ゲンガーは絵を見つめていた。
さっきまで俺たちへ向けられていた敵意も、今はその一枚へ吸い寄せられているようだった。クチートは壊れたクローゼットの傍で身を起こそうとしている。シロナは眠ったまま動かない。誰も動けずにいる中、ラルトスだけがゲンガーと絵を見比べていた。
『……よめない』
小さな声が頭の中へ響く。ラルトスは首を横へ振ったあと、ゆっくりと視線を下ろした。向けられた先はゲンガーではない。足元へ落ちた絵だった。
手を繋いで笑う女の子とゲンガー。ラルトスはそこから目を離さなかった。何かを探しているように見えたその視線は、やがて何かを確かめるようなものへ変わり、小さく息を呑むとそっと手を伸ばす。
「ラルトス」
呼び掛ける。返事はない。指先が紙へ触れた瞬間、小さな肩が大きく震えた。思わず足が前へ出る。けれど途中で止まった。ラルトスは手を離さなかったからだ。震えながらも絵へ触れ続け、俯いたまま動かない。やがて頬を伝った涙がぽろりと床へ落ちる。
『……たのしい』
かすれた声だった。ラルトス自身が何かを話しているというより、誰かが残した言葉をそのまま拾い上げているように聞こえる。
『いっしょ』
また涙が落ちる。
『また、あした』
その瞬間、ゲンガーの肩がぴくりと動いた。ほんの僅かな動きだった。けれど確かに動いた。赤い瞳がラルトスへ向く。ラルトスは気付かない。涙を流したまま続ける。
『また、あそぶ』
『もっと、いっしょ』
『また、さがす』
一つ一つの言葉は短い。けれど聞いているうちに、ただの言葉ではなくなっていく。楽しそうな笑い声。走り回る足音。見つからないように息を潜める気配。そんなものまで一緒に零れ落ちてくるようだった。
抱えていた日記へ視線が落ちる。また遊ぶ。次は自分が見つける番。雨の日に遊びに来る「あの子」。ページを捲る度に出てきた文字が頭の中へ浮かぶ。ラルトスの口から零れる言葉とよく似ていた。視線を上げる。ゲンガーはまだ絵を見ている。けれど、さっきまでとは少し違った。一度だけ絵から顔を逸らし、数秒もしないうちにまた戻る。また逸らす。けれど今度も長くは続かない。結局また絵へ視線が戻る。手を繋いで笑う女の子。また遊ぶという言葉。日記の中に残されていた約束。そのどれからも目を背けようとしているのに、背けきれないように見えた。
『だいすき』
ラルトスがそう呟いた瞬間、ゲンガーが一歩後ろへ下がる。床板が小さく軋んだ。それは俺たちを襲っていた時には見せなかった反応だった。ゲンガーの大きな口が僅かに開き、何か言い掛けるように動く。けれど声は出ない。閉じる。また開く。それを繰り返しながら、それでも視線だけは絵から離れなかった。
『……また、あした』
ラルトスの声はさっきより小さかった。雨音だけが静かな子供部屋へ落ちる中、誰も動かない。ただゲンガーだけが絵を見つめ続けていた。
その視線を追うように、俺も抱えていた日記へ視線を落とす。何度も読んだページだった。それなのに、今はさっきまでとは違って見えた。
ページを開く。
そこに書かれているのは変わらない。
今日もあそんだ。
またあそぶ約束をした。
つぎはわたしが見つける番。
雨の日に遊びに来る「あの子」の話。
何度も読んだはずの文字を目で追いながら、俺はゆっくり顔を上げる。絵の中では女の子とゲンガーが手を繋いで笑っている。そしてラルトスの口から零れる言葉も同じだった。
『いっしょ』
『また、あそぶ』
『だいすき』
ーー全部同じだ。
日記も、絵も、ラルトスが受け取った気持ちも、どれ一つ違うことを言っていない。そこにあるのは楽しかった思い出ばかりだった。かくれんぼをして、一緒に遊んで、また明日も会う約束をする。日記の中の女の子はそれを当たり前みたいに書き残していて、絵の中でも隣にいるゲンガーへ笑い掛けている。
ゲンガーはまだ絵を見ていた。一度だけ顔を逸らす。けれど数秒もしないうちにまた戻る。また逸らす。それでも戻る。その度に大きな口が僅かに動き、何かを言い掛けては止めるみたいに開いて閉じた。
お父さんの話を思い出す。
【妻はゲンガーを嫌っていた】
【窓の外を見るな】
【森へ行くな】
【娘を守りたかったんだと思う】
その言葉と目の前の日記は別に矛盾していない。むしろ、だからこそ見えてくるものがあった。
ーーお母さんだけだったんだ。
ゲンガーを嫌っていたのは。
日記の中にはそんな言葉はどこにもない。絵の中にもない。ラルトスが拾い上げる気持ちの中にもない。
『また、あした』
小さな声が響く。
ゲンガーの肩が震える。
女の子はゲンガーと遊びたかった。また会いたかった。また一緒にかくれんぼをしたかった。その気持ちは日記にも絵にも残っている。ラルトスが拾い上げる言葉も同じだった。なのにお母さんは違った。【妻はゲンガーを嫌っていた】という言葉が頭を過る。娘を守ろうとしていたからこそ、ゲンガーを遠ざけようとしていた。
雨音が静かに響く。
ラルトスはまだ涙を流している。
ゲンガーはまだ絵から目を離せない。
そして俺の頭の中では、今まで別々だった話が少しずつ繋がり始めていた。