繋がりの王者   作:宵取与一

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9話

食堂を出た瞬間、男の話を聞いている間だけ薄れていた不安が再び胸の奥で大きくなる。

 

 シロナはまだ見つかっていない。

 

 あの男は何者だったのか。本当にそこにいたのか。聞きたいことはまだ山ほどあったはずなのに、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。

 

 俺は抱えていた日記を持ち直す。

 

「行こう」

 

 ラルトスへ声を掛けると、小さく頷く気配が返ってきた。

 

『……まだ、いっぱい』

 

 弱々しい声が頭の中へ響く。

 

 洋館に漂う感情は相変わらずぐちゃぐちゃらしい。悲しみも怒りも不安も後悔も全部混ざり合い、どれが誰のものなのか分からなくなっているのだろう。

 

「無理するな」

 

 そう言って歩き出す。あれだけ洋館の中を歩き回ったのに、今は不思議なくらい迷わない。曲がり角を一つ抜けても、階段を上がっても、見覚えのある景色が素直に繋がっていき、まるで何かに導かれるように気付けば子供部屋の前へ立っていた。

 

 シロナがいる保証なんてない。それでも、あの男が最後に示した場所はここしかなかった。

 

 扉の前で一度だけ呼吸を整え、ゆっくり取っ手へ手を掛ける。

 

 部屋の中は前に見た時と変わらない。小さなベッド、机、本棚、壁に飾られた子供の絵。窓の向こうでは相変わらず雨が降り続いている。その見慣れた景色の中で、ベッドの横へ座り込む人影だけが目を引いた。

 

 金色の髪が見えた瞬間、心臓が大きく跳ねる。

 

「シロナ!」

 

 ベッドの横へ駆け寄る。

 

 金色の髪も、黒いコートも見間違えるはずがなかった。その姿を見た瞬間、シロナが消えてから胸の奥へ張り付いていた不安が少しだけ軽くなる。もう二度と会えないんじゃないか。考えないようにしていただけで、そんな不安はずっと消えていなかった。

 

「シロナ!」

 

 肩へ手を掛ける。

 

 けれど返事は返ってこない。

 

 胸の奥がざわつく。

 

 まさかという考えが頭をよぎり、慌てて肩を揺するが、それでもシロナは目を覚まさなかった。

 

「おい、シロナ……」

 

 呼吸はしている。怪我もない。それなのに起きない。その事実が余計に不安を大きくした。

 

 ーーどうして起きない?

 

 ーー何があった?

 

 さっきまで隣を歩いていたはずなのに、今のシロナはまるで人形みたいに動かない。何度名前を呼んでも反応は返ってこず、考えれば考えるほど嫌な想像ばかりが頭に浮かんでくる。

 

「シロナ……」

 

 呼び掛ける声も、さっきまでみたいな勢いはなかった。

 

 その時だった。

 

 ラルトスがゆっくり近付いてくる。俺の隣へ立つと、シロナを見つめたまま動かなくなった。何かを確かめるような沈黙が続き、その数秒がやけに長く感じられる。

 

『……だいじょうぶ』

 

 ようやく響いた声は小さかった。

 

 俺は反射的に顔を上げる。

 

『いきてる』

 

 ラルトスは小さく頷いた。

 

『ねてるだけ』

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸を締め付けていた重苦しさが少しだけ薄れる。

 

 シロナは生きている。

 

 その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。

 

『……いる』

 

 その直後だった。

 

 ラルトスの視線がゆっくりと部屋の奥へ向く。

 

『いる』

 

 小さな声だった。

 

 けれど、その一言だけで背筋を冷たいものが走った。

 

 ラルトスの視線を追う。

 

 クローゼットの横、薄暗い影の中に何かがいた。最初に見えたのは赤い目だった。

 

 次の瞬間、影の中からゆっくりと姿が現れる。その姿を俺は以前図鑑で見て知っていた。

 

 ーーゲンガーだ。

 

 紫色の体に大きく裂けた口、鋭い赤い瞳。見た目は図鑑で見たものと同じはずなのに、目の前のゲンガーはまるで別物に見えた。全身から漂う空気が重い。まるで部屋そのものがゲンガーの感情に染まっているみたいだった。

