1話
コトブキシティを出てから、どれくらい歩いただろうか。
振り返っても、もうあの大きな街は見えなかった。
昨日まで足元にあった石畳はいつの間にか土の道へ変わり、道の両側には背の低い草花が風に揺れている。
コトブキの街中では人の声やモニターの音が絶えず耳に入ってきたけれど、今聞こえるのは草を撫でる風の音と、どこか遠くで鳴く野生ポケモンの声くらいだった。
空は高く、雲はゆっくり流れていて、昨日までの騒ぎが本当に同じ旅の中で起きたことなのか、少し分からなくなる。
平和だった。
そう思った瞬間、自分でも少しおかしくなった。
旅に出てまだそんなに経っていないのに、平和な道を歩いているだけで違和感を覚えている。
昨日のせいだ。アイとのバトルで初めて負けて、ドダイトスの騒ぎに巻き込まれて、知らない女の人だと思っていたシロナがシンオウリーグチャンピオンだと分かって、その全部がたった一日の出来事だったなんて、今でも少し信じられない。
「なんか変な感じだな」
思わず呟くと、隣を歩いていたシロナがこちらを見た。
昨日から何度も見た穏やかな表情だったけれど、チャンピオンだと知った後では、やっぱり少し見え方が違う。
本人は何も変わっていないのに、こっちだけが勝手に意識しているのが少し悔しい。
「変な感じ?」
「ああ。昨日との差が激しすぎるんだよ。アイと戦って負けたと思ったら、ドダイトスの騒ぎがあって、そのあとシロナがチャンピオンだって分かってさ。なのに今日は朝からずっと平和だろ。なんか、逆に落ち着かない」
シロナは少しだけ目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「それはきっと、昨日が特別忙しかっただけね。実際の旅は、もっとこういう時間の方が多いわよ。朝に町を出て、道を歩いて、休憩して、景色を眺めて、次の町を目指す。毎日事件が起きたり、強いトレーナーと出会ったりしていたら、体がもたないもの」
「それはそうだけど……なんか、旅ってもっとずっと冒険っぽいものだと思ってた」
「冒険ではあるわ。ただ、冒険って必ずしも危険なことばかりじゃないのよ。知らない道を歩くことも、知らない花を見ることも、初めての町へ向かうことも、全部その人にとっては冒険になるわ」
シロナはそう言って、道端に咲いている小さな黄色い花へ視線を向けた。
俺もつられて見る。
正直、言われるまで気付いていなかった。
名前も知らないどこにでも咲いてるような花。
でも風が吹くと、その花たちが一斉に揺れて、草原の端に小さな波が立ったみたいに見えた。
「その花、この時期にしか見られないの。もう少しすれば散ってしまうわ」
「そうなのか?」
「ええ。珍しい花ではないけれど、今ここを歩いていなければ見られなかったものよ」
そう言われると、不思議とその花が少し特別に見えてくる。
さっきまでただの景色の一部だったのに、今はちゃんと目に入る。
旅に出る前の俺なら、たぶん見向きもしなかった。
クロガネの岩肌や煙突の煙を当たり前の景色だと思っていたみたいに、道端の花も、風の匂いも、遠くを飛ぶムックルの群れも、きっと何も考えずに通り過ぎていたと思う。
「シロナってさ、そういうのよく見てるよな」
「そうかしら?」
「見てるだろ。資料館でもそうだったし、道歩いてるだけでも色々気付くし。俺なんか言われるまで全然気付かなかった」
シロナは少し考えるように空を見上げた。
「たぶん癖ね。昔から知らないものが気になるの。遺跡も神話も、道端の花も、旅先で聞いた噂話も。気になったら確かめたくなるし、確かめたらもっと知りたくなる。そうしているうちに、気付けば色々な場所へ行くようになっていたわ」
「それ、ほとんど寄り道じゃないか?」
「そうとも言うわね」
「チャンピオンがそれでいいのか?」
「もちろん。むしろ寄り道をしない旅なんて、少し勿体ないと思うわ。目的地に早く着くだけなら最短の道を行けばいい。でも、旅って本当にそれだけかしら? 道端の花も、偶然立ち寄った町も、そこで出会う人も、全部寄り道の中にあるでしょう?」
