ラルトスの手は、俺の手よりずっと小さかった。さっき触れた時は指先を乗せるだけみたいだったのに、歩き出してもその手は離れず、薄暗い洞窟の中で、手のひらに残る温度だけが妙にはっきりしている。俺は強く握り返していいのか少し迷った。力を入れすぎたら痛いかもしれないし、急に握ったらまた怖がらせるかもしれない。けれどラルトスは俺の半歩うしろに立ち、通路の奥や岩の隙間を確かめながらも、繋いだ手だけはそのままにしていた。
「よし」
俺は立ち上がった。膝はまだ少し震えていたし、さっき走ったせいで足も痛い。それでも座ったままでいても父さんたちのところへは戻れないし、コドラだっていつまた追ってくるか分からない。洞窟の奥から落ちる水滴の音が、湿った岩に当たって小さく響いている。
「出口を探そう」
『……うん』
ラルトスは小さく頷いた。俺たちはまた洞窟を歩き始める。天井から落ちた水が石の上で跳ね、湿った岩壁にはところどころ外の光を拾ったような薄い明るさが残っていた。さっき一人で迷っていた時は、どの通路も同じに見えた。右へ曲がっても左へ曲がっても、岩と影ばかりで、足音だけが遅れて返ってくる。でも今は、俺が一歩進むたびに、少し遅れてラルトスの足音がついてくる。湿った通路に、二つの足音が並んで響いた。
ラルトスは歩きながら、何度も通路の奥へ顔を向けた。耳を澄ませるように立ち止まり、俺が振り返ると、何も言わずにまた歩き出す。野生のポケモンの気配でも拾っているのか、俺には聞こえない何かを感じ取っているのかは分からない。けれどそのたびに、繋いだ手にほんの少し力が入るので、俺は急かさずに待った。何もいないと分かったらしい時は、ラルトスの方から俺の手を軽く引く。こっち、と言われた気がして、俺はその小さな合図に従った。
「そういえばさ」
『……?』
「最初に聞こえた、あの声。頭の中に直接来るやつ」
ラルトスは少し首を傾げた。自分では変なことをしているつもりがないらしく、赤い目がじっと俺を見る。
『……みんな、できない?』
「できない」
『……え』
今度はラルトスの方が足を止めた。繋いだ手の力が少し抜ける。
『……ほんとう?』
「ほんと。俺、最初めちゃくちゃびっくりしたからな」
『……』
「幽霊かと思った」
『……ゆうれい?』
「うん。洞窟で、誰もいないのに声がするんだぞ。普通に怖いだろ」
ラルトスは俯き、足元の石を見たまま少し遅れて歩き出した。さっきまで暗い通路を確かめていた目が、今度は自分の足元だけを見ている。俺が手を引くと、ラルトスは一歩だけ遅れてついてきた。
『……わるかった』
「いや、謝ることじゃないって。びっくりしただけだし」
そう言いながらも、俺は初めて声が聞こえた時のことを思い出した。あの時は本当に、洞窟そのものが喋ったのかと思ったのだ。けれど今は、その声の主が隣を歩いていて、俺の手を握っている。変な感じはする。でも、もう怖くはなかった。
「ほかのポケモンとも、そんなふうに話せるのか?」
ラルトスはすぐには答えなかった。通路の先を見ながら、何かを探るように目を細める。
『……ことば、じゃない』
「ん?」
『……きもち』
「気持ち?」
『……わかる』
「ああ……」
図鑑に書いてあった。人やポケモンの感情を感じ取るポケモン。けれど本で読むのと、隣でそう言われるのでは全然違う。俺が何かを考える前に、ラルトスがこちらを見上げた。
『……ユアは、わかりやすい』
「え?」
『……すぐ、でる』
「それ褒めてないよな?」
ラルトスは答えなかった。ただ、俺の手を握ったまま、赤い目を少し細める。俺は口を尖らせた。
「お前、意外と失礼だな」
『……ばかより、いい』
「まだ言うかそれ」
洞窟の中に俺の声だけが少し大きく響いた。ラルトスは何も言わない。けれど俺が歩き出すと、今度は半歩うしろではなく、俺の横まで来た。肩が触れるほどではない。けれど、手を伸ばさなくても隣にいると分かる距離だった。
俺たちはしばらく黙って歩いた。分かれ道を見つけるたび、ラルトスは立ち止まって通路の奥を見つめる。何もいない道を選んでいるのか、それともコドラの気配を避けているのか、俺には分からない。ただ、ラルトスが首を振った道には入らなかった。代わりに、薄く風が流れてくる方、岩の匂いの奥に草の匂いが混じる方を探す。壁に手をつくと湿った土が指につき、天井から落ちた水が髪に当たった。洞窟の中は寒いのに、握った手だけは冷たくならなかった。
