繋がりの王者   作:宵取与一

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さて、ここからが本番


5話

コツ。

 

 今度ははっきり聞こえた。

 

 さっきの音は気のせいだったのかもしれない。そう思おうとしていたのに、2度目の音が鳴ったせいでその考えは振り払われた。

誰もいないはずの廊下の奥から聞こえたそれは、人の足音のように聞こえた。

 

 思わず足を止めると、少し先を歩いていたシロナが振り返った。

 

「ユア?」

 

「……聞こえた」

 

「何が?」

 

「足音みたいな音」

 

 自分でも上手く説明できなかった。足音だったと断言する自信はない。けれど、それ以外の表現も思い付かない。誰かがいるのかもしれない。そう思う一方で、ラルトスもクチートも反応していないことが余計に自信をなくさせた。ラルトスは不思議そうに俺とシロナを見比べているだけで、クチートも少し離れた場所から静かにこちらを見ているだけだった。それでも、聞いた気がしたのだ。確かに。

 

「足音?」

 

「ああ。誰かが歩いたみたいな」

 

 シロナは少しだけ廊下の奥へ視線を向け、暗がりの向こうを見極めるようにしてから、もう一度こちらを見る。

 

「確認してみましょう」

 

 その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。聞き間違いだと言われても仕方ないと思っていた。怪談話を気にしすぎだと笑われても、たぶん反論できなかった。けれどシロナはそうしない。だから俺も、足元に残っていた迷いを一度飲み込むようにして頷き、シロナの後に続いた。

 

 廊下は静かだった。窓を打つ雨音だけが遠くで響いている。壁には古い額縁が並び、細い窓の向こうでは、雨に濡れた森が灰色に沈んでいた。さっきまで聞こえていたはずの音はもうどこにもない。それでも歩くたびに自然と耳が周囲の音を探してしまう。自分たちの靴音。床板の軋み。窓の外の雨。どれも似ているようで、さっき聞こえた音とは違う気がした。けれど、たった一つの音をそこまで覚えているわけがないと思うと、自分の方がおかしいのかもしれないという考えも消えなかった。

 

 音がしたと思った方へ進んでも、結局そこには何もなかった。廊下の突き当たりには閉じられた扉と古びた棚、それから細い窓があるだけで、人が隠れられそうな場所は見当たらない。念のため扉を開けてみても、中は小さな物置だった。壊れた椅子や古い布が置かれているだけで、人の気配はない。シロナも部屋の中を一通り見回してから扉を閉める。

 

「誰もいないな」

 

「ええ」

 

 もう一度周囲を見る。やっぱり誰もいない。聞いた音だけが頭の中に残っていた。

 

「反響かしら」

 

「反響?」

 

「古い家では風や雨音が反響することがあるの。もしかしたら聞き間違えたのかもしれないわね」

 

 そういうこともあるのかもしれない。外では今も雨が降っている。ここは古い洋館だ。普段とは音の聞こえ方が違っていても不思議じゃない。

 

「少なくとも、人が隠れているようには見えなかったわ」

 

「……だな」

 

「なら今はそっちを信じましょう」

 

 納得したわけじゃない。けれど、ここで答えのないことを考え続けても仕方がないことだけは確かだった。最後にもう一度だけ廊下の奥を見る。静かだった。誰もいない。そう確認してから、俺たちは客室へ戻った。

 

 客室へたどり着くと、部屋の空気が少し暗くなったように感じた。窓の外は相変わらず雨で、灯りのない部屋には夕方とも夜ともつかない薄い影が落ちている。ベッドは古いが使えないほどではなく、机と椅子も残っている。ここで夜を過ごすことになるかもしれないと思うと気は重かったが、玄関も窓も開かない以上、今はここが一番まともな場所だった。

 

「結局なんだったんだろうな」

 

 思わずそう呟くと、シロナはベッドの縁へ腰掛けながら肩をすくめた。

 

「少なくとも、今は誰もいなかったわ」

 

「それ答えになってないだろ」

 

「全部に答えがあるとは限らないもの」

 

 どこか楽しそうな声だった。さっきまでの緊張を引きずっているのは俺だけなのかと思うくらい、シロナはいつも通りに見える。けれど、そのいつも通りが少しありがたかった。全部が不気味なままだと、頭の中までこの洋館に閉じ込められてしまいそうだったからだ。

 

「怖かったの?」

 

「怖くない」

 

「本当かしら」

 

「……」

 

「ふふっ」

 

 シロナは小さく笑う。それから、わざとらしく考えるような仕草を見せた。

 

「じゃあ今夜も一人で寝られるわね」

 

