コツ。
扉の向こうから聞こえた足音に肩が跳ねた。閉じた日記が手から滑り落ち、床へ転がる。
ラルトスはまだ扉を見ていた。身体を固くしたまま、一度も視線を逸らそうとしない。部屋の中は静まり返っていて、窓を叩く雨音だけが聞こえていた。
つぎは、わたしがみつけるばん。
日記の最後に残されていた一文が頭から離れない。白紙だったはずのページに『みつけた』と、赤い文字が浮かび上がった。
理屈は分からない。けれど俺もシロナも確かにそれを見た。だから今この部屋にあるもの全部が、さっきまでとは違って見える。ベッドも机も窓も閉じられた扉も、ただ古いだけのものではなくなっていた。
「……今の、聞こえたよな」
シロナは扉を見たまま頷く。
「ええ。」
その返事に背筋が強張る。
聞こえたのは俺だけじゃない。
「開けるのか?」
「無理にとは言わないけれど、私は確認しておきたいわ。足音が何だったのかも、この部屋の前で聞こえた理由も、そのまま夜を明かすなんて嫌だもの」
シロナが立ち上がる。俺も床へ落ちた日記を拾い上げた。正直、持っていたくはない。今すぐ鞄の奥へ押し込んでしまいたいし、できれば二度と開きたくもない。それでも、この洋館で起きていることを知る手掛かりは今のところこれしかなかった。
扉の前に立つ。シロナが取っ手へ手を掛け、ゆっくりと開いた。蝶番が軋む音が静かな廊下へ広がる。さっきの足音の主が立っているんじゃないかと思ったが、廊下には誰もいなかった。
薄暗い廊下が奥まで続いている。人影はない。動くものもない。さっきの足音が嘘だったみたいに静まり返っていた。
シロナはすぐには部屋を出なかった。廊下の奥や反対側、壁に掛けられた額縁まで順番に見ている。俺も同じように見回したが、古い壁と閉じた扉が並んでいるだけだった。
「いないな」
「そうね。今見える範囲には誰もいないわ」
「また反響とかか?」
「…正直、もうそれだけで説明できる気もしないのよね。あの足音を聞いたのはユアだけじゃないし、私も同じものを聞いている。それに、あの日記のこともあるでしょう?」
最後の言葉で視線が自然と手の中の日記へ落ちる。
つぎは、わたしがみつけるばん。
あの一文だけが引っ掛かっていた。日記はまだ半分近く残っている。毎日のことを書いていた子だ。お菓子を食べたことも、本を読んでもらったことも、あの子と遊んだことも書いていた。そんな子が急に何も書かなくなるだろうか。
なら、書けなくなったのか。そう考えた瞬間、嫌な想像が頭をよぎる。日記の続きを書けなかった理由なんて考えたくなかった。
どれくらいの時間廊下を歩いただろうか。
俺はふと壁の風景画へ目を向けた。
森を描いた古い絵だった。最初は気のせいだと思った。洋館へ入ってから似たような額縁はいくつも見ているし、古い風景画なんて珍しくもない。だから気にするつもりはなかった。
けれど、なぜか視線が離れない。
暗い緑色の木々。奥の方に描かれた白い花。額縁の右下にある傷。その傷を見た瞬間、足が止まった。
見覚えがあった。
いや、見覚えがあるどころじゃない。さっきも見た気がする。俺たちは客室を出てからずっと歩いていた。同じ場所へ戻るような分かれ道もなかったはずだ。それなのに、その傷だけははっきり覚えていた。
「なあ、これ」
俺が絵を指差す。
シロナも足を止めた。何も言わないまま絵を見る。その視線は額縁の傷の辺りで止まり、しばらく動かなかった。
「……どう思う」
聞くと、シロナは絵から目を離さないまま口を開く。
「ユア。私たち、客室を出てからどれくらい歩いたと思う?」
思いもよらない質問だった。
「どれくらいって……結構歩いただろ」
「ええ。私もそう思うわ。それに、来た道を戻ったり、洋館を一周したなんてことも無いはず、この洋館、そんな作りじゃないもの」
その言葉に胸の奥がざわつく。シロナがこういう言い方をする時は、大抵良くない。俺はもう一度絵を見る。見れば見るほど、さっき見た絵にしか思えなかった。
「同じ絵、だよな?」
「ええ。確信はないけれど、でももし同じ絵だとしたら変、よね、私たち同じ場所へ戻っていることになる」
言われて、背筋が冷たくなる。
確かにその通りだった。一本道だったはずだ。曲がり角はいくつかあったけれど、同じ場所へ戻った覚えはない。なのに同じ絵がある。まるで洋館の方が勝手に俺たちを迷わせているみたいだった。
しばらく誰も喋らなかった。
絵を見ていても答えは出ないが、だからと言って、この場に立ち止まっていても何も変わらない気がした。
「……どうする?」
俺が聞く。
シロナは少し考えてから答えた。
「足音のことも日記のことも、まだ何も分かっていないわ。このまま客室へ戻ったところで落ち着いて眠れる気もしないもの。もう少しだけ調べてみましょう、それに、こんな状況だもの、確実に客室へ戻れる保証もなくなったものね」
その意見には納得できた。俺たちは探索を続けることにした。
しばらく廊下を歩く。
同じような扉が並び、同じような額縁が壁に掛かっている。古い洋館だからそんなものだと思っていたし、最初のうちは何も気にならなかった。
けれど歩き続けているうちに違和感が大きくなる。同じ場所を探しているわけじゃない。それなのに見覚えのある景色ばかりが現れる。さっき通った気がする額縁があり、見覚えのある扉があり、気付けば同じ廊下を歩いているような感覚になる。
広い洋館だ。似たような場所くらいいくらでもある。そう自分に言い聞かせながら歩いていた時だった。
「ユア」
不意にシロナが足を止める。呼ばれて顔を上げると、シロナは少し先の壁を見つめていた。嫌な予感がして視線を辿る。
そこに掛かっていた風景画を見た瞬間、背筋が冷たくなった。暗い緑色の木々。奥に描かれた白い花。そして額縁の右下にある小さな傷。そのどれにも見覚えがあった。
またもやさっき見た絵だった。
今度は俺もシロナもすぐには何も言えなかった。同じ絵をもう一度見た。普通そんなことはありえないはずなのに。
右へ曲がった。
まっすぐ歩いた。
途中で話もした。
迷ったと言われればそうなのかもしれない。けれど、自分たちがどこで間違えたのか説明できない迷子なんて聞いたことがなかった。
「……また、だよな」
「ええ」
シロナは短く頷く。
「偶然じゃないわね」
「じゃあ何なんだよ」
「それが分からないから困っているの」
そう言って小さく息を吐いた。
いつも落ち着いているシロナでも、さすがに余裕がなくなってきているらしい。その顔には少し、疲れが見えていた。
ラルトスも俺の足元で落ち着かない様子を見せていた。何度も周囲を見回し、その度に不安そうに耳を伏せる。
『……わからない』
頭の奥に小さな声が響く。
「ラルトスもか」
ラルトスは申し訳なさそうに俯いた。
ラルトスは洋館に入ってからずっと口数が少ない。いつもなら周囲の感情を読んで教えてくれるのに、洋館に入ってからはそれがほとんど無いのだ。
この洋館に入ってから感じている違和感は、少しずつ形を持ち始めていた。
足音。
赤い文字。
同じ絵。
どれか一つなら偶然で済ませられた。
けれど、もう三つ目だ。
それでも頭のどこかでは、まだ気のせいだと言い聞かせようとしている自分がいた。そうでもしないと落ち着いていられなかった。
「日記の最後なんだけどさ」
気付けばそんな言葉が口から出ていた。
「最後?」
「つぎは、わたしがみつけるばん、ってやつ」
あの一文がまだ頭から離れない。何度考えても気になる。
「結局見つけられたのかな」
あの子をなのか、探しに行った相手をなのか、それともかくれんぼの続きをなのかは分からない。けれど日記はあそこで終わっている。だから余計に気になった。
だけど、シロナからの返事はない。
聞こえなかったのかと思ってもう一度呼ぶ。
「シロナ?」
それでも返事はなく、不思議に思って振り返った。
誰もいなかった。
思考が止まる。
ついさっきまで一緒に絵を見て話をしていたはずだった。隣を歩いていたはずだった。それなのに廊下には俺とラルトスしかいない。
「……え?」
声が漏れる。
理解が追いつかなかった。
どこへ行った。
いついなくなった。
そんなことを考えるより先に体が動く。
「シロナ!」
呼びながら廊下を駆けた。角を曲がり、近くの扉を開ける。けれど中は空だった。別の部屋も確認する。誰もいない。もう一度名前を呼ぶ。返ってくるのは雨音だけだった。
ラルトスも落ち着かない様子で周囲を見回している。けれど何かを見つけた様子はない。
シロナが消えた。
この洋館での出来事が完全に気のせいでは済まなくなってしまった瞬間だった。