「なあ、ラルトス」
『……?』
「出口って、分かる?」
ラルトスは目を閉じる。ほんの少しだけ、手の力が弱くなった。俺も黙って待つ。水滴の音が二つ、三つ落ちる。そのあと、ラルトスはゆっくり目を開けて、通路の先へ顔を向けた。
『……あっち』
「ほんと?」
『……たぶん』
「たぶんかよ」
『……ユアよりは、わかる』
「それはそう」
否定できなくて、俺は小さく息を吐いた。ラルトスはそのまま先へ進もうとしたが、傷ついた足を踏み出した瞬間に少しだけ体が傾く。俺は慌てて手を引いた。
「無理すんなよ」
『……してない』
「してるだろ。今ぐらついた」
『……してない』
「頑固だな、お前」
ラルトスは何も返さない。けれど歩く速さは少し落ちた。俺もそれに合わせて歩く。コドラから逃げていた時みたいに走る必要はない。急がなきゃいけないのは分かっている。でも、今のラルトスに無理をさせたら、次に逃げる時に動けなくなるかもしれない。そう思うと、足が勝手に早くなりそうになるたび、俺は繋いだ手を見て歩幅を戻した。
ふいに、ラルトスの足が止まった。繋いだ手が引かれ、俺もその場で止まる。ラルトスは通路の奥を見ていた。赤い目が細くなり、さっきまで緩んでいた指に力が戻る。
「どうした?」
『……』
返事はない。ラルトスは少しだけ前へ出て、耳を澄ませるように顔を上げた。俺には何も聞こえない。水滴の音も、俺たちの息も、洞窟の奥へ吸い込まれていくだけだった。
「ラルトス?」
『……いる』
消えそうな声が、頭の中に落ちた。
『……ちかい』
俺もラルトスの見ている方へ目を向ける。暗い通路は曲がり角の先で途切れていて、その奥までは見えない。けれどラルトスの手が、痛いくらい俺の指を掴んでいる。
「何が……」
最後まで聞く前に、奥の方で岩が砕ける音がした。鋼の体が壁にぶつかったみたいな重い音が、通路を伝ってこっちへ来る。そのあとに低い唸り声が続いた。俺は喉の奥で息を詰まらせる。
「嘘だろ……」
ラルトスの手を握り直す。今度は俺の方からだった。
「走るぞ!」
『……うん!』
今度はラルトスも迷わなかった。俺たちは同時に駆け出す。すぐ後ろの曲がり角から、コドラの鋼の体が岩を擦りながら飛び出してきた。青い目が俺たちを捉え、前脚が地面を削る。あれはまだ諦めていなかった。俺たちが細い通路を抜けたから終わりじゃない。縄張りに入った相手を、まだ外へ出したわけじゃないのだ。
「なんでまた見つかるんだよ!?」
叫んでも返事なんか返ってこない。代わりに、コドラが地面を蹴った。背後で岩が砕け、足元まで振動が届く。俺はラルトスの手を引き、曲がり角へ飛び込んだ。湿った岩に靴が滑り、転びかけたところを壁に手をついて何とか踏みとどまる。ラルトスも足を引きずりながらついてくる。傷ついた脚はさっきより重そうで、走るたびに小さな体が横へ揺れた。
「はぁっ……!」
息が切れる。足も重い。さっきから走りっぱなしで、七歳の体力なんてとっくに底をついている。けれど隣を見ると、ラルトスは口を結び、俺の手を離さないまま足を前へ出していた。傷だらけなのに、遅れても止まらない。だったら俺も止まれない。
『……ユア』
「なんだ!?」
『……ひかり』
「え?」
前を見る。暗い通路の先に、ほんの少しだけ白い場所があった。岩の隙間から差し込む光。洞窟の中の反射じゃない。風が流れてくる。土と草の匂いが混じっている。
「出口だ!」
声が勝手に出た。ラルトスの手がぴくりと動く。俺たちは光へ向かって走った。転びそうになりながら、息を切らしながら、足元の石を蹴って、目の前の明るさだけを見た。光は少しずつ大きくなる。外の空気が頬に触れる。あと少し。あとほんの数歩だった。
その時、背後で地面が大きく揺れた。振り返るより先に、コドラの荒い息がすぐ後ろで聞こえる。いつの間にそこまで詰められたのか分からなかった。青い目が俺たちを見下ろし、太い前脚が持ち上がる。
「なっ……」
出口は目の前だった。手を伸ばせば届きそうだった。けれどコドラの影が背中から覆いかぶさり、足が止まる。ラルトスの手が、俺の手から離れた。
「ラルトス!?」
ラルトスは俺の前に立っていた。小さな背中が震えている。それでも逃げない。赤い目は、まっすぐコドラを見ていた。さっきまで俺の手を掴んでいたその手が、今度は胸の前でぎゅっと握られる。
ーー今度は、ラルトスが。
コドラの前脚が振り下ろされる。