「は?」

 

「怖いなら私が隣で寝てあげてもいいけれど?」

 

「絶対嫌だ」

 

 反射的に返していた。シロナが吹き出す。

 

「即答されたわ」

 

「当たり前だろ」

 

「ひどい、傷ついたわ」

 

「絶対嘘だ」

 

「ばれちゃった」

 

 そう言いながら楽しそうに笑うシロナを見ていると、さっきまで感じていた妙な緊張が少しだけ薄れた。ラルトスは二人のやり取りを見て首を傾げている。

 

『なに?』

 

「知らなくていい」

 

「知らなくていいわ」

 

 なぜか答えが重なった。ラルトスはますます分からないという顔をしていたが、深く追及はしてこなかった。少し離れた場所にいたクチートだけが、ガチン、と一度だけ顎を鳴らす。その音が妙に呆れたように聞こえて、思わず笑ってしまった。

 

 閉じ込められていることも、足音のことも、本当は何一つ解決していない。それでも、館へ入ってきた時よりはずっと気が楽になっていた。だから、この時はまだ思っていたのだ。あの足音も、きっと大したことではなかったのだろうと。

 

「それで、読むのか?」

 

 俺は鞄へ視線を落とした。中には、さっき書斎で見つけた日記が入っている。足音のことがあったせいで一度は忘れかけていたが、思い出した途端、また別の重さが胸の奥に落ちてきた。

 

「ええ。せっかくだもの」

 

「せっかくで読むものなのか、日記って」

 

「普通は読まないわね」

 

「だよな」

 

「でも、ここに閉じ込められている以上、何か分かるかもしれないでしょう?」

 

 確かに、ここで何が起きたのか分からないまま夜を迎えるよりは、少しでも手がかりがある方がいい。俺は鞄から日記を取り出して机の上に置いた。表紙は色褪せていて、角は少し擦り切れている。他の本は湿気で傷んでいたのに、この日記だけは妙に形を保っていた。

 

「本当に読んでいいのかな」

 

 シロナがこちらを見る。

 

「気になる?」

 

「いや、気になるのは気になる。でも、誰かの日記だろ。勝手に読んでるって思うと、ちょっとな」

 

 怖いというより、気まずい。子供部屋に残された玩具や、傷付いた家族写真を見た後だから余計にそう思うのかもしれない。この洋館に住んでいた人たちがどうなったのかは分からない。けれど、ここには確かに生活があった。机や椅子や絵本がただの物ではなくなってしまったせいで、日記もただの手がかりとして扱うには少し重かった。

 

 シロナは日記に手を置いたまま、少しだけ考える。

 

「確かに、あまり褒められたことではないわね。でも、私たちは今この建物に閉じ込められている。ここで何が起きたのかを知る手がかりになるなら、読んでおく意味はあると思うわ」

 

「……手がかり」

 

「それに、もし本当に誰かがここで何かを伝えようとしているなら、読まれないまま残っている方が寂しいかもしれないでしょう?」

 

 その言い方は少しずるいと思った。そんなふうに言われると、読まない理由の方が薄くなってしまう。俺は小さく息を吐いて、椅子に座った。ラルトスは机のそばへ来て、少しだけ背伸びするように日記を覗き込む。クチートは部屋の隅にいた。そこから動くことはなく、ただ静かにこちらを見ているようにも、見ていないようにも見えた。

 

 日記を開く。紙は古く、少し波打っていた。文字は丸くて、ところどころ大きさが揃っていない。

子供の字だ。

最初のページには、日付らしいものと、短い文章が書かれていた。

 

 

〇月〇日

 

 きょうは、お母さんとおかしをたべたよ。

 

 あまくておいしかった。

 

 

 

〇月〇日

 

 お父さんがほんをよんでくれた。

 

 つづきがきになる。

 

 

 

〇月〇日

 

 にんぎょうのめがとれちゃった。

 

 お父さんがなおしてくれるって。

 

 

 

〇月〇日

 

 森へいこうとしておこられた。

 

 ちょっとだけなのに。

 

 

 

〇月〇日

 

 きょうはあめ。

 

 おそとであそべなくてつまらない。

 

 

「普通だな」

 

 思わず言うと、シロナも隣から覗き込みながら頷いた。

 

「ええ。普通ね」

 

 最初の数ページは本当に普通の家族の日記だった。お母さんと食べたお菓子。お父さんに読んでもらった本。片目が取れかけた人形。森へ行こうとして怒られたこと。短い文章ばかりなのに、読んでいるうちに、この子がこの洋館でどんなふうに暮らしていたのか少しずつ見えてくる気がした。広い家に住んでいて、森が近くて、雨の日が多くて、子供部屋で遊ぶことが多かった。たぶん少し寂しがりで、でも家族のことは好きだった。

