男の視線が日記へ落ちた瞬間、その表情が僅かに変わる。見逃しそうになるほど小さな変化だったが、さっきまでの穏やかな顔とは明らかに違っていて、俺は反射的に日記を抱える手に力を入れていた。
「……それを、どこで見つけたんだい」
初めて男の声に感情が混じった気がした。
「二階の書斎だ。本棚の中に入ってた」
そう答えると、男はすぐには何も言わなかった。ただ、長い間見ないようにしていたものを急に目の前へ置かれたみたいに、日記の表紙をじっと見つめている。その横顔を見ているだけで、この人が本当にこの日記を知っていることは分かった。やがて男は小さく息を吐き、「そうか」とだけ言った。その短い一言は、長い時間をかけてようやく喉の奥から押し出されたみたいに聞こえた。
「娘の日記なんだ」
静かな声だった。俺が「やっぱりそうなのか」と聞き返すと、男は小さく頷きながら、もう一度日記へ視線を落とした。
「よく書く子だったよ。机に向かって大人しくしていると思えば日記を書いていてね、今日は何を書いたんだと聞くと、決まって両手で隠すんだ。父さんには秘密、と言って笑っていた。絵を描くのも好きで、庭に咲いた花や窓の外の木を、見つけたまま全部描こうとしていたよ。外で遊ぶのも、本を読むのも好きだった。楽しいことを見つけるのが上手い子で、静かにしていなさいと言っても、気付けばどこかで笑っているような子だった」
男の口元が僅かに緩む。けれど、その笑みは楽しそうというより、もう触れられないものを指先だけでなぞっているように見えた。俺は自然と日記の内容を思い出していた。お父さんに本を読んでもらったこと。お母さんとお菓子を食べたこと。庭や森のこと。あの頃の日記は本当に普通で、どこにでもありそうな家族の日常だった。だからこそ、途中からそこに「あの子」しか出てこなくなったことが、今さら重く感じられる。
「あの子って何なんだ」
俺が聞くと、男はすぐには答えず、窓の向こうの雨を見るように少し顔を上げた。
「私には見えなかった、そして妻にも、近所の人にも見えなかったし、誰に聞いても、そんな子は知らないと言われた。だから最初は、子供がよく作る空想の友達のようなものだと思っていたよ。寂しい時や退屈な時に、自分だけの友達を作ることはあるだろう。娘がその話をするたびに、私はそういうものだと思おうとしていた」
そういうもの、という言い方が少し引っ掛かった。男は娘を馬鹿にしているわけではなかった。むしろ信じたかったのだと思う。けれど、見えないものをどう信じればいいのか分からなかった。そういう顔をしていた。
「でも、娘は本当にいると信じていた。雨の日になると窓の外を気にして、あの子が来るかもしれないと言っていた。来た日はずっと楽しそうで、今日はかくれんぼをしたとか、どこに隠れても見つけてくるとか、次は自分が探す番なんだとか、本当に嬉しそうに話すんだ。私は見えなかった。声も聞こえなかった。でも、娘が嘘をついているとは思えなかった」
胸の奥がざわつく。次は自分が探す番。その言葉は日記の最後に残されていた一文と同じだった。
つぎは、わたしがみつけるばん。
あの一文を書いた時、日記の女の子は怖がっていたのではなく、たぶん楽しみにしていた。今なら少し分かる気がした。誰にも見えない友達を、自分だけが本当にいると知っていて、今度は自分が見つける番なのだと信じていた。その明るさが、今の洋館ではかえって苦しかった。
「奥さんは、その話をどう思ってたんだ」
男の表情が少しだけ曇る。
「妻は嫌がっていたよ。最初は心配しているだけだった。見えない友達の話ばかりする娘を見て、不安になったんだと思う。けれどそのうち、娘があの子の話をするたびに顔色を変えるようになった。そんな子はいない、雨の日に窓の外を見てはいけない、森へ行ってはいけない、と何度も言っていた。私は、それも母親としての心配だと思っていた。娘を守りたいだけなのだと」