 

 ゲンガーは何も言わない。ただじっとこちらを見ているように見えた。けれど、その赤い瞳が向いていたのは俺じゃない。その視線は俺の後ろ、眠ったままのシロナへ向いていた。

 

 目を覚まさないシロナと洋館で起きていた怪異、そして今目の前にいるゲンガー。その全部が頭の中で繋がった気がした。

 

「……お前がやったのか」

 

 気付けばそう口にしていた。

 

 ゲンガーの目がゆっくり俺へ向く。

 

 その赤い瞳には確かな敵意があった。なのに不思議だった。俺を睨んでいるはずなのに、その視線はどこか焦っているようにも見える。まるで大切な何かを奪われまいとしているみたいだった。

 

 雨音だけが響く張り詰めた静寂の中、視界が黒く遮られる。

 

「えっ」

 

 思わず声が漏れた。

 

 いつの間にかクチートが俺の前へ立っていた。低く唸りながらゲンガーを睨み続けている。

 

 俺は何も言っていない。まだ指示も出していない。それなのにクチートは迷いなく前へ出ていた。

 

「クチート……?」

 

 呼び掛けても反応はない。まるで俺の声なんて聞こえていないみたいだった。

 

 雨音だけが響く張り詰めた静寂の中、次の瞬間、ゲンガーの姿が掻き消える。

 

「っ!」

 

 一瞬見失う。

 

 ーーどこだ?

 

 そう思った時にはもうクチートが横へ飛んでいた。直後、黒い影がさっきまで立っていた場所を通り過ぎる。着地と同時に後ろの顎を振り抜いた。

 

 “アイアンヘッド”

 

 鋼色の光を纏った一撃がゲンガーへ叩き込まれる。

 

 けれど当たらない。

 

 ゲンガーの体は霧みたいに崩れ、そのまま天井近くまで浮かび上がった。

 

「クチート!」

 

 クチートは振り返らない。ただゲンガーだけを見ていた。その背中は小さいはずなのに、不思議と普段より大きく見える。まるで俺を守るためだけにそこへ立っているみたいだった。

 

 ゲンガーの周囲へ黒い光が集まり始める。何をしようとしているのかは分からない。けれど、見ているだけで嫌な予感がした。

 

「避けろ!」

 

 叫ぶ。けれどゲンガーの方が早かった。放たれた黒い球体は一直線にクチートへ向かって飛んでいく。

 

 クチートは避けようとしなかった。

 

 むしろ前へ出る。

 

「なっ……!」

 

 一瞬、何をしようとしているのか分からなかった。避けられるはずだった。なのにクチートはそうしない。

 

 ーーどうして避けない。

 

 ーーどうして前に出る。

 

 俺の声が届くより早く、黒い球体がクチートへ直撃した。

 

 轟音。

 

 小さな体が大きく吹き飛ばされる。

 

「クチート!」

 

 部屋の端まで弾き飛ばされたクチートは、そのまま勢いよくクローゼットへ激突した。木が割れる音が響き、扉が砕け、積み上がっていた荷物が次々と床へ崩れ落ちる。その中から一枚の紙がふわりと宙へ舞い上がった。

 

 それは雨漏りの風に煽られながら部屋を横切り、ゲンガーの足元へ落ちる。

 

 その時だった。

 

 ゲンガーの動きが止まる。

 

「……え?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 さっきまで俺たちを襲っていたゲンガーは、その場に立ち尽くしたまま動かない。黒い光も消えている。ただ足元を見つめていた。何が起きたのかは分からない。けれど、あの紙が落ちた瞬間に何かが変わったことだけは分かった。

 

 俺も思わず視線を向ける。

 

 落ちていたのは一枚の絵だった。子供が描いたような拙い絵。その中には小さな女の子と一匹のゲンガーが並んで描かれている。二人は手を繋ぎ、楽しそうに笑っていた。

 

 ゲンガーは絵を見つめたまま動かなかった。まるで、その絵以外の全てが見えなくなってしまったみたいに。

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