言われて、昨日のことを思い出す。
アイに負けた後、すぐ宿へ戻っていたら資料館には入らなかった。
資料館に入らなければ、シロナと話すこともなかった。
シロナと話さなければ、ドダイトスの騒ぎにも立ち会わなかったかもしれない。
そう考えると、昨日の出来事のほとんどは寄り道みたいなものだった。
でも、その寄り道がなければ、俺は今こうしてシロナと歩いていない。
「……寄り道って、案外大事なんだな」
「でしょう?」
シロナは少し得意そうに笑った。
「だから私は寄り道が好きなの。もちろん、やるべきことを放り出すわけではないけれどね。知らないものに出会った時、立ち止まる余裕があるかどうかで、旅の景色はずいぶん変わるわ」
その言葉を聞きながら、俺はもう一度道の先を見る。
まっすぐ続く道の向こうに、まだ知らない町がある。
ソノオタウン。
昨日、シロナから名前だけ聞いた花の町。
行くべき場所ではあるけれど、急いで辿り着く必要があるわけじゃない。
今この道を歩いている時間も、旅の一部なのだとしたら、少しだけ足取りが軽くなる気がした。
『みず』
肩の上からラルトスの声が聞こえた。
顔を上げると、少し先に小川が流れていた。
幅は広くないけれど、水は澄んでいて、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。
ラルトスは水面をじっと見つめていた。
完全に休憩したそうな顔だった。
「休憩するか」
『うん』
返事が早い。
その様子に思わず笑うと、シロナも小さく笑った。
「ちょうどいいわね。旅を楽しむには休憩も大事よ」
「それ、休憩したいだけじゃないのか?」
「否定はしないわ」
俺たちは小川の近くへ移動した。
水で顔を洗うと、思っていた以上に冷たくて気持ちよかった。
歩いていた疲れが少しだけ抜けていく。
ラルトスは川辺にしゃがみ込み、流れていく葉っぱを目で追っていた。時々、小魚の影が水中を横切るたびに小さく反応する。
『はやい』
「魚か?」
『うん』
「捕まえるなよ」
『みてるだけ』
「ならいい」
ラルトスは本当に見ているだけだった。
水面を覗き込むその姿は、旅に出る前と変わらないようで、少し違っても見えた。
クロガネで暮らしていた頃もラルトスは静かだったけれど、今はその静けさの中に好奇心がある。
知らないものを見るたびに、短い言葉で反応する。それが少し嬉しかった。
少し離れた場所では、クチートが木陰に立って周囲を見ていた。
人の多いコトブキでは壁際や建物の影を選んでいたけれど、こういう道では少しだけ空気が違うらしい。
警戒はしている。
でも昨日までの街中ほどではない。
俺たちから離れすぎることもなく、かといって近付きすぎることもなく、いつもの距離でそこにいる。
その距離が、今のクチートらしかった。
鉱山で初めて出会った時、クチートは人間を強く拒んでいた。
住処とそこにいたポケモンたちを守ろうとしていた。
自分たちの居場所を壊し、仲間を傷付けた存在。
だからこそ、クチートはあんなにも強くこちらを拒絶していた。
そのクチートが、今は同じ道を歩いている。
まだ隣ではないけれど。
でも、ちゃんと付いてきている。
「クチートのことを見ていたの?」
シロナにそう聞かれて、少し驚いた。
「分かるのか?」
「顔に出ていたわ」
「そんなに?」
シロナはくすりと笑った。
「でも、気にかけているのね」
「まあな。まだ完全に慣れたわけじゃないだろうし」
「そうね。でも、悪い変化ではないと思うわ」
「分かるのか?」
「少なくとも、嫌ならここにはいないでしょう?」
その言葉に、アイが言っていたことを思い出す。
本当に嫌ならここにいない。
クチートはまだ隣には来ない。
でも帰ろうとはしない。
あの時のアイの言葉が、今になってまた胸の奥で小さく響いた。
「……みんなよく見てるな」
「あなたも見ているわよ」
「俺が?」
「ええ。ただ、見ているものをまだ上手く言葉にできないだけ。クチートの距離感に気付いているし、ラルトスの変化にも気付いている。そういう目は、旅を続けるうえできっと大事になるわ」
