頬に落ちた雨粒は、最初のうちは大したものじゃなかった。
森の中なのだから葉に溜まった雫が落ちてきただけかもしれない。そう思ったし、実際、慌てるほどの降り方でもなかった。
頭上を覆う枝葉は雨粒のほとんどを受け止めていて、肩や袖へ落ちてくる雫もまだ少ない。
それでも歩き続けるうちに葉を叩く音は徐々に増え、踏みしめた土は柔らかさを増していった。
湿った匂いが立ち上り、気付けば遠くの景色も白く霞み始めている。
怪談話を聞かされていたせいで勝手に身構えていたけれど、実際には木漏れ日が差し込み、鳥ポケモンの鳴き声も聞こえる普通の森だったはずなのに、雨が降り始めただけで景色の印象は驚くほど変わる。
頭上を見上げても灰色しか見えない。いつの間にか鳥ポケモンの鳴き声も聞こえなくなっていて、辺りを満たしているのは雨音ばかりだった。
「少し急いだ方がいいかもしれないわね」
シロナの言葉に頷きながら隣を見る。
ラルトスは静かに歩いていた。さっきのように森の奥を見つめているわけではない。その様子を見て少しだけ安心する。結局あの違和感も気のせいだったのかもしれない。そう思いながら視線を前へ戻そうとして、不意に後ろが気になった。
振り返ると、クチートはいつもより周囲を警戒しているように見えた。木々の間を見て、道の先を見て、雨に霞む森の奥を見る。その様子が少しだけ気になって見ていると、不意に目が合った。
ガチン。
聞き慣れた音が響く。
何となくだけど、「また見てる」と言われた気がした。
思わず笑いそうになる。出会った頃なら考えられなかったことだった。あの頃は何を考えているのか分からなかったし、近付けば睨まれていた。それが今では大顎が鳴るたびに意味を考えている。もちろん勝手な解釈かもしれない。それでも少し前にシロナと話したことを思い出すと、こういうことなのかもしれないと思った。積み重ねなんて自分では見えない。だけど振り返った時に前と違うと思えるなら、それはきっと変化しているということなのだろう。
その頃には雨脚も完全に変わっていた。葉が受け止めきれなくなった雨が次々と落ちてきて、肩も背中もすっかり濡れている。視界の向こうは白く霞み始め、来た道もどこか曖昧だった。
「これは少しまずそうね。どこかで雨宿りできればいいんだけど」
そう言われて周囲を見回すが、あるのは木ばかりだった。森なのだから当たり前だ。それなのに頭に浮かんだのは、さっき出会った青年の言葉だった。森の奥にある古い洋館。幽霊が出るとか、人影が見えるとか、そんな噂ばかりの場所。晴れていた時には笑い話みたいに聞こえていたのに、雨に煙る森の中では妙に現実味を帯びて思い出される。もちろん気のせいだと思っている。それなのに何度も森の奥へ目を向けてしまう自分がいた。
その時、不意に袖が引かれる。見下ろすとラルトスがこちらを見上げていた。
『あれ』
小さな念話と共に示された先を見る。最初は何も見えなかった。雨の向こうには木々しかない。そう思ったのだが、目を凝らすうちに違和感に気付く。森の中には存在しないはずの真っ直ぐな線だった。縦に伸びる壁。四角い窓。枝葉の向こうに覗く屋根。
森の中には不釣り合いな建物があった。雨宿りできる場所が見つかったはずなのに、素直に安心できない。恐らく先程聞いた怪談のせいだろう。シロナも足を止め、雨の向こうに佇む建物を見つめて小さく息を吐いた。
「……森の洋館、ね」
さっきまで噂話だったものが、今は確かに目の前に存在している。外壁には蔦が絡み、窓は暗く、人の気配もない。それでも雨はやんでくれない。戻るには濡れ過ぎていたし、このまま立ち止まっていても状況は変わらなかった。
ガチン。
後ろでクチートが大顎を鳴らす。
その音に背中を押されたわけではないが、結局俺たちは洋館へ向かった。
近付くほど建物の大きさが分かる。古びてはいるが立派な建物だった。玄関へ続く石畳には落ち葉が張り付き、長い間手入れされていないことが分かる。扉の前に立つと湿った木の匂いと埃っぽい匂いが混じって鼻をついた。取っ手へ手を掛ける。少し力を入れるだけで扉はあっさり開いた。
中は思っていたより見通しが利いた。窓から差し込む灰色の光が玄関ホールをぼんやり照らしていて、床には埃が積もり、壁には古い額縁が掛けられている。誰もいない。生活の気配もない。ただ長い間忘れ去られていた建物がそこにあるだけだった。
雨はまだ降っているはずなのに、その音が遠い。聞こえないわけではない。けれど森の中にいた時とは違う。まるで建物そのものが外の音を遮っているみたいだった。
しばらく中の様子を見たが何も起こらなかった。人影もなければ足音も聞こえない。拍子抜けするほど静かだった。噂なんてそんなものなのかもしれない。そう思い始めた頃には、張っていた緊張もかなり薄れていた。
「雨、少し弱くなったか?」
雨宿りを始めてしばらく経った頃、窓の外を見ながら俺はそう呟く。正確には分からない。ただ入った時より音が落ち着いたような気がした。シロナも頷き、一度外へ出てみようという話になる。
俺は扉の取っ手へ手を掛ける。
ガチャッ。
エントランスにそんな音だけが響いた。
扉が開かない。一瞬だけ首を傾げながら何度か試してみる。けれど結果は同じだった。
シロナも確かめてみたが結果は同じだった。重いわけじゃない。引っ掛かっているわけでもない。ただ開かない。鍵が掛かっているようにも見えないのに、扉だけが完全に閉ざされている。
さっきまで開いていたはずだった。
なのに。
玄関ホールは静まり返っている。外ではまだ雨が降っているはずなのに、その音さえ遠い。ラルトスも何も言わない。シロナも扉を見つめたまま黙っていた。
嫌な沈黙だった。
「……まさか、閉じ込められた?」