイが動こうとした時には、シロナはもう何を見るべきか分かっていたのかもしれない。
隣へ顔を向けると、アイはシロナではなく、ガブリアスを見つめたまま動いていなかった。何かを確かめるように唇が小さく動き、視線が青い巨体から、シロナの長い金髪へ移っていく。
「ガブリアス……金髪……神話が好きで、名前はシロナ……」
アイの目が大きく見開かれた。
「……まさか」
「何が?」
俺の声も聞こえていないらしく、アイはゆっくりシロナへ顔を向けた。
「あなた……チャンピオン……?」
シロナは一瞬だけ目を丸くした。それから、悪戯を見つけられた子どものように、ぺろっと小さく舌を出して片目を閉じる。
「ばれちゃった」
「……え?」
間の抜けた声が漏れた。
アイはシロナとガブリアスを交互に見ながら、まだ信じられないように立ち尽くしている。シロナは俺たちの反応を楽しむように笑ったあと、何事もなかったように姿勢を戻した。
「改めまして、シロナよ。シンオウリーグチャンピオンをしているわ」
「チャンピオンって、あのチャンピオンか!?」
「シンオウのチャンピオンのことなら、そのチャンピオンね」
「ほかに何のチャンピオンがいるんだよ!」
「それはこちらのセリフなのだけれど」
隣でアイが吹き出し、シロナも口元へ手を添えて肩を揺らした。二人に笑われている意味を考える余裕もなく、俺はもう一度シロナとガブリアスを見る。
シンオウリーグチャンピオン。
リーグ中継や雑誌で見た、シンオウで一番強いトレーナー。資料館で神話を話し、宿を教えてくれた女の人と、画面の向こうにいたはずのチャンピオンが、ようやく一つに重なった。
「なんで言わなかったんだよ!」
思わず声を上げると、シロナは少しだけ首を傾げた。
「ヒントは出していたわよ?」
「あれで分かるわけないだろ!?」
「旅をしていることも、古いものを調べていることも、人やポケモンと勝負をすることも話したでしょう?」
「あれを聞いてチャンピオンに辿り着けるやつがいるか!」
「ガブリアスも一緒だったわ」
「さっき出てきたばっかりだろ!」
「名前も教えたわよ?」
「シロナって名前だけで分かるか!」
シロナは少し考えるように顎へ指を添え、それからアイへ目を向けた。
「でも、アイは気づいたわ」
「全部揃って、やっとです」
アイが呆れたように答える。
「ガブリアス、金髪、神話の知識、それからシロナって名前。どれか一つだけなら、たぶん分かりませんでした」
「少し難しすぎたかしら」
「難しいとか、そういう問題じゃないと思います」
「だよな?」
味方を得たと思ってアイを見ると、少しだけ間を置いて肩をすくめられた。
「でも、ユアはガブリアスが出ても気づいてなかったよね」
「今それ言う必要ある?」
「事実だから」
「さっき負けた話といい、お前はもう少し優しくできないのかよ」
「嘘をついて慰めるよりいいでしょ」
「ラルトスと同じこと言ってる……」
『……ほんとう』
「お前まで入ってくるなよ」
ラルトスは小さく笑い、ドオーも隣で間延びした声を上げた。
「どおぉー」
「ドーも、ユアには難しかったって言ってる」
「絶対そんなこと言ってないだろ」
「言ってるよ」
「どおぉー」
「ほら」
「二回鳴いただけじゃねぇか」
三人のやり取りを、シロナは本当に楽しそうに見ていた。チャンピオンと聞けば、もっと近づきにくく、話しかけるだけでも緊張するような人を想像していたが、目の前のシロナは、正体が知られたことまで遊びに変えてしまっている。
けれど、ガブリアスの隣へ立つ姿を見ると、さっきまでとは少し違って見えた。ドダイトスの動きを見て、苦しんでいた理由を探し、ガブリアスとはほとんど言葉を交わさずに状況を収めた。柔らかく笑っている今も、シンオウで一番強いトレーナーであることに変わりはない。
「でも、納得しました」
アイがガブリアスを見ながら言った。
「何が?」
「資料館での知識も、ドダイトスへの対応も、このガブリアスもです。旅をしているだけにしては、何かおかしいと思ってました」
「おかしいとは失礼ね」
「ただの旅人じゃなかったでしょう?」
「ただの旅人でもあるわよ」
「チャンピオンが『ただの』に入るんですか?」
「旅をしている時は、旅人でしょう?」
アイが返事に詰まり、シロナは少し得意そうに微笑んだ。
「また一本取られてるぞ」
「ユアにだけは言われたくない」
「なんでだよ」
「資料館から何本取られてるの?」
数えようとして、途中でやめた。思い返せば、神話の話を始めた時から、ほとんど勝てていない気がする。
シロナは俺たちの会話を聞きながら、運ばれていくドダイトスを見送った。最後までその姿が人の間へ消えるのを確かめると、ガブリアスの首元を軽く撫でる。
「ありがとう。もう大丈夫そうね」
ガブリアスはシロナへ顔を向け、低く短い声で鳴いた。シロナがモンスターボールを向けると、青い巨体は光に包まれ、静かに中へ戻っていく。
ボールを腰へ戻したシロナは、少しだけ空を見上げた。夕日は建物の向こうへ沈みかけ、通りには昼間より多くの明かりが灯っている。
「さて、宿へ行きましょうか」
「……あ」
俺の声に、シロナが振り返る。
「どうしたの?」
「チャンピオンでも腹減るんだな」
シロナは一瞬きょとんとしたあと、小さく吹き出した。
「失礼ね。一応、人間だし、年頃の女の子なのだけれど?」
「……そうだった」
「今の間は何かしら?」
「いや、チャンピオンって聞いたら、なんか人間じゃないくらいすごい人に思えてきて」
「それは困るわね。甘いものだって食べるし、朝は眠い時もあるわよ」
「寝坊もするんですか?」
「それは秘密」
「また秘密かよ!」
シロナは答えず、年相応の笑顔を浮かべながら歩き出した。アイも呆れたように笑い、ラルトスは屋台の並ぶ通りへ顔を向ける。
『……べつばら』
「お前はさっきからそればっかりだな」
すぐ前を歩くシロナも、甘い匂いのする屋台へ視線を向けていた。