 

 次のページをめくる。

 

 

〇月〇日

 

 きょうは、あの子とあそんだ。

 

 

 

〇月〇日

 

 あの子とかくれんぼをした。

 

 あの子はみつけるのがじょうず。

 

 

 

〇月〇日

 

 きょうもみつかった。

 

 くやしい。

 

 

「あの子?」

 

 声に出したのは俺だった。

 

「友達かしら」

 

 シロナも日記へ視線を落としたまま答える。

 

「名前書いてないな」

 

「そうね」

 

 それだけなら、まだ大した違和感ではなかった。子供の日記だ。友達の名前を書かなかっただけかもしれないし、いつも一緒に遊んでいる相手なら、わざわざ名前を書かなくてもよかったのかもしれない。けれど、次のページにも、その次のページにも、あの子は出てきた。

 

 

〇月〇日

 

 きょうもあの子とあそんだ。

 

 

 

〇月〇日

 

 あの子はあめのひだけくる。

 

 

 

〇月〇日

 

 きょうもあめ。

 

 あの子はたのしそうだった。

 

 

 そこで自然と窓を見る。外では今も雨が降っている。強くなったり弱くなったりしながら、ずっと洋館を包んでいる。雨の日にだけ来る。そう書かれているだけなのに、今の状況と重なるせいで、少しだけ嫌な感じがした。

 

「雨の日だけ来るって、変じゃないか?」

 

「近所に家があれば、まだ分かるけれど」

 

 シロナは窓の向こうを見た。そこにあるのは森だけだった。もちろん、昔は近くに別の家があったのかもしれない。道があったのかもしれない。この洋館がどれくらい古いのかも分からないのだから、今の景色だけで決めることはできない。けれど、雨の日にだけ現れる友達というのは、どうにも奇妙に感じた。

 

 さらにページをめくる。

 

 

〇月〇日

 

 お母さんにあの子のことをはなした。

 

 でも、みえないっていった。

 

 

 

〇月〇日

 

 お父さんもみえないっていった。

 

 

 

〇月〇日

 

 ちゃんといるのに。

 

 

 そこで俺はページをめくる手を少し止めた。ちゃんといるのに。その文字は子供のものらしく丸いのに、なぜか少し強く書かれているように見えた。自分だけが見えているものを、他の誰かに否定された子供の不満。そう考えれば普通だ。空想の友達かもしれない。子供にはそういうことがあるのかもしれない。でも、この洋館で、その文章を読むと、ただの空想とは思いにくかった。

 

「……他の人には見えなかったのか」

 

「この子はそう書いているわね」

 

 シロナの声も、さっきより少し静かだった。閉じ込められていること。足音が聞こえたこと。雨が降っていること。日記に書かれた、雨の日に来るあの子。それらが一つずつ繋がりそうになるたびに、俺は無意識にそれを切り離そうとしていた。偶然だ。考えすぎだ。そう思いたかった。けれど、日記の中の文字は、ページをめくるたびに少しずつその言い訳を削っていく。

 

 

〇月〇日

 

 あの子は森のことをよくしってる。

 

 

 

〇月〇日

 

 あの子はどこでもみつける。

 

 

 

〇月〇日

 

 またみつかった。

 

 

 気付けば、お母さんもお父さんも出てこなくなっていた。最初の方には何度も出てきたお菓子も、本も、人形もない。書かれているのは、あの子のことばかりだった。最初は友達と遊んだだけの日記に見えたのに、ページをめくるほど、その子の世界から少しずつ別のものが消えていくように感じた。

 

 

〇月〇日

 

 ベッドのしたでもみつかった。

 

 

 

〇月〇日

 

 クローゼットのなかでもみつかった。

 

 

 

〇月〇日

 

 あの子はぜったいみつける。

 

 

 短い文章ばかりになっている。最初の日記には、ちゃんと生活があった。けれど今はもう違う。あの子と遊んだこと。見つかったこと。隠れても見つけられること。それだけが何度も繰り返されている。かくれんぼの話だと思えば、それだけなのかもしれない。けれど、ベッドの下でも、クローゼットの中でも見つかったと書かれているのを読むと、遊びの話とは少し違うものに思えてしまった。

 

 ラルトスが小さく俺の服を引っ張る。

 

「ラルトス?」

 

『……へん』

 

「何が?」

 

