花畑を離れてしばらく歩くと、風の匂いが少し変わった。
ソノオタウンへ入ってからずっと感じていた花の香り。その柔らかな匂いの奥に、どこか懐かしいものが混じっている。
熱された鉄。
煤。
焼けた金属。
クロガネで何度も嗅いできた匂いだった。
その懐かしいような匂いに思わず足が止まる。
視線の先には大きな建物があった。煙突から白い煙が立ち上り、その奥からは一定の間隔で金属を打つ音が聞こえてくる。
カン。
カン。
カン。
花の町には少し不似合いな音だった。
けれど、その音を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた気がした。
旅に出てから初めてだった。
見たことのない景色じゃない。
知らない文化でもない。
どこか自分の故郷と繋がっている場所を見つけたのは。
クロガネとどこか空気が似ている。
職人がいて、鉄があって、人の手で何かが作られている。
それだけで、自然と父さんのことを思い出した。
仕事場で汗を流していた姿。
職人たちと笑いながら話していた姿。
ガバイトと一緒に資材を運んでいた姿。
旅に出てからまだそんなに時間は経っていない。それなのに、今こうして思い出すと少し懐かしく感じるのだから不思議だった。
「気付いた?」
隣でシロナが微笑む。
どうやら俺の反応は分かりやすかったらしい。
「うん。なんか落ち着く匂いがする」
そう答えると、シロナは少し納得したように頷いた。
「ユアはクロガネ育ちだものね。こういう場所を見ると安心するのかもしれないわ」
「安心っていうか……」
言葉を探しながらもう一度製鉄所を見る。
「帰ってきた感じかな」
それが一番近かった。
旅は楽しい。
知らない景色を見るのも好きだ。
でも、ずっと知らないものばかり見ていると、ふと故郷を思い出す時もある。
今はたぶん、そういう時間だった。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に違和感を覚えた。
ラルトスはいる。
シロナもいる。
でもクチートがいない。
正確には、少し後ろで立ち止まっていた。
珍しかった。
クチートは自由だ。
好きな場所を歩くし、気に入らないことがあればすぐ態度に出る。
でも、自分から何かに興味を持って足を止めることはあまりない。
だから気になった。
何を見ているんだろうと思い、その視線を追う。
そこには一人の職人がいた。
炉から赤く熱された鉄を取り出し、金床へ置く。
槌が振り下ろされ、火花が散る。
鉄が少しずつ形を変えていく。
ただそれだけだ。
派手な技もない。
それなのに、クチートはその光景から目を離さなかった。
普段の警戒心も、退屈そうな顔もない。
ただ真っ直ぐに職人の手元を見ている。
その横顔を見ていると、少しだけ驚いた。
今まで見たことのない表情だったからだ。
考えてみれば当たり前なのかもしれない。
クチートははがねタイプだ。
鉱山で暮らしていて、周囲には鉱石があり、人間たちは金属を加工していた。
だから興味を持つこと自体は不思議じゃない。
でも、俺は今までそこまで考えたことがなかった。
クチートは何が好きなのか。
何に興味を持つのか。
戦うこと以外で、守ること以外で、どんなものを見て、どんなことを考えているのか。
旅に出てからずっと一緒にいる。
それなのに俺が知っているのは、クチートがどんな風に戦うかとか、どんな時に怒るかとか、そういうことばかりだった。
好きなものは知らない。
興味のあるものも知らない。
そう思うと少し驚く。
仲間だと思っていたのに、まだ知らないことがこんなにある。
それは悪いことじゃない。
むしろ少し嬉しかった。
これから知れることが、まだたくさん残っているということだから。
「好きなのか?」
声を掛けてみる。
クチートは振り返らない。
けれど耳が少しだけ動いた。
聞こえてはいるらしい。
「そんなに気になるのか?」
もう一度聞いてみる。
返事はない。
たぶん好きなんだろう。
鉄が。
金属が。
あるいは何かを作るという行為そのものが。
職人の槌が振り下ろされる度に火花が散る。
クチートはその光景を目で追っている。
その姿を見ていると、何だか少しだけ笑いたくなった。
戦っている時はあんなに強そうなのに。
今は好きなものを見つけた子供みたいだったからだ。
「意外だった?」
シロナが静かに聞く。
俺は少し考えてから首を振った。
「いや」
「意外じゃない?」
「最初は意外だった。でも今は違う」
視線はクチートへ向けたまま続ける。
「見てると納得するんだよ」
言葉を探しながら考える。
「なんて言うんだろうな……似合うんだ」
火花が散って、鉄が形を変える。
それを見つめるクチート。
その光景が妙に自然だった。
シロナは少しだけ目を細める。
「それは素敵な感想ね」
「そうか?」
「ええ。好きなものって、その人らしさが出るものだから」
その言葉を聞きながら、もう一度クチートを見る。
なるほどと思った。
たぶん俺は今、初めてクチートの一部を知ったんだ。
戦う姿じゃない。
守る姿でもない。
もっと普通の部分。
何を見て心を動かすのか。
何に興味を持つのか。
そういう当たり前の部分だ。
しばらくして職人の作業が終わる。
クチートもようやく視線を外した。
そして何事もなかったようにこちらへ歩いてくる。
いつもの無愛想な顔。
いつもの距離感。
でも、もう少しだけ違って見えた。
仲間のことを知るというのは、こういうことなのかもしれない。
強さを知ることだけじゃない。
弱さを知ることだけでもない。
好きなものを知ること。
興味のあるものを知ること。
そういう小さな積み重ねで、人は誰かを理解していくのかもしれない。
カン、と最後に金属音が響く。
その音を背中に聞きながら、俺たちは再び歩き出した。
花の町で見つけた鉄の景色。
そして、クチートの好きなもの。
それは今日の旅の中で、一番静かで、一番大きな発見だった気がした。