男はそこで一度言葉を止めた。食堂には雨音だけが残る。長いテーブルと並んだ椅子、その向こうで窓を叩く雨まで含めて、さっきまでと景色は何も変わっていないはずなのに、男が語るたびに、この部屋の空気だけが少しずつ古い記憶で満たされていくような気がした。ラルトスは俺の腕の中でじっと男を見ていたが、何かを読み取ろうとしているのか、それとも読み取れないまま聞いているのかは分からない。ただ、男が妻の話をした時だけ、ほんの少し身体を強張らせた。
「私は父親だったのにね」
男はぽつりと言った。
「娘が楽しそうに話すものを、ちゃんと見ようとしなかった。妻が怯えていたものにも、ちゃんと向き合わなかった。二人の間で何が起きていたのか、気付こうとすれば気付けたのかもしれないのに、私はどちらにも曖昧な顔をしていた。娘には、あの子の話をしてくれてありがとうと言い、妻には、心配しすぎだと笑った。今思えば、それは優しさでも何でもなかった。ただ、何も選ばなかっただけだ」
俺は何も言えなかった。目の前の男は怒っているわけではない。泣いているわけでもない。けれど、その言葉の一つ一つは、ずっと自分に向けて繰り返してきた罰みたいに聞こえた。
「ある雨の日だった。娘は朝から落ち着かなかった。日記にも書いてあっただろう。つぎは、わたしがみつけるばん、と。娘は本当にあの子を探しに行くつもりだったんだと思う。妻はその日、いつもより静かだった。娘が森へ行くと言い出した時も、強く止めなかった。私は少し驚いたけれど、妻もようやく落ち着いたのだと思った。娘の空想を無理に否定するのをやめたのだと、都合よく考えた」
男の手がテーブルの上で僅かに握られる。
「それが間違いだった」
静かな声だった。けれど、さっきまでよりずっと重かった。
「娘は森へ行き、そして、帰ってこなかった」
喉が詰まる。日記がそこで終わっていた理由を、俺はもう聞く前から分かり始めていた。それでも、男の口から語られると逃げ場がない。お菓子のことも、本のことも、あの子とのかくれんぼも、全部その日へ向かっていたみたいに思えてしまう。
「捜したよ。近所の人たちも手伝ってくれた。雨の中で名前を呼んで、森の道も、川の近くも、木々の奥も捜した。妻も泣いていたよ。私はその姿を見て、同じように娘を失った母親だと思っていた。そう思いたかったんだろうね。見つかったのは三日後だった。森の奥で、娘はもう動かなくなっていた」
その言葉が落ちた瞬間、食堂の雨音が遠くなった気がした。死んだ、とは言わなかった。けれど意味は分かった。俺は日記を抱えたまま、何も言えずに立ち尽くす。ラルトスも黙っていた。小さな手が俺の服を握っている。
「最初は事故だと思われた。雨で足を滑らせたのかもしれない。迷って帰れなくなったのかもしれない。そう考えるしかなかった。私もそう思おうとした。けれど、後になって知ったんだ。妻は、あの日のことを知っていた。娘がどこへ向かったのかも、なぜ森へ行ったのかも、全部知っていた」
男の声は震えていなかった。震えないほど、同じことを何度も何度も思い返してきたのだと思った。
「妻は言ったよ。あの子は森にいると娘に教えたのだと。娘はそれを信じて森へ入ったのだと」
頭の中で日記の最後が重なる。
つぎは、わたしがみつけるばん。
あの一文が、さっきまでとは違うものに見えた。女の子は怖い場所へ向かったのではない。友達を探しに行ったのだ。きっと信じていた。見つけられると思っていた。
「奥さんは……どうしてそんなことを」
聞かずにはいられなかった。男はしばらく黙った後、ゆっくり首を横に振る。