シロナの言葉は、いつも少しだけ不思議だ。
答えを教えるようで、全部は教えない。
こっちが考える余地を残してくる。
だから言われた直後はよく分からなくても、後からじわじわ残る。
俺は小川の水面を見つめた。
流れる水に空が映っている。
そこにラルトスが顔を覗かせ、映った自分に小さく首を傾げていた。
「旅って、やること多いな」
「急にどうしたの?」
「いや、歩くだけじゃないんだなって。景色見て、ポケモンのこと考えて、自分のことも考えて。昨日は負けた理由ばっか考えてたけど、今日は違うことばっか考えてる」
「それでいいのよ。旅の中で考えることは、一つじゃなくていい。強くなりたい日もあれば、ただ景色を見たい日もある。誰かのことを考える日もあるし、自分が何をしたいのか分からなくなる日もあるわ」
シロナは小川の向こうを見ながら、ゆっくり続けた。
「大事なのは、立ち止まってもまた歩き出せること。急いでもいいし、迷ってもいい。でも、見たいと思うものがあるなら、その気持ちは大事にした方がいいわ」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
知らないことを知りたいなら、その気持ちは大事にした方がいい。
シロナはたぶん、何度もそうして旅をしてきたのだろう。
チャンピオンになっても、研究を続けて、知らない場所へ行って、興味を持ったものを追いかけている。
だからこそ、今の言葉に重さがあった。
「シロナはさ」
「何?」
「チャンピオンになっても、まだ知らないことってあるのか?」
聞いた瞬間、少し変な質問だったかもしれないと思った。
けれどシロナは笑わなかった。
むしろ当然のように頷く。
「たくさんあるわ。むしろ、知れば知るほど分からないことは増えていくの。神話も、歴史も、ポケモンも、人の心も。簡単に分かった気になれるものほど、本当は奥が深かったりするのよ」
「人の心も?」
「ええ。例えば、あなたがクチートを見て何を考えていたのか。私は少し想像できるけれど、全部は分からない。だから聞くし、見るし、考えるの」
そう言われると、少し照れくさかった。
「なんか研究みたいだな」
「そうかもしれないわね」
「俺も研究対象か?」
「ふふっ、少しだけ」
「やっぱりかよ」
シロナは楽しそうに笑う。
冗談なのか本気なのか分からない。
たぶん両方なのだろう。
休憩を終えて再び歩き出すと、風の匂いが少し変わった気がした。
最初は気のせいかと思ったけれど、少し進むたびに甘い香りが強くなっていく。
花の匂いだ。
クロガネの鉱石や機械油の匂いとも、コトブキの人混みや屋台の匂いとも違う。
柔らかくて、少しむずがゆくなるような匂いだった。
『はな』
ラルトスが小さく呟く。
「ああ」
前を見る。
道の先に、色が広がっていた。
最初は草原の一部かと思った。
でも違う。
風が吹くたびに、赤や黄色や白の花が一斉に揺れる。
遠くから見ても分かるほどの花畑。
その向こうに、小さな町並みが見えた。
思わず足が止まる。
クロガネの灰色の岩肌とも、コトブキの大きな建物とも違う。
そこにあるのは、花に包まれた町だった。
「……すげぇ」
それしか言葉が出なかった。
肩の上でラルトスもじっと前を見ている。
クチートも少しだけ足を止めた。
表情は変わらない。
でも視線は確かに、花畑の方へ向いていた。
シロナが隣へ並ぶ。
「見えてきたわね」
春の風が吹き、花畑が波のように揺れる。
何も起きていない。
ただ町が見えただけだ。
それなのに、胸の奥が少しだけ高鳴った。
知らない町。
知らない景色。
知らない匂い。
昨日シロナが言っていた寄り道の話が、少し分かった気がした。
目的地に着くことだけが旅じゃない。
そこへ向かう途中で、こういう景色に出会うことも旅なのだ。
シロナは花の町を見つめながら、静かに微笑んだ。
「ようこそ、ソノオタウンへ」
花の香りを含んだ風に背中を押されながら、俺たちはその町へ向かって歩き出した。