 ラルトスは日記を見て、それから少しだけ部屋の中へ視線を動かした。何かを探しているようにも、何かを避けているようにも見えたが、すぐに小さく首を振る。

 

『わからない』

 

 それだけだった。無理に聞こうとは思わなかった。ラルトスが分からないと言う時は、本当に言葉にできないのだろう。気配なのか、感情なのか、もっと別の何かなのか。俺には分からない。ただ、ラルトスがそう言っただけで、日記の文字が急に生きているもののように見えてしまった。

 

 ページをめくる。

 

 

〇月〇日

 

 きょうはあえなかった。

 

 

 

〇月〇日

 

 あめなのにこなかった。

 

 

 

〇月〇日

 

 さみしい。

 

 

 

〇月〇日

 

 お母さんはよかったねっていった。

 

 

 その一行で、胸の奥に嫌なものが残った。お母さんはよかったねっていった。子供の字は淡々としている。ただ言われたことを書いただけなのだろう。けれど、そこに書かれた感情は日記を書いた子とお母さんで真逆だった。あの子に会えなくて寂しい子供と、その子が来なかったことをよかったと言う母親。その差が、何も説明されていないのに妙に気味悪かった。

 

「……お母さんは、その子のことを嫌がってたのか?」

 

「そうかもしれないわね」

 

「でも見えないんだろ」

 

「見えなくても、何かを感じていたのかもしれないわ」

 

 シロナの言葉に、また窓の外の雨音が耳に戻ってくる。見えないもの。聞こえないもの。それでも確かにあるかもしれないもの。そんなことを考えたせいで、さっき誰もいなかった廊下のことまで思い出してしまった。

 

 ページをめくる。

 

 

〇月〇日

 

 またきた。

 

 

 

〇月〇日

 

 よかった。

 

 

 

〇月〇日

 

 あの子はわたしをわすれてなかった。

 

 

 嫌な違和感が胸の奥に残る。それが何なのかは分からない。ただ、日記を書いていた子の世界が、少しずつ狭くなっている気がした。お母さんがよかったと言ったことも、お父さんが見えないと言ったことも、その子にはもうあまり届いていない。あの子が来た。よかった。忘れていなかった。それだけで埋まってしまっている。

 

 次のページをめくると、そこには短い文章が二つだけ残っていた。

 

 

〇月〇日

 

 きょう、あの子とやくそくした。

 

 

 

〇月〇日

 

 つぎは、わたしがみつけるばん。

 

 

そこで文章は終わっていた。

 

「……終わりか」

 

 思わず呟きながら次のページをめくる。白紙だった。さらにめくる。また白紙。日記はまだ半分近く残っているのに、そこから先には何も書かれていない。急に終わったなと思いながら顔を上げる。何か言うつもりだったのかもしれない。けれど、その前に違和感を覚えた。

 

 シロナが黙っていた。

 

 視線は日記へ落ちたまま動かない。

 

「シロナ?」

 

 返事はない。その顔を見た瞬間、背筋が冷えた。だから俺も反射的に日記へ視線を戻した。

 

 白紙だったはずのページ。

 

 そこに、赤い文字があった。

 

 

 みつけた

 

 

 心臓が大きく跳ねる。

 

 さっきまでなかった。少なくとも俺は見ていない。何か言おうとして、もう一度ページを見る。

 

 

 みつけた

 

 みつけた

 

 

 増えていた。

 

 息が止まる。目を離した時間なんてほんの一瞬だった。それなのに、確かに文字は増えている。理解が追いつかなかった。どうして増えた。誰が書いた。本当に今増えたのか。頭の中では次々と疑問が浮かぶのに、そのどれにも答えは出ない。

 

 恐る恐る視線を落とす。

 

 

 みつけた

 

 みつけた

 

 みつけた

 

 

 また増えていた。

 

「閉じて」

 

 その時、初めてシロナが口を開いた。低い声だった。聞いたことがないくらい真剣な声。

 

「ユア、閉じて」

 

 反射的に日記を閉じる。

 

 部屋が静まり返った。聞こえるのは雨音だけだった。誰も喋らない。閉じた日記を見つめながら、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえていた。

 

 その時だった。

 

 ラルトスが不意に顔を上げた。小さな身体がぴたりと固まり、じっと客室の扉を見ている。

 

「ラルトス?」

 

 呼び掛けても返事はない。

 

『いる』

 

 頭の中へ声が響いた瞬間、背筋が冷えた。俺とシロナは同時に扉を見る。閉じられたままの扉の向こうに人影はない。それでもラルトスは視線を逸らさなかった。

 

 そして。

 

 コツ。

 

 扉の向こうから、小さな足音が聞こえた。

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