「娘を守るためだと言っていた。あの子に連れて行かれる前に、自分が守らなければならなかったのだと。けれど、私には分からなかった。守るとは何だろうね。娘の笑顔を奪うことが守ることだったのか。娘を信じていた友達から遠ざけることが守ることだったのか。森へ誘い出すことが、母親の愛だったのか」
最後の言葉だけ、男の声がかすれた。
俺は息を呑む。
言葉の先に何があるのか、分かりたくなかった。けれど、もう分かってしまっていた。男もそれ以上を直接は言わなかった。言わなくても伝わった。娘を森へ誘い出したのは母親だった。そこから先に何が起きたのかを、この男は知っている。知っていて、ずっと抱え続けている。
「私は父親だった。娘があの子の話をするたびに笑っていた顔も、妻がその話を聞くたびに強張らせていた顔も、どちらも見ていた。それなのに何もしなかった。妻を止めることもできず、娘を守ることもできず、後になってすべてを知ってからも、何一つ取り返せなかった」
男はテーブルの上に置いた手を見つめていた。そこには何もない。けれど、その手には何か取り返しのつかないものがずっと残っているように見えた。
「妻はその後、姿を消した。どこへ行ったのか、私は知らない。探すべきだったのかもしれない。責めるべきだったのかもしれない。けれど私は、娘の部屋へ行くことも、妻の部屋へ入ることもできなくなった。ただ、この家に残されたものを見て、何度も同じことを考えた。あの日、私が娘の手を掴んでいれば。妻の目をちゃんと見ていれば。あの子の話を、空想だと決めつけなければ」
その声は静かだった。けれど静かすぎるからこそ、長い時間の中で削られていったものが見えた気がした。怒りではなく、悲しみでもなく、ただ後悔だけが残っている。そんな声だった。
「君は、あの子を見たのかい」
不意に聞かれて、俺は言葉に詰まった。見た、と言えるのか分からない。足音を聞いた。赤い文字を見た。同じ絵に戻された。シロナが消えた。でも、あの子そのものはまだ見ていない。
「分からない。でも、何かがいるのは感じてる。シロナも消えた。俺はその人を探してるんだ」
「そうだね」
男は頷く。
「なら、子供部屋へ行きなさい」
「子供部屋?」
「ああ。そこには、まだ残っているはずなんだ。娘が最後まで持っていたものか、それともあの子へ残したものか、私にもはっきりとは分からない。けれど、あそこにはまだ終わっていないものがある」
「そこにシロナがいるのか」
俺が聞くと、男は少し目を伏せた。
「それは分からない。けれど、君が進むべき場所はそこだと思う。ここで私の話を聞いているだけでは、君の探している人は戻ってこない」
その言葉に胸が痛む。確かにそうだった。俺はシロナを探している。目の前の男の話は重く、聞かずにはいられなかったけれど、立ち止まっている時間が長くなるほど、シロナは遠くへ行ってしまう気がした。
「……分かった。子供部屋へ行く」
日記を抱え直し、ラルトスを見る。ラルトスはまだ不安そうだったが、小さく頷いた。俺は食堂の出口へ向かいかけて、どうしても聞き残したことがある気がして振り返る。あの子のこと。娘のこと。妻のこと。この男自身のこと。聞かなければいけないことはまだいくつもあった。
けれど、食堂には誰もいなかった。
長いテーブルと並んだ椅子、その向こうで窓を叩く雨だけが残っている。ほんの少し前まで男が座っていたはずの場所には、初めから誰もいなかったみたいに空っぽの椅子があるだけだった。
「……は?」
声が漏れる。
食堂は広い。隠れる場所なんてない。出口は俺たちのいる場所だけだったはずだ。それなのに、男の姿はどこにもなかった。ラルトスも驚いたように食堂を見回している。誰もいない。本当に誰もいない。窓の外では雨が降り続いていて、その音だけがやけにはっきりと耳に残った。