暗い通路の奥で、小石が転がる音がした。さっきまでコドラに追われていたせいで、その小さな音だけでも肩が跳ねる。喉はひりついたままで、息を吸うたび胸の奥が痛い。腕の中のラルトスも俺のパーカーを掴み直し、細い指にそっと力を入れた。
『……くる』
頭の中に落ちてきた声は小さかった。俺は唾を飲み込み、暗闇を睨む。もしまたコドラだったらどうする。さっき通ってきた細い隙間まで戻れるのか、それとも別の道へ逃げるしかないのか。考えようとしても頭はうまく回らず、心臓の音だけがやけにうるさい。やがて暗がりの向こうから丸い影がひょこっと顔を出した。
「……え?」
間の抜けた声が漏れた。短い足でのそのそ歩いてきたのは、茶色い毛並みのビッパだった。前歯の大きなそのポケモンは、俺とラルトスを見つけると立ち止まり、鼻先をひくひく動かして洞窟の匂いを嗅ぐ。俺たちの周りを少し歩き、足元の小石を前脚で転がし、それが食べ物でも敵でもないと分かったのか、最後には首を傾げて鳴いた。
「ビパ?」
「……なんだよ」
腰から力が抜けて、そのまま地面へ座り込む。さっきまで全身に入っていた力が一気にほどけ、俺はラルトスを抱えたまま壁に背中を預けた。ビッパはもう俺たちへの興味をなくしたらしく、短い足で別の通路へ歩いていく。あのコドラと同じ洞窟にいるとは思えないくらいのんびりした背中が暗がりへ消えると、洞窟はまた静かになった。
「本気でびびった……」
ため息を吐いて腕の中を見ると、ラルトスはまだビッパが消えた通路を見つめていた。けれど、俺のパーカーを掴んでいた指先は少しだけ緩んでいる。
「……下ろしてもいいか?」
ラルトスは俺の顔を見て、それから地面へ視線を落とした。すぐには頷かない。けれど逃げようともしない。俺が動かず待っていると、やがて小さく顎が下がる。俺はできるだけゆっくりしゃがみ込み、傷に触れないよう気をつけながらラルトスを地面へ下ろした。小さくて軽いとはいえ、七歳の俺の腕ではずっと抱えていられるわけもなく、離した瞬間に肩と腕がじんわり痛み出す。ラルトスは俺の隣に腰を下ろし、背中だけを近くの岩へ預けた。脚を少し動かしてから顔をしかめ、膝を抱えるように座り直す動きもぎこちない。白い体には土が付き、ところどころ傷の跡が見えていた。
「大丈夫か?」
ラルトスは返事をしなかった。赤い目が自分の脚へ落ち、細い指が傷のない場所をそっと撫でる。もう片方の手は、いつの間にか俺のパーカーの裾を握ったままだった。俺もそれに気づいたけれど、何も言わない。少ししてから、頭の中へ一言だけ届いた。
『……いたい』
「だよな」
苦笑するしかなかった。見れば分かる。むしろ、さっきまでよく逃げようとしていたと思う。けれどそれを言ったところで何かが変わるわけでもなく、俺は口を閉じたまま、ラルトスが岩にもたれて息を整えるのを待った。洞窟の奥では、どこかで水滴が落ちている。ぽつん、ぽつんと間を置いて響くその音だけが、少しずつさっきの騒ぎを遠ざけていった。
「なあ」
『……?』
「なんで追いかけられてたんだ?」
聞いた瞬間、赤い目が下へ落ちた。ラルトスはすぐには答えない。俺のパーカーの裾を握る指先に、何度か力が入っては緩み、また小さく握り直される。聞かない方がよかったかと思った頃、ようやく細い声が届いた。
『……たべもの』
「腹減ってたのか」
ラルトスは小さく頷いた。
『……きのみ』
「拾った?」
『……うん』
そこで言葉が止まった。ラルトスは岩の端に視線を逃がし、それからほんの少しだけ肩を縮める。
『……コドラの』
「あぁ……」
腹が減って木の実を拾った。その木の実が、コドラの縄張りにあった。ラルトスは生きるために手を伸ばして、コドラは自分の場所を荒らされたから追ってきた。コドラが悪いとも、ラルトスが悪いとも、俺には言えなかった。目の前のラルトスは傷だらけで、あのコドラは今もどこかで岩を削りながら俺たちを探しているかもしれない。ただ、それぞれが勝手に生きていて、その勝手がぶつかっただけなんだと思った。
「災難だったな」
『……うん』
返ってきた声は小さかった。ラルトスの指は、まだ俺のパーカーから離れなかった。
少しして、今度はラルトスが俺を見た。赤い目はまだ疲れていたけれど、逃げるためにこちらを見ている感じではなかった。
『……ユアは?』
名前を呼ばれて、俺は少しだけ瞬きをする。
「俺?」
『……どうして、ここにいるの』
今度はこっちが答えづらくなった。頭をかき、暗い天井を見上げても、答えなんか落ちていない。
「足跡見つけてさ」
『……あしあと?』
「うん。変な足跡。見たことないやつ」
そこから俺は、父さんと母さんと一緒にテンガン山の麓へ来ていたこと、草むらで小さな足跡を見つけたこと、ちょっとだけ見るつもりで追いかけたこと、気づいたら父さんたちの声が聞こえなくなっていたこと、足跡を見失ったくせに洞窟へ入ったことを話した。話しながら、自分でもどんどん嫌な気分になっていく。父さんは奥へ行くなと言っていた。母さんも一人で行くなと言っていた。それなのに俺は、ちょっとだけなら大丈夫だと思って、全然大丈夫じゃなかった。最後に、洞窟で迷って落ちて、そこでラルトスを見つけたところまで話すと、ラルトスはしばらく黙って俺を見ていた。赤い目が一度ゆっくり瞬きをする。
『……ばか』
「えっ」
『……すごく、ばか』
「そんなにはっきり言う!?」
ラルトスは表情をほとんど変えない。ただ、目を逸らさなかった。俺はその真顔に耐えきれず、少し笑ってしまう。
「否定できねぇけどさ」
『……うん』
「自分でもそう思う」
『……うん』
「二回も言う?」
今度はラルトスがほんの少しだけ目を細めた。口元は動いていない。それでも、俺の言葉を待つみたいに、しばらくこっちを見ている。俺はそれ以上何も言えなくなって、小さく息を吐いた。
その時、静かな洞窟に、ぐぅぅぅ、と腹の音が響いた。俺とラルトスは同時に固まる。コドラの足音でも、小石でも、水滴でもない。音は、ラルトスの方からだった。ラルトスはゆっくり俯き、膝を抱えた指に力を入れる。薄暗いせいではっきりとは見えないけれど、耳の先まで赤くなったようで、俺はとうとう吹き出した。
「やっぱ腹減ってるじゃん」
『……』
ラルトスは何も言わない。言い返さない代わりに、さらに膝を抱えて小さくなる。
「木の実、探すか」
その言葉で、ラルトスが顔を上げた。赤い目が俺を見て、すぐに差し出された手へ移る。俺は立ち上がり、まだ少し震える足で踏ん張った。
「まずは洞窟から出よう」
ラルトスは手を見つめたまま動かなかった。俺も急かさない。洞窟の中で水滴が一つ落ちる。その音が消えたあと、小さな手がゆっくり伸びてくる。指先が触れた。握るというより、確かめるような触れ方だったけれど、その手は確かにしっかり俺の手の上に置かれた、ラルトスの手の温もりが残ったままだった。