シロナが消えたことで焦りが一気に押し寄せ、俺は何度目かも分からない名前を呼びながら廊下を駆けた。近くの部屋を覗き、角を曲がり、また別の部屋を探すが結果は変わらない。どの部屋にも人の気配はなく、残されているのは埃をかぶった家具と窓の向こうで鳴り続ける雨音だけだった。
ーーそんなはずがない。
シロナは強いし頭も良い。こんな場所で簡単にどうにかされるような人じゃないし、自分から何も言わずに姿を消すとも思えなかった。だからこそ怖い。俺の知らないところで何かが起きていると考えるしかなく、その想像が頭をよぎるたびに足は勝手に速くなった。
「シロナ!」
呼んでも返事はない。
廊下の先へ声が吸い込まれ、代わりに返ってくるのは雨音だけで、その静けさが余計に焦りを大きくする。
足元ではラルトスも落ち着かない様子で周囲を見回していた。いつもなら何かを感じ取って真っ先に教えてくれるのに、今は違う。何かを探しているというより、何を見ればいいのか分からなくなっているように見えた。
『……いっぱい』
頭の中へ響いた声は弱々しかった。
「いっぱい?」
『気持ちみたいなのも、声みたいなのも、いっぱいあって……わからない』
ラルトスは耳を押さえるように俯く。その様子を見て俺も足を止めた。感情を読もうとしているのは分かる。けれど上手く読み取れていないらしい。いや、正確には多すぎて整理できなくなっているように見えた。
足音も、赤い文字も、同じ絵も、それぞれ別の出来事だったはずなのに、今は全部が同じ場所へ繋がっている気がする。洋館そのものがおかしくなっているのか、それとも最初からこうだったのかは分からない。ただ、ここへ入った時とは何かが変わっている気がした。
「無理するな」
そう言ってラルトスを抱き上げる。
何度目かの角を曲がった時、不意に廊下の先に明かりが見えた。窓から差し込む灰色の光ではない。誰かがそこにいると思わせるような、やわらかな明るさだったので思わず足を止める。
ーーシロナかもしれない。
と、一瞬思ったが、その考えは振り払われた。シロナなら俺の声に気付かないはずがない。それでも何か手掛かりが欲しかったし、このまま当てもなく廊下を走り続けるよりはましだった。
慎重に近付く。
開いた扉の向こうには見覚えのある食堂があった。長いテーブルと並んだ椅子、その向こうで窓を叩く雨まで含めて最初に見た時と変わらない食堂だったが、一つだけ違うものがある。
テーブルの向こうに、一人の男が座っていた。
俺は思わず立ち止まった。
男もこちらに気付いたらしく少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「どうしたんだい。そんなに慌てて」
声は驚くほど普通だった。この異常な洋館の中で、足音が響き、人が消え、ラルトスまで混乱しているというのに、目の前の男だけはまるで何事も起きていないみたいに落ち着いていて、それが妙に気味悪かった。
「……あんた誰だ」
男は困ったように笑う。
「そんな顔をされても困るな」
どこか優しい、まるで子供を諭すような口調だった。
「…俺たちはこの洋館に入ってからかなり歩いてるし、この食堂にも来た。なのにあんたなんて見なかった」
男は否定も肯定もせず、黙って話を聞いていた。
「さっきまで一緒にいた人も消えたんだ。金髪の女の人で、振り返ったらいなくなってた。見なかったか?」
男は少しだけ視線を落としてから首を横に振る。
「残念だけれど、その人は見ていない」
「…あんた今までどこにいたんだよ」
思っていたより強い声が出た。
けれど仕方ないと思う。シロナは消えたし、ラルトスも苦しそうだし、洋館もおかしい。そんな状況で突然現れた男を、何の疑いもなく信用できるほど落ち着いてはいられなかった。
男は少し考え込むように視線を落とし、それから静かに答える。
「そうだな……ずっとここにいたつもりなんだけどね」
その返事に眉をひそめる。
食堂には来た。
それは間違いない。
なのに見ていない。
男の言葉と俺の記憶が噛み合わなかった。
「じゃあ、これは知ってるか」
納得はできなかったが、今は別のことの方が重要だった。
抱えていた日記を見せる。
男の視線が表紙へ落ちた瞬間、その表情が僅かに変わる。見逃しそうになるほど小さな変化だったが、さっきまでの穏やかな顔とは明らかに違っていた。
「……それを、どこで見つけたんだい」
初めて男の声に感情が混じった気がした。
俺は日記を握り直す。
この人は知っている。
日記のことを。
あの子のことを。
そして、この洋館で